round6『復讐するは我にあり』

                            第二部

  俺の一日はメイドに揺り起こされてはじまる。
 「ご主人様、もう午後一時ですよ。私は出勤時間なのでそろそろ出ます。お昼ごはんはラッ
 プをかけてテーブルに置いておきましたので、今日も一日、就職活動頑張ってください
 ね!」
  布団から這い出る元気のない俺は、適当に返事をしてそのうしろ姿を見送る。昨晩も深夜
 アニメの実況やYourFileHostでのエロ動画漁りに忙しかったため、まだ脳が睡眠を要求して
 いた。というわけで、二度寝。
  ようやく充電が完了したのが午後六時。社会人ならばさてこれから時間外労働に従事する
 か、という時間帯である。
  たたんだ布団を部屋の隅に押しやって、すっかり冷めてしまった昼食にありつく。
  入院期間中に胃袋が縮んでしまったのか、近ごろはカスミが用意したザ・昭和の食卓とい
 った風情の素食でも、すぐに満腹になった。
  食欲が満たされると次に沸いてくるのが性欲だ。ズボンを下ろした状態でパソコンの電源
 を入れ、OSが起動すると即座に昨晩保存したファイルをクリック。
 「らめえええええ! こくまろミルク出ちゃうのおおおおお!」
  同居人の不在をいいことに、真っ昼間から半狂乱家族日記である。
  あっという間にヘブン状態に達し、起床から一時間も経たずに、人間の三大欲求のうちふ
 たつを解消。お肌つやつやになったのである。
  レフトハンド奏法(そんなものはない)によって煩悩をしりぞけた俺はハイパー賢者タイ
 ムに突入。畳の上から腰を上げる気力もないまま、ひたすらギコナビの新着レス表示をクリ
 ックしたり、暇つぶしに「巨乳のメイドさんといっしょに暮らしてるけど何か質問ある?」
 系のスレッドを建てたりして時間を浪費した。ちなみにスレは百レスちょっとで落ちた。
  そんなことをしているうちに、カスミが仕事を終えて帰宅した。時刻は午後十時半を回っ
 たところだ。
  両手に百円ショップのビニール袋を提げたカスミが、狭い内玄関から微笑みかけてくる。
 「ただいま戻りました。なにかいいお仕事は見つかりましたか?」
  読んでいるふりをしていた求人情報誌を閉じて、かぶりを振る。
 「いいや、どこも不景気で経営が苦しいらしくてな。まったく、就職するのも楽じゃない」
 「そうですか……でも大丈夫! ご主人様なら、きっとすぐに素敵なお仕事に出会えます
 よ。学歴も申しぶんないですし、高いコミュニケーションスキルも在学中に証明済みですも
 の!」
 「あ、当たり前だ。俺を誰だと思ってやがる!」
  もはや誰でもないのだが、そのことについては禁則事項です。
  こうして今日も一日が過ぎていく。
  どこまでも非生産的に、ニートさながらに惰眠をむさぼる日々。
  一銭の稼ぎもないまま、カスミとの共同生活は二週間目に突入しようとしていた。


