round17『家政夫は見た!』

  俺は今、なぜかハルカと二人でファミレスにいる。
  終電の時間もとっくに過ぎ、店内には俺たちとフリーター風の店員をのぞけば、始発待ち
 のサラリーマンくらいしかいない。スピーカーから慎ましい音量で垂れ流される定番のクリ
 スマスソングが催眠作用を持っているのか、俺と店員以外はみんなおとなしく眠っていた。
  シゲルに見放されて意気消沈していたハルカも、今はすっかりおやすみだ。俺の前で無防
 備に寝姿をさらすなんて、よほど精神的にまいっていたようだ。
  普段は常に気を張っているこの女も、寝顔は意外と可愛いものだ。目を覚ましたら、俺が
 寝ている隙にイタズラをしたりしない紳士でよかったな、とからかってやろう。
  シゲルにクビを言い渡されたこととやつの黒い素顔を知ったことで、彼女は相当ショック
 を受けていた。立ち直るにはしばらく時間がかかるかもしれない。目が覚めたときに、俺の
 冗談に付き合ってくれる元気が残っていればいいのだが。
  人生とは、どうしてこうもうまくいかないのだろう。
  あの鬼畜メガネを盲信していたハルカがクビにされて、本来ならやつの敵であるはずの俺
 が、皮肉にも今は渡貫家で家政夫をしている。
  労働という側面だけを切り取ってみても、人生はおかしなことだらけだ。
  ふと、懐かしい記憶がよみがえった。まだ俺が小学生にもなっていないころの話だ。
  俺は両親に手を引かれて、家族三人で軽井沢にあった別荘の近所を散歩していた。当時は
 頭の悪い小金持ちがようやくバブルがはじけたことを悟りはじめたころで、あちこちで建物
 が壊されたり新しく建てられたりしていた。
  その日も通りがかった道の近くにたまたま工事現場があり、俺はそこでなんとなく足を止
 めた。幼き日の俺には、粉々になったコンクリートを轟音をたててすくい上げるショベル
 カーが、鋼鉄の腕を持つ巨大ロボットのように見えたのだ。
  ショベルカーを操縦する運転手を、子供心にかっこいいなと思った。
  僕も将来、工事をするおじさんになりたい。
  工事現場の過酷さなんて知りもしない当時の俺は、目をきらきらさせてそう言った。
  すると親父は、大きな手で俺の頭を撫でてこう言ってくれた。
  ――なんだってできるさ、おまえは俺の息子なんだからな。
  その日から交通事故を起こして病院で目を覚ますまで、俺は本気でなんだってできると信
 じていた。十数年間も、長い長い夢を見ていたのだ。
  ひとつとしてなりたいものになれぬまま、俺はこうしてここにいる。
  現実を知るまえの俺は強かった。
  ――でも、本当は今だって、俺はなんでもできるんじゃないのか?
  ビルの屋上で、俺やヒカリと同じ理由で人生に嫌気がさした連中と出会った日から。
  ヒカリのために働くと決めて、シゲルに頭を下げた日から。
  そんな思いが、胸の奥でくすぶり続けている。
  こう考えずにはいられない。
  生きるってなんだろう。働くって、いったいなんなんだろう。


  それからあっという間に一ヶ月が過ぎた。
  カスミは相変わらず、一日の大半を自宅の屋上にある空中庭園で過ごしている。
  ヒカリは病院を追い出されて自由が丘のマンションに帰ってきたが、依然として心を閉ざ
 したままだ。援助交際をしないかわりに、一歩も部屋から出ようとしない。
  ハルカは正式にシゲルの会社から解雇され、今は手当を切り崩して生活をしているらし
 い。たまに様子が気になって電話してやると、「恋人でもないのに電話してこないで」とす
 げない返事だ。シゲルに見放されたことがまだ尾を引いているらしく、あまり熱心に就職活
 動をしているようには感じられなかった。
  俺は俺で、家政夫としてシゲルにあごで使われる変わり映えのない生活をしている。
  世界は今日も動いているのに、俺たちの時間は止まったままだ。
  このまま意味をなくしたカレンダーの日付だけが更新されていくのだと思っていた。
  思いがけない人物から電話がかかってきたのは、一月最後の休日だった。


