round5『そして誰もいなくなっちゃった』

  精密検査と一晩の療養を経て、俺は退院の日を迎えた。
 「半年間、お世話になりました」
  医局長と名乗る初老の男から授けられた花束を抱えて、儀礼的に頭を下げる。
  担当の医師や手の空いた看護師の多くがロビーに集まり、拍手とともに俺を送り出してく
 れた。誰が用意したのか、ご丁寧に横断幕まで用意されていた。
  みんな晴れ晴れとした顔をしている。俺の新しい門出を祝ってくれているのか、それとも
 手のかかる患者が消えて病室に空きができることを喜んでいるのか。いずれにせよ、主役で
 ある俺の心は空虚そのものだった。
  退院したところで、これからどうしろというのだ。金も家もないんじゃ、裸で砂漠に放り
 出されるようなものだ。
  重い足取りで病院の玄関を抜けると、そこにも一人、満面の笑みで俺を待ちかまえている
 者がいた。
 「ご主人様、退院おめでとうございます」
 「ああ、出迎えご苦労」
  ざっと周囲を見渡してみたが、退院の報せを聞いてこの場にやってきたのはカスミだけの
 ようだった。大学の連中には散々うまい汁を吸わせてやったというのに、どいつもこいつも
 薄情者ばかりだ。
  かつての召使いを従えて、病院に併設された公園を歩く。頭上に燦然と輝く九月の太陽
 と、木々の隙間から吹きつける生暖かい風が、病み上がりの身体に嫌がらせをした。
  肩のうしろから、暗澹たる俺の胸中など知りもせずに問いかける声。
 「これからどうします?」
 「そうだな、とりあえず……」
  半年の入院期間中にすっかり痩せてしまった腹部をさすりながら、振り返る。
 「飯でも食いに行くか」