  さかのぼること一週間まえ。俺はカスミに連れられてこの安アパートにやってきた。
  中央線沿線をひたすら歩き、小学生にグラフィティの真似事をさせたらこうなりますよ、
 という見本のようなイラストがびっしり描きこまれたガードを抜け、たどり着いたのが中野
 区一丁目。
 かつては大木戸さんも店をかまえていた庶民の街が、俺の新たなホームタウンだ。
 「少しオンボロですけど、目をつぶってくださいね」
  カスミにそう紹介されたアパートは、ところがオンボロなどという騒ぎではなかった。
  剥げかかったプレートに刻印された物件名は『花田荘』。
  高度経済成長期の名残りを感じさせる白塗りの外壁には郵便ポストが六つ。添え物程度に
 隣接された庭には雑草が野放図に広がり、古びた自転車が野ざらしになっている。路地に面
 していない三方は同じくらいの背丈の一軒家に囲まれ、日照条件も最悪だ。
  今にも崩落しそうな外階段を上がると、風雨を防ぐためのトタン製の外板。窮屈な廊下に
 は使いものになるのか疑わしい洗濯機、各部屋の扉は叩けば割れそうな木材でできていた。
  ココハトキワ荘デスカと問いたい俺の心中を表情で察したのか、カスミがむっとした顔つ
 きになった。
 「あ、今心の中で馬鹿にしましたね? これでもけっこう家賃は高いんですよ。なんと言っ
 ても中野ですからね。一等地なんです」
  これで一等地って……。
  そのときほど住む世界の違いを実感したことはなかった。
  もっとも、これからは俺もこっち側の住人なのだが。
  カスミが二○二と書かれた表札の前で立ち止まり、ドアノブに鍵を挿し込む。
 「私が間借りしている部屋はこちらです」
  蝶つがいが金切り声をあげ、カスミは慣れた手つきで壁に取りつけられた電気のスイッチ
 を押した。暗闇に縁取られていた部屋がその正体を現す。
 「今日からここが、俺の新居……」
  キッチンが併設された廊下を渡り、六畳ほどの居間に踏み込む。
  壁際にはアンティーク風の化粧台に、古びたタンスと冷蔵庫。ところどころ編み目が破れ
 た畳には座布団と、星一徹が泣いて喜びそうなちゃぶ台が鎮座している。テレビはもちろん
 ブラウン管、固定電話は今時珍しいダイヤル式だ。スペースを圧迫しないためか、寝具は部
 屋の隅に重ねられていた。
 「まさかこれほどとはな……たいした倹約家だ……」
  めくるめく最低限の文化的生活の予感。それでも一応無線LANが通っているらしく、
 ちゃぶ台の上にノートパソコンが置かれているのが唯一の救いだ。
 「大丈夫なのか? この家は」
  防音設備なんてあるはずもなく、壁に耳を当てると隣の部屋の生活音が聞こえてきた。柱
 もコンクリートではないし、耐震強度とかいろいろ心配だ。
  生活レベルの低さに気が遠くなりそうだった。俺が暮らしていたマンションとは天地の差
 だ。贅を尽くした生活に慣れ親しんだ俺は、はたしてこの家でやっていけるのだろうか。
 「ベランダはどうなっている? 空き巣とか入らないだろうな」
  カーテンを開けようとすると、カスミが顔を赤くして俺の腕にしがみついてきた。
 「み、見ちゃダメ! まだ下着干したままなんですから!」
 「なにを言っている。これからいっしょに住むんだろう? 下着くらい見たって別に……」
 「私だって女なんですから、そのへんは察してくださいよう。と……とにかくっ! 洗濯は
 私がしますから! ご主人様はベランダに立ち入らないでくださいね! 掃除炊事洗濯、私
 の得意分野ですっ!」
  もっと恥ずかしいことをしておいて、今さらなにを恥ずかしがる必要があるのかと思った
 が、まぁいいだろう。家事全般、カスミに押しつけ決定。
 「気を取り直して」
  小さく咳払いをして、カスミは俺に握手を求めた。
 「狭くて古い部屋ですけど、半年間はここにいてくださってけっこうですから。短い間です
 けど、これからよろしくお願いしますね、ご主人様」
  俺は今このときより同居人となった女の手を強く握り返し、答えてやった。
 「ふん。こんなボロ屋敷、すぐに職を見つけて出ていってやるさ。おまえの世話になるのは
 それまでだ」
  虚勢を張ったつもりだった。本当はこれからどうしていいのかわからず、不安でたまらな
 かった。就職活動なんてしたことがないし、それにまだ、俺はシゲルさんに裏切られた事実
 を受け入れられないでいたのだ。
  それでも、不思議と。
 「そうですね。きっとそうなるって、信じてます」
  カスミの笑顔を見ていると、本当にやれそうな気がしてくるから不思議だった。
  これが俺たちの共同生活のはじまり。
  それから一週間は、思った以上にあっという間だった。


  俺は就職情報誌を脇にどけて、真っ昼間からオンラインゲームに興じていた。
  カスミのノートパソコンはあまり動作環境が快適とはいえず何度か買い替えを訴えたが、
 質素倹約が骨までしみついたカスミは、頑として首を縦に振らなかった。今日も今日とて、
 処理落ちとの戦いだ。
  画面上では複数名での会話が進行しているため、映画のエンドロールのような速度でチャ
 ット用のウィンドウがめまぐるしくスクロールした。平日の昼間にも関わらず、ネットは暇
 な連中であふれ返っている。
  仲間だと思っていた現実の友人に愛想を尽かされ、今となってはオンラインの友人だけが
 俺の心のよりどころだ。肩を叩きともに笑い合った連中より、名前も知らず、顔さえも知ら
 ない彼らのほうが俺を必要としてくれるなんて、皮肉な話だ。
  タスクバーのアイコンが明滅して、ウィンドウに新たな一行が追加される。

  hikashuの発言:
  おにゃのこの家に居候とかウラヤマシスwこれで魔法使いにならずに済みますね!
  satosixの発言:
  なんという童貞の発想。しかし勃起不全の俺は夜這いできないのであった\(^o^)/
  hikashuの発言:
  ワロタwwwその歳でEDとかwww病気に負けず強く生きろよ^^

  うしろめたい話題も笑いの種にできるのは、匿名の気安さゆえだろうか。
  忌むべき勃起機能障害のおかげで、かれこれ二十三年近くも童貞の称号を守り通している
 俺だが、カスミを治療の足がかりにしようという考えがないわけではなかった。
  というか、この家に来て真っ先に考えたのがそれだった。


  カスミとの共同生活。その記念すべき一日目に、俺はさっそく彼女に奉仕を要求した。
  意識を取り戻してからというもの、目まぐるしい環境の変化を受け入れるのに精いっぱい
 ですっかり忘れていたが、半年間の入院生活のおかげで、俺は我慢の限界、いうなれば性欲
 の過充電状態にあったのだ。
  ――今なら、この爆発力の助けを借りて、病気を治すことができるのではないだろうか。
  そう目論んでいたのだが、カスミはいつぞやのように、俺の要求に徹底抗戦のかまえだっ
 た。俺が彼女の肩に手をかけても、いやよいやよと身をよじって逃げようとするのだ。
 「おい、おまえは俺のメイドなんだろう? だったらご主人様の命令は――」
  腹が立って強引に跪かせようとすると、脇腹に針のようなちくりとした痛みを覚えた。
  その直後、比喩でもなんでもなく、俺は雷に撃たれた。
 「あばばばばばばばばばばばばばばばばばばばば!!!!!」
  全身に激痛が走り、俺は頭から煙を出してその場に倒れ伏した。
  痙攣する顔の筋肉を必死で動かしてカスミを見上げると、彼女の両手には、バリカンのよ
 うな見たことのない機械が握られていた。
 「ち、痴漢撃退用のスタンガンです! 十万ボルトです!」
  それは過大申告だろうと思ったが、確かに威力は抜群だった。
 「いいですか、ご主人様。よく聞いてください。いただいたお給料のぶん、私は半年間きっ
 ちり働きます。ですがそれはあくまで身の周りのお世話の話です。エッチなことをしようと
 したら、今度からはこうですからね、こう!」
  こう、と言ってスタンガンの先端に青い火花を散らすカスミ。そんな危険物で脅されて
 は、逆らう気など起きるはずもない。
  ……どうやら俺の童貞卒業は、もうしばらく先になりそうだった。

  夕刻になると、和気あいあいと談笑していたゲーム仲間たちが続々と退席していった。
  画面上のアイコンが立て続けに消えていく様は、放課後にいっしょになって遊んでいた友
 人たちが塾やらお稽古やらで一人また一人と去っていった小学生時代を思い起こさせる。大
 学を卒業してから小学生のような毎日を送っているなんて、笑えない冗談。
  次第にやることがなくなって、俺は畳の上に大の字に寝転んだ。
  このところ、こんな生活がずっと続いている。狭い部屋とネットの中だけが生活圏とな
 り、あとは与えられた餌を食って寝るだけの、ペット同然の生活。
  これでは俺とカスミ、どちらがご主人様なのかわかりやしない。
  本当はこんなことをしている場合ではない。職を探し、家を探し、親父を探して、シゲル
 さんのたくらみを暴く手立てを考えなくてはならない。
  頭ではそう理解していても、身体が動かなかった。
  なにもやる気が起きない。昏睡状態から目覚めた俺を待ち受けていた裏切りに次ぐ裏切り
 は、俺から生きる気力を奪うのにじゅうぶんだった。
  黒ずんだ天井に、夕陽が窓の模様を作っていた。今日も一日が終わろうとしている。
  むなしさが顔を出すまえに、さっさと眠ってしまおうと思った。