  鉄板から立ち昇る湯気のむこうで、カスミは得意げな笑顔を見せた。
 「退院祝いということで、今日は私の奢りです! さ、ご主人様もご馳走が冷めないうち
 に、早く早く」
 「ご馳走って、おまえ……これ」
  テーブルの上に所狭しと並ぶイタリア料理は一見すると豪勢だが、その内訳は、角切り
 カットステーキと地中海風ピラフ、採りたてキャベツのペペロンチーノ、半熟卵のミラノサ
 ラミとハムのピザ、田舎風ミネストローネにソーセージとポテトのグリル。二人合わせて、
 しめて二千四百八十三円也。
  俺が常日ごろ食べていた三ツ星級のイタリア料理と比べれば、頬が引きつるほどの価格破
 壊だ。
 「カスミよ。貴様は俺を侮辱しているのか?」
 「え、ご主人様はサイケデリヤはお嫌いですか? 奮発したつもりだったんですけど」
  うんざりする。業務用冷凍食品の山がご馳走とは、庶民感覚というのはおそろしい。
  それでも空腹は最大の調味料という言葉のとおり、一度手をつけると止まらなくなった。
 ほとんど味覚を刺激されなかった病院食よりもはるかにメシウマだ。三十分も経つころに
 は、俺はグルメ時代到来といったフードファイターぶりで、米粒ひとつ残さず料理をたいら
 げていた。
  食事を終えると、一息つく間もなくカスミが俺をつらい現実に引き戻した。
 「今後のこと、ちゃんと考えてらっしゃるんですか……?」
  押し黙ることしかできなかった。
  取り急ぎ俺がすべきことは、大別して三つ。
  職と宿を探して当面の生活を安定させることと、雲隠れした親父の捜索。
  そしてシゲルさんを告訴し、巨額の横領を立証すること。
  頭の片隅ではそうわかってはいるものの、シゲルさんの裏切りが発覚してからなかば放心
 状態でここまで来てしまったため、今後の見通しなんてまるで立っていなかった。
  それにこの期におよんでなお、俺にはどうしても信じられない。あの優しかったシゲルさ
 んが、俺たち親子を騙し続けていただなんて。
 「それにしても、どうしてこんなことになってしまったんでしょう……」
  テーブルに視線を落として表情を曇らせるカスミ。
  彼女はシゲルさんのことを知らない。多くの無知な一般市民同様、親父の自己破産は不可
 抗力だったと信じている。夏見英一は罠にはめられたのだと知っているのは、この世で俺と
 シゲルさんだけだ。
  俺はここでカスミに事件の真相を打ち明けるのは得策ではないと判断した。
  というより、プライドがそうさせなかった。信頼していた男に全財産を奪われたなんて知
 れたら、俺たち親子の沽券に関わる。
 「安い店はどうも落ち着かないな。場所を変えるか」
  今後の展望はひとまず保留とし、俺たちは席を離れた。
  領収書を持ってレジの前に立つと、財布を開こうとする俺の手をカスミが制止した。
 「今日は退院祝いですから、私の奢りですってば」
 「ふん、誰が貧乏人の施しなど受けるか。この場は俺に任せろ」
  そう言って財布の中身を確認し、俺は絶句した。
 「だ、だから言ったじゃないですか……」
  おととい東京と軽井沢を往復したせいか、俺の手持ちは極端に少なくなっていた。そうで
 なくとも、卒業パーティの夜にばらまき行政的に散財したばかりだ。クレジットカードはと
 っくのむかしに失効しており、小銭もスズメの涙ほどしか残っていない。
 「ご主人様はもうセレブじゃないんですから。お金は大事にしてください」
  あわれむようなカスミの言葉に反発心をあおられ、俺は一目散に出入口へと駆け出した。
 「あっ、ちょっと! どこに行くんですか、ご主人様!」
 「金をおろしてくるんだよ! そこで待ってろ!」
  カスミを店に置き去りにして、道沿いにATMを探し求める。
  キャッシュカードの有効期限はまだ切れていないはずだ。貧乏人に情けをかけられたとあ
 っては、セレブの名折れだ。腐ってもおまえら貧乏人とは違うのだということを、カスミに
 誇示してやる必要がある。
  ようやく見つけた銀行で残高を照会し、愕然とした。
  オンラインゲームのRMTや卒業パーティなど、なにかと金が要り用だったおかげで、通
 帳の中身はほとんどからっぽだ。かろうじてファミレスの代金を払う程度の額は残されてい
 るものの、先行きが見えない現状では、一銭も無駄にはできない。
  預金を全額引き落としても、俺の全財産は五千円あまり。二千五百円の出費は、手痛いと
 言わざるを得ない。
  かといって、このまま引き返すという選択肢もなかった。おめおめと店に戻ってカスミに
 頭を下げるのは、かつての雇い主としての矜持が許さない。奴隷に情けをかけられるのはご
 めんだ。
  屈辱的な気分で、ATMに八つ当たりの蹴りをお見舞いする。
 「クソがっ……今に見てろよ!」
  俺はわずかばかりの金を握り締め、銀行から、そしてカスミから逃げ出した。


  カスミが追いかけてきても見つからないよう人ごみに身を隠し、先送りにしていた今後の
 方針について考える。
  問題は山積みだが、優先すべきは夜露をしのぐ場所を確保することだ。はからずも既卒の
 無職となってしまった俺だが、いかにシゲルさんといえども、コネと学歴までは末梢できま
 い。生活資金を貯えるのは、仮の住まいを見つけてからでもいいだろう。
  そのために、俺は親しい大学関係者の家を、手当たり次第に訪ねて回ることにした。
  連中には、一朝一夕には返せないほどの恩を売りつけてある。俺に宿泊を要求されれば、
 そう簡単に拒みはしないはずだ。うまくすれば、一週間くらい面倒を見てくれるやつもいる
 かもしれない。
 「まずはスネ夫からだな」
  俺は携帯電話のアドレス帳から、イベントを主催する度に司会を任せていた下級生の名前
 を探し出し、駅に向かって歩き始めた。