  ある日、俺はふと思い立ってカスミを尾行することにした。
  俺が事故を起こし入院したことで職を失ったカスミは、その後この中野の街にアルバイト
 を見つけ、引っ越してきたのだという。
  毎日正午過ぎに出勤して深夜に帰宅する彼女だが、どんな仕事をしているのかと訊ねる
 と、なぜかいつも口をつぐんでしまう。俺は再三に渡って尋問を繰り返したが、彼女は接客
 業ですと答えるのがせいぜいで、結局いつまで経っても口を割ろうとしなかった。
  カスミに勤まりそうな接客業など深夜のアルバイト以外想像できなかったが、勤務時間か
 らすると、どうやらそうではないらしい。俺はこのグズでのろまな女がどんな職業に就いて
 いるのか興味をそそられた。
  午後一時。カスミがいつものように俺を起こしてアパートを出ていく。
  俺は光の速さで野球帽を目深に被り、サングラスと新聞紙で私立探偵ルックに変身完了。
 時間と距離を置いて、尾行を開始する。
  カスミは商売道具が入っているのであろう紙袋を肩から提げ、一軒家と安アパートに囲ま
 れた狭い路地を高円寺方面に歩いていく。
  俺は犬の散歩をしている主婦や近所の専門学校生に不審人物を見るような目で見られなが
 らも、電柱や飲み屋の看板に身を隠しながら、常にターゲットと一定の距離を保って尾行を
 続けた。
  住宅地を通り抜け、脇道からサンモールに入る。
  低価格が売りのチェーン店が両サイドにずらりと並ぶ商店街は、平日の昼間から活気を帯
 びていた。カスミのうしろ姿を見失わないように人の群れを避け、頭上に不気味な太陽が輝
 くアーケードを進んでいく。
  やがてアーケードの終点で、カスミの背中は中野ブロードウェイの入口へと吸い込まれて
 いった。
 「確かにここなら、接客業の求人なんて掃いて捨てるほどあるだろうな」
  中野のシンボル、ブロードウェイ。
  かつては居住区画に青島幸男や沢田研二が暮らしていたことでも知られるこのショッピン
 グセンターには、中野のごった煮文化を象徴するかのように、ありとあらゆる商店が軒を連
 ねている。地下には主婦のための、一階には一般大衆のための、二階より上には大きなお子
 様のための店がひしめき合う。
  これまで庶民の盛り場にはあまり縁のない生活を送ってきた俺だが、ブロードウェイには
 フィギュアの購買目的で何度か足を運んだことがある。いつ来ても身なりの汚いオタク連中
 で賑わっていてカオスだ。ヒルズやミッドタウンとは大違い。
  カスミは直通のエレベータを使って、三階のヲタゾーンに足を踏み入れた。各店舗の軒先
 に展示されているセル画や同人誌、六地蔵のように並ぶガシャポンの自販機はなかなか盛観
 だ。つい見とれてしまい、カスミを見失いそうになる。
  しかし、カスミのやつは本当にこんなところで働いているのか?
  カスミを追ってしばらく歩くと、一軒だけ外に長蛇の列を作っている店舗が目についた。
  似たような店があちこちに点在するブロードウェイにあって、従業員が通路に出て客を誘
 導するほどの人気店は珍しい。
 「すみません、通してください! すみません!」
  カスミが紙袋を両腕に抱え、小走りに列に割り込む。周囲からおおっ!という歓声が上が
 り、彼女はぺこぺこと頭を下げながら店内に消えていった。まるで出待ちのファンから避難
 する芸能人だ。
  どういうことだろう。ここがカスミの新しい職場なのだろうか。店の入り口には、『メイ
 ドカフェ・涅槃』と書かれた蛍光色の看板が掲げられているが。
  入場待ちの客たちはお祭り騒ぎだ。お母さん産んでくれてありがとう、みたいな表情で、
 互いの顔を見合わせている。よく見ると、リュックサックやバンダナ、ケミカルウォッシュ
 のジーンズで武装した、ステレオタイプなオタクばかりだ。
 「あの……すいません。これはいったい、どういうアレで?」
  異様な光景に多少怖じ気づきながら、最後尾に並んでいた客に訊ねた。
  するとほかの客が身を乗り出してきて、嬉々として語りはじめた。
 「おやや? はじめて涅槃に来られた方ですかな? ふふん、まるっとお見通しですぞ〜!
 あなたもホームページでカスミたんの宣材写真を見て、癒されに来たクチでしょう!」
  やけにテンションの高い男だった。誰だこいつ。
 「カスミたんは中野の女神、いわゆるヴィーナスですからな〜! 彼女は今や、病んデレ系
 メイドのアオイたんを抑えて、押しも押されぬ涅槃のナンバーワン。彼女が働きはじめてか
 らというもの、お店の売上はうなぎ登りだそうです。わたくしも週に一度はカスミたんのご
 尊顔を拝まないと、心が干からびてしまいますよ〜」
  頼んでもいないのに、よく喋るアフロだ。彼の連れらしき小太りのメガネも、隣でハゲド
 ウハゲドウと相槌を打っていた。
 「なるほど、そういうことか……」
  数々の疑問が、ぱらぱらと音を立てて氷解していく。
  カスミがアルバイトについて語りたがらなかったのは、俺が職場に押しかけてきて、アイ
 ドル同然に祭り上げられた自分の姿を目撃されるのが恥ずかしかったから。俺をベランダに
 立ち入らせなかったのは、洗濯物の中にメイド喫茶の制服がまじっていたからだ。
  口を開けて関心していると、店内から男の低い声が響いてきた。
 「カスミちゃん入りまーす。みなさん拍手でお出迎えくださーい」
  それを聞きつけて、列を成していたオタクたちが廊下に面した窓ガラスに殺到する。
  俺も負けじと首を伸ばして、店内の様子をうかがった。
  この喫茶店の店長らしき、不精ひげを生やした金髪の男。左手に拡声機を持って立つその
 男の背後に、メイド服を着たカスミの姿があった。
  彼女は丁寧に各テーブルにお辞儀をして回り、すべての客に分け隔てない笑顔を振りまい
 ていた。客は待ってましたとばかりに、温かい拍手で彼女を迎える。
  俺はしばらくその光景に見とれていた。
  いや、しばらくなんてものじゃない。ずっと見とれていた。
  客が入れ替わり立ち替わり、廊下で待機していたオタクたちが一人残らず店内に収容され
 てもなお、窓ガラスに貼りついて、カスミが働く姿を外から見守り続けた。
  グズでのろまなあのカスミが、オタクたちの熱いまなざしを一身に集め、額に汗して労働
 に従事している。
 