  才能も知恵もないが、媚びへつらうことにかけては一人前の男、通称スネ夫。半年まえま
 で俺の威を借りまくっていた狐は、大学近くのマンションに居をかまえていた。
 「おひさしぶりッス先輩。お父さんのこと、ニュースで見ましたよ。大変ッスね〜!」
  玄関先で俺を迎えたのは、福笑いのおかめみたいな、相変わらずの卑賤な笑顔だった。
  スネ夫には小遣い稼ぎをさせてやっただけでなく、俺にむらがる女たちを何度となく分け
 与えてやった。こいつは俺に頭が上がらないはずだ。
 「宿泊先を探しているんだ。事情はおまえも知っているだろう? とりあえず部屋に上げて
 くれ。積もる話もあるしな」
  スネ夫は頭の裏をかいて視線を泳がせた。
 「あ〜、すんません。それはちょっと無理ッスね。今日は女が遊びに来てるんで」
  俺に口ごたえするとは、スネ夫のくせに生意気だ。
 「ならさっさと女を帰らせろ。俺の話が聞けないのか?」
 「悪いけど聞けませんね。話なら、また今度にしてもらえますか」
  ぞんざいな口のきき方が癪に障り、俺はスネ夫を睨みつけた。
 「おまえ、いつからそんなに偉くなったんだ? 俺がいったいおまえにいくら稼がせてやっ
 たと思っている」
 「その節はお世話になりました。だけど、それとこれとは別ッスね」
  ゴマをするのと太鼓を持つのだけが取り柄の男が、いつになくふてぶてしい。
  玄関のたたきを挟んで、俺たちの間にぴりぴりとした空気が流れる。
 「ちょっとぉ〜、なにモメてんの〜?」
  スネ夫の背後からやけに間延びした女の声が聞こえてきて、険悪なムードに水をさす。
  それに対するスネ夫の返答はこうだった。
 「待ってて。すぐ済むから」
  かちんときた。
  こんな小者に馬鹿にされて黙っていられるほど、俺はお人好しじゃない。
 「おいおまえ、ふざけるのもほどほどにしろよ」
  詰め寄ろうとした途端にスネ夫の腕が伸びてきて、俺を廊下に弾き出した。
 「ふざけてんのはアンタだろ」
  体勢を失ってコンクリートの地面に尻餅をつく。
  顔を上げると、冷ややかな目が俺を見下ろしていた。
 「こっちはね、ハナからアンタに感謝なんてしてないんスよ。そっちは金を与えて体よく俺
 たちを利用していたつもりかもしんないけど、利用されてたのは自分のほうだって、いいか
 げん気づけよ。みんな言ってましたよ? 先輩はいい金ヅルだって」
  スネ夫の露骨な態度の変化に、俺は動揺を隠せなかった。
 「う、嘘だ……」
 「嘘だと思うなら、実際に自分の目と耳で確かめてみたらどうですか。もっとも、付き合う
 うまみがなくなったアンタのことなんて、誰も相手にしないと思いますけどね」
  そう言ったが最後、スネ夫は俺に目もくれずに部屋の扉を閉めてしまった。
  内側から鍵をかけられ、俺は廊下に締め出された。
  誰もが俺をカリスマと仰ぎ慕う。華やかなりしあの日々は、虚構だったのだろうか?
  俺は呆気にとられたまま、しばらくその場を動けなかった。

  携帯電話のアドレス帳を、片っ端から当たっていった。
  ゼミの同級生から親交のあったサークルの代表者、果てには一度も関係を結ぶことなく捨
 てた女まで、しらみつぶしに電話をかけ、メールを送信し、連絡がついた場合には直接家ま
 で訪ねた。
  スネ夫の言葉を認めたくなかった。意識を失おうが、財産を失おうが、俺は今でも凡人た
 ちの尊敬と崇拝の的だ。そう信じたかった。
  だけど現実は俺に無残な結果を突きつけるだけだった。一晩だけでも泊めてほしいという
 俺の頼みに耳を貸す者はなく、それどころか、ひどい場合には俺の番号は着信拒否に設定さ
 れていた。
  中にはスネ夫同様、心ない言葉で俺を責める者もいた。
 「悪いけど、俺もう社会人だから、無職の貧乏人と遊んでいる暇はないの。わかる?」
 「アンタさぁ、自分が最低の人間だっていう自覚ないわけ? 金がなくなったアンタなんか
 と、誰が好き好んで仲よくするのよ」
 「あ、サトシ生きてたんだ。意識不明の重体だったんじゃないの? あのまま死ねばよかっ
 たのに」
  五月雨のごとく降りそそぐ罵詈雑言が、俺のヒットポイントを削っていく。
  そして死に体の俺に、とどめの一撃が浴びせられる。
 「アンタもう終わってんだよ。みんな金が尽きたらサヨウナラだ。用済みなんだよ」
  通話を終えて、見知らぬ公園のベンチで肩を落とす。
  空模様は夜の入口。路上ミュージシャンが爪弾く『天国への階段』のメロディーが哀愁を
 誘った。
  まったく、金の切れ目が縁の切れ目とはよく言ったものだ。こうもあっさりと手のひらを
 返されるななんて、想像もしなかった。
  俺の魅力は金でもコネでもない、俺自身にある。今の今まで、そう信じて疑わなかった。
  なんのことはない。憧れのまなざしは俺ではなく、俺が身につけていた装飾品にそそがれ
 ていたというわけだ。肝心の俺個人には、みんな見向きもしていなかったのだ。
  これまでの人生を全否定された気分だった。
  俺は誰からも必要とされていないのだろうか……?
  いや、そんなはずはない。
  俺を必要としてくれるであろう人間に、わずかだが心当たりがある。
 「頼むぞ。出てくれよ……」
  俺は神に祈る気持ちで、携帯電話の通話ボタンを押した。


  新宿に店舗移転したバー『マサラ』は、甲州街道の裏通りに看板をかまえていた。
  人が二人すれ違うのがやっとという幅の狭い雑居ビルの階段を上がり、木製の扉を開く。
  すると俺を迎えてくれたのは、聞き慣れた鈴の音ひとつ……ではなく、賑やかな笑い声だ
 った。
  俺は我が目を疑わずにはいられなかった。旧店舗では打ち捨てられた廃墟さながらだった
 マサラの店内に、スーツ姿の客があふれ返っているではないか。
 「やぁ、サトシくん。席空けておいたから、こっち来て座りなよ」
  カウンターの奥から微笑む大木戸さんまでもが、以前とはまるで別人だった。だらしない
 天然パーマは相変わらずだが、疲れきった表情は面影もない。今は活き活きと輝いて、若返
 ったかのような印象すら受ける。
  ここは本当に、全席空席がデフォだったマサラなのだろうか。俺は少々の疑念を抱きつ
 つ、大木戸さんがリザーブしてくれた椅子に腰を落ち着けた。
 「何ヵ月もまえに送信したメールに、今日になって突然返事が来るんだから驚いたよ。まさ
 かサトシくんが入院していたなんて、思いもしなかったしね」
 「ごめん。目が覚めてすぐに連絡できればよかったんだけど、いろいろと混乱しててさ」
 「とにかく無事でなにより。今日は退院祝いだ。好きなだけ飲んでいくといい」
  深手を負った心に、大木戸さんの優しさがしみた。
  俺たちはただの店主と客。深く干渉しないドライな関係だが、だからこそそこに安心が生
 まれる。
 「それにしても、万年自転車操業だった大木戸さんの店が、新宿に移転した途端に大盛況と
 はね。俺はまだ病院のベッドの中で、夢でも見ているのかって気がするよ」
 「あはははは。殴るぞ」
  そう言ったきり、大木戸さんは忙しそうに接客に戻ってしまった。
  俺はアルバイトの店員にカクテルを注文し、ここで落ち合う予定の人物を待った。
  事情を知らない者の目には、場に不釣り合いなTシャツ姿でしきりに腕時計と店の入り口
 に視線を往復させる俺は、さぞかし不審に映っていることだろう。
  待ち人の名はカンナ。彼女は俺に残された、最後の希望だ。
  さきほどの電話では彼女はどこかそっけなかったが、おそらく照れ隠しだろう。俺にく
 びったけだったあの女が、俺の頼みを断るとは考えにくい。
  それに彼女は俺との同衾を望んでいた。頭を下げれば、一晩でも二晩でも部屋を貸し与え
 てくれるに違いない。
  カンナは待ち合わせの時刻に二十分遅れてやってきた。上下は細身のパンツスーツ、化粧
 も学生時代よりかなりおとなしくなっているが、男なら誰でも後ろ髪ひかれるであろう艶め
 かしさは変わらない。
  頼みの綱となった女の登場に、俺は思わず立ち上がった。
 「カンナ、遅かったじゃないか! 心配したん――」
  そこまで言いかけて息をのんだ。
  俺の記憶にはない、険しい表情のカンナ。
  そしてその背後には、同じく険しい顔をした、俺の引き立て役――タケシの姿があった。