  はっきり言って、美しい光景だった。心が漂白されるようだった。
  俺にはすぐにわかった。カスミは愛想を振りまいているんじゃない。どの客にも誠心誠
 意、心の底から笑顔を振りまいているのだと。

  ――見慣れたはずのメイド服を着たカスミの姿が、少しだけ輝いて見えた。

 「お客様、テーブル空きましたよ。入るんですか? 入らないんですか?」
  ふと声をかけられて振り向くと、さっきの金髪の男が隣に立っていた。エプロンにつけら
 れたバッヂに、加藤と名前が書かれている。
 「……いえ、今日は帰ります。また来ます」
  名残惜しさはあったが、そう答えて店の前を離れた。
  いつまでも腐っているわけにはいかないと思った。やけに晴れ晴れとした気分だ。
  胸が高鳴り、足を急かした。その勢いのまま駆け出して、電車に飛び乗る。
  長い休暇は今日で終わりだ。俺にはやるべきことがある。
  あのカスミにできて、俺にできないはずがない。


  六本木に天を突くかのごとくそびえ立つ、六十階建てのタワービル。
  その下層部は高級レストランや専門店が並ぶ、小金持ちのためのショッピングフロア。中
 層は新興IT企業から金融機関まで、業界の覇権を狙う大金持ちのためのオフィスフロア。
  そして上層は、この国を動かす特権階級のための遊技場であり、社交場だ。
  大理石でできているんじゃないかと思える廊下を渡りエレベータに乗り込むと、俺は迷わ
 ず中層部を目指した。ヒエラルキーの頂点に手をかけた男に会うために。
  目的のフロアでは、お人形のような受付嬢が俺を待ちかまえていた。
 「社長を呼べ。やつに用がある」
  道場破りさながらの勢いで、すました顔の受付嬢を睨みつける。
 「失礼ですが、どちら様ですか? アポイントを取られていない方はお通しできません」
  さすが有名企業の門番だ。簡単には動じない。
 「夏身の息子が来たと言えばわかる。さっさと取り次いでくれ」
  それから俺に来賓用の通行証が手渡されるまで、一分とかからなかった。
  受付嬢に案内されて、社長室に通される。
  はじめて訪れた地上四十階の特等席は、ソファから書棚にいたるまで、品のいいインテリ
 アで彩られていた。カスミのアパートとは大違いだ。
  広々とした空間に、人影はひとつ。
  男は俺に背を向け、窓から地上を見下ろしている。俺のことなんてまるで相手にしていな
 いかのような、堂々とした態度。ナメた態度。
  静けさの中で、男と対峙する。
 「なにをしに来た?」
 「ケンカを売りに」
 「……ほう。それは興味深いな」
  男はメガネの縁に手を添えて俺に向き直る。そのまま無言で革張りの椅子に座り、用件を
 聞かせてもらおうか、とばかりに艶光りするデスクに両肘を乗せた。
  俺は決意をこめて仇敵に語りかける。
 「ケンカって言ってもただのケンカじゃないぜ。地位と名誉をかけた、戦争だ」
 「面白そうじゃないか。詳しくお聞かせ願いたいね」
 「俺はわがままに育てられたからな。やられたらやり返さないと気が済まない性質なんだ。
 わかるだろ? 目には目を、ってやつさ。だから決めたんだ。復讐者には復讐を、だ」
  男の顔つきが変わる。
  メガネの奥に光るのは、投資信託会社の若き社長の目ではない。自分に仇なさんとする敵
 を討つ、狩猟者の目。
  指を突きつけ、宣戦布告する。
 「シゲルさん……いや、シゲル。あんたがどういうつもりで俺たち親子を陥れたのか、俺に
 はわからない。だけどな、これだけはわかるぜ。俺は負け犬に成り下がるのはごめんだって
 な。二度と幸福は与えない? そんなの知ったことか」
  それが俺が出した答え。現実逃避はもう終わり。また一から、俺の未来図を描いていくん
 だ。
  デスクに歩み寄り、相手の出方をうかがう。シゲルは眉ひとつ動かさず、ただ貫くような
 鋭い視線を俺にそそいでいた。
 逃げも隠れもしないか。いいだろう。相手にとって不足はない。

 「シゲル、俺はあんたに復讐する。つぶしてやるよ。あんたも、この会社も、どっちもだ」

 「やれやれ、無職風情がよく吠える。やれるものならやってみたまえ」
 「やってやるさ。全力でな」
  たとえどれだけ時間がかかろうとも、必ずだ。
  俺はもう振り返らない。
  兄のように慕った男はもういない。いるのは俺を天国から地獄に突き落とした裏切り者だ
 けだ。
  裏切り者には、それ相応の罰を与えなくてはならない。
  神がやらないというのなら、俺がやってやる。
  ――這い上がってやるさ。這い上がって、今度は俺がお前を地獄に叩き落としてやる。
  狩るか狩られるか、勝負だ。


  カスミのアパートに帰る途中、質屋に立ち寄った。
  誕生日に親父が贈ってくれた腕時計を売り飛ばすのは胸が痛んだが、シゲルに宣戦布告し
 てしまった以上、後には引けない。
  苦渋の選択のすえ、俺は事故の後も手もとに残っていた最後の私物を売却した。それと引
 き換えに得た財産は百五十万円。開戦直後の軍資金としては、まずまずの額だろう。
  ついでに店頭で無料配布されている求人情報誌をコンプリートした。なにをするにおいて
 も、まずは仕事だ。
  あのカスミだって頑張って働いている。きっと俺にだってできるはず。
  すっかり重くなってしまった腰を、上げるべき時が来たのだ。
  中野の街を歩いていると、ふと少年漫画じみた言葉が頭に浮かんだ。
  俺は決意を込め、秋の夜空に向けてつぶやいた。
 「さあ、俺の戦いはここからだ」
≪prev round                             next round≫

≪top≫

inserted by FC2 system