  イワシの群れのような人波にのまれながら、行くあてもなく夜の繁華街をさまよった。
  不景気だか世界恐慌だか知らないが、右へ左へ流れていく人々の顔は幸せそうに見えた。
  誰も俺なんかには目もくれない。一度だけスクランブル交差点で金髪の若い男と肩がぶつ
 かったが、そいつは俺の顔を見ると気味悪そうに尻尾を巻いて逃げていった。すれ違いざま
 に男の連れが「なにあれ。病人じゃん」とつぶやいたのを、俺は聞き逃さなかった。
  俺はそんなにひどい顔をしているだろうか? 病み上がりには違いないが、昼飯はたらふ
 く食べたし、頬がやつれるほどじゃない。
 「今日は別れを告げにきただけだから」
  カンナが開口一番に叩きつけてきた言葉が、店を出た今も耳の裏側で残響している。二十
 二年と十一ヶ月の人生において、俺は星の数ほどの女をフッてきたが、フラれたのは生まれ
 てはじめてだった。
  呆然とする俺を尻目に、カンナは左手の指輪を光らせながら言った。タケシと結婚するの
 だと。まえからサトシには付き合っていられないと思っていた、本当に大切なものがなんな
 のか、それに気づかせてくれたのがタケシだった――いかにもカンナらしい芝居じみた安っ
 ぽいせりふだが、真顔でそんなことを言われては、こっちは閉口するしかなかった。
  カンナの一人舞台の袖で、タケシは申し訳ないとたった一言、本当に申し訳なさそうな顔
 で頭を下げるのみだった。
  それに対するカンナのフォローはこうだった。
 「こんなやつに謝る必要なんてないよ。こいつのせいでタケシは何ヵ月も苦しいリハビリ生
 活を送ることになったんじゃん。それにどうせ、こいつは私たちのことを自分の引き立て役
 くらいにしか思ってないよ。今だって、頭の中じゃ私たちに見捨てられることよりも、泊ま
 る場所がなくなることを心配してるに決まってる。自分以外の人間なんてどうでもいいの
 よ、この男は」
  図星すぎてぐうの音も出なかった。
  もう会うこともないから。さようなら。そう言って店を出ていく二人の姿を、俺は呆気に
 取られて見送ることしかできなかった。すがる思いで大木戸さんを見たが、彼もまた首を横
 に振るだけだった。
  これでいよいよ俺は一人になった。今晩からは宿なし、金なし、仕事なしの三重苦だ。
  ふと空を見上げると、判を押したような月が煌々と輝いていた。
  星はいい。地球には地球、月には月の進むべき軌道が、ちゃんと設定されている。俺にい
 たっては帰るべき場所もたどるべき道筋もなく、人生は真っ暗闇だ。
  街頭テレビのスクリーンには、シゲルさんが映っている。
  俺を地獄に突き落とした男は、人のよさそうな笑顔でニュース番組のインタビューに答え
 ていた。
 「今、国民は先行きの見えない生活に不安を感じています。内部留保を必死に守ろうとする
 企業や行政の怠慢で、街は職や家を失った人間であふれ返っている。経営者には、身を切っ
 て彼らを助ける義務がある。私は本年度から、経営権を持つ企業に個人的に出資し、中途採
 用枠の拡大に尽力しています」
  シゲルさんの言葉に、スタジオ内からは惜しみない拍手が贈られた。
  彼らは知らない。聞こえのいいせりふの裏に、彼の手によってすべてを失った、俺という
 犠牲者がいることを。
  埋めようのない空白を胸に抱えたまま、俺は夜の街を徘徊し続けた。

  気がつくと、俺は病院近くの公園に戻ってきていた。
  時刻はとうに深夜二時を回っていて、噴水の水は止まり、虫たちも息をひそめている。背
 の低い茂みを塀にして張られた青テントからも、物音ひとつ聴こえてこない。財布の中身が
 底をつけば、俺もいずれは彼らの仲間入りだ。
  こんなことなら退院なんてしなければよかった。入院患者のままでいれば、衣食住は保障
 されていたのだから。いっそのこと当たり屋でもして出戻ってやろうかとすら思う。
  ベンチに腰掛けて足の疲れを癒していると、なぜか急にカスミの顔が浮かんだ。
  俺にきつく当たられても、不平を言わずについてきたカスミ。レストランに置き去りにさ
 れて、今ごろ彼女はどうしているだろう。
  ふと声が聞きたくなったが、俺は彼女の電話番号を知らなかった。たとえ連絡先を知って
 いたとしても、彼女もほかの連中同様、俺を相手にしないだろう。所詮はご主人様と召し使
 い。金で繋がった関係なんて、そんなものだ。
  いや、カスミに限った話じゃない。
  結局俺は、見せかけだけの愛情や友情を、金で買っていたに過ぎない。その証拠に、俺は
 こうして夜中に公園のベンチで時間をつぶしているのだから。
  ふいに嗚咽がこみ上げてきた。
  誰にも見向きされないことが、こんなにつらいなんて。
  金がなくなるだけで、こんなにも簡単に涙が襲ってくるなんて。
  ――俺に手を差し伸べてくれる人間は、もはやこの地球上のどこにも存在しない。
  そう思ってあきらめかけた、そのときだった。

 「ご主人様!」

  顔を上げた先に、息を切らし立つカスミの姿。
  ベンチから腰を浮かせて、俺は濡れた両の瞼を必死でこすった。
  胸を弾ませて俺に駆け寄ってくるカスミ。その光景が信じられなかった。夢か幻でも見て
 いるのだと思った。
  だけどそのどちらでもなかった。俺の肩を力強く抱き締める腕の感触、そのぬくもりは、
 まぎれもない現実だった。
 
 「カスミ、どうしてここに……?」
 「なに言ってるんですか、一日中探し回ったんですよ! ご主人様がこのままいなくなって
 しまったらどうしようって、私……本当に心配したんですからね!」
  肩越しに聞こえる声は震えていて、怒っているのか泣いているのかはっきりしない。
  カスミはそっと腕を解いて、突然のことに動けずにいた俺に優しく語りかける。
 「行くところがないのなら、お仕事が見つかるまで私のアパートに来てください。狭い部屋
 ですけど、ちゃんと布団も用意してありますから」
  手が差し伸べられた瞬間、心臓のあたりが熱くなった。
  しかし、俺は素直にその手を握り返すことができなかった。
 「なんでだよ……おまえはもう、俺のメイドじゃないのに……」
  もう俺には彼女を雇う金はない。財産を失った時点で、金で繋がっていた俺たちの関係は
 とっくに破たんしている。
  それに俺は、口に出すのもはばかられるような奉仕を彼女に強要させた。それも一度や二
 度じゃない。彼女が逆らえないのをいいことに、幾度となく権力を振りかざし、鞭を振るっ
 た。
  彼女は俺が憎くはないのだろうか?
  俺の質問に、カスミは暗闇をかき消すような笑顔でこう答えた。

 「半年ぶんのお給料、先にいただいちゃいましたから」

  はっとして親父が訪ねてきた日のことを思い出す。
  奉仕をかたくなに拒むカスミに、カンナや親父にまとわりつくクソババアのことで苛立っ
 ていた俺が、怒りに任せて叩きつけた札束。あのとき、俺は半年ぶんの給与と引き換えに、
 彼女を屈伏させたのだった。
  この女は馬鹿だと思った。そんなこと黙っておいて、金を持ち逃げすればよかったのに。
 ほかの連中みたいに、俺を見捨てることだってできたのに。
  そんなことにも気がつかないなんて、このメイドは正真正銘の馬鹿だ。
  馬鹿すぎて、涙が出てくる。
 「あれ、どうしたんですか?ご主人様」
  慌ててその場にへたりこみ顔を伏せると、頭上からこっちの気なんて知らない、馬鹿な質
 問が飛んできた。
 「うるさい……いいからさっさと案内しろ」
 「はい、喜んで。いっしょに帰りましょう」
  差し出された小さな手を取り、俺は立ち上がる。
  風が冷えた夜の街を、二人並んで歩いて帰った。


  かくして、俺とメイドの半年間の共同生活が始まったのだった。
≪prev round                                           next round≫

≪top≫
inserted by FC2 system