  夕方、外出したがらないヒカリのかわりにスーパーの食料品売り場で食材を見繕っていた
 ときのことだ。
  激安ジーンズのポケットの内側で、休日は滅多に鳴らない携帯電話が震えた。
  野菜を選ぶ手を止めて画面を見ると、番号は非通知に設定されていた。
 「はいもしもし、どちら様でしょう?」
 「どちら様だと思う? ヒントは並外れた美貌と頭脳を持つアジアンビューティー」
  あいにく条件に当てはまる知り合いはいなかったが、正解にはすぐに思い当った。
  懐かしさと驚きのあまり、俺は外にいるのも忘れてつい大声で問い返した。
 「もしかして、浪子か!?」
 「ピンポーン! たったこれだけのヒントでよくわかったわね、ジャリニート」
 「そんな嘘だらけのヒントを出すのはおまえくらいだ。それにもうニートじゃねぇよ」
 「あらそうなの? 人って時間が経つと変わるのねぇ。お姉さん感激だわ」
  電話のむこうでしみじみとうなずく浪子の姿が目に浮かぶようだった。
  十ヶ月以上まえ、短い書き置きだけを残して単身渡米した浪子。
  聞きたいこと、言ってやりたいことが山ほどあった。
  俺は携帯電話を耳に当てたまま、食材を積んだカートをゆっくりと押してゆく。
 「急にいなくなったかと思えば、今になって電話してきやがって。用件はなんだ?」
 「ああうん。実は今、ある人といっしょにラスベガスのホテルにいるの。誰だと思う?」
 「クイズはもういいから、さっさと言えよ」
 「もう、ひさしぶりに電話したのに冷たいなぁ」
  相変わらずの人を食ったような態度。
  俺はジンとグレナデン・シロップを切らしていたのを思い出し、酒類のコーナーに立ち寄
 ったところだった。
 「あんたの親父」
 「親父がどうかしたのか?」
 「あんたの親父といっしょにいんのよ」
  へーそうかそうかと生返事をしてすぐ、俺は手に取った酒瓶を落としかけた。
  慌てて酒瓶を棚に戻し、携帯電話のマイクに怒鳴る。
 「親父と会ったのか!? いつ、どこで!?」
 「ついこのまえ。カジノですっかり意気投合しちゃってさ。東京に連れて帰るから来週の日
 曜日空けといてね〜」
 「ちょっと待て、おまえ親父とどこにいるっつった?」
 「ごめん、これ国際電話だからそろそろ切らないと! じゃ、そういうことでヨロシク!」
 「あっ、おいちょっと待――」
  ブツン、と音を立てて通話は切れてしまった。
  マイペースな女はこれだから困る。用件だけを一方的に伝えて、質問する間を与えない。
  携帯電話をジーンズのポケットにしまい、俺は深くため息をついた。
  話が唐突すぎて、喜びよりも戸惑いが先に来る。
  今さら親父に会ってどうしろというのだ。
  俺は気持ちの整理をひとまずあとに回し、さっさと買い物を済ませることにした。


  翌週の日曜日、俺は浪子からの呼び出しで成田空港に赴いた。
  国際線のロビーで二人を見つけるのは簡単だった。大混雑の中でひときわ目を引く、派手
 な装いの年の差カップル。それが親父と浪子だ。
 「ごきげんよう。元気してた?」
 「今すぐ親父から離れろ。でなければ俺は帰る」
 「チッ、相変わらず冗談の通じないジャリね」
  ぶすっとした表情で親父の腕に絡めた手をほどく浪子。愛人の真似もこいつがやると冗談
 に見えない。まさか本当にデキているのでは、と勘繰ってしまう。
 「ひさしぶりだな、マイサン」
 「ああ。もう一生会えないかと思っていたよ」
 「馬鹿言え。夏見英一は不滅だ」
  指輪だらけの拳で俺の胸板を軽く叩き、親父はにんまりと笑ってみせた。
  およそ二年ぶりに再会した親父は、最後に俺のマンションで会ったときとちっとも変わっ
 ていなかった。少なくとも外見上はそう見えた。純白の歯と漆黒のサングラス、灰色に染ま
 った長髪も当時のままだ。
  たとえどんな不幸が起きようと、ロックンローラーは魂と身なりだけは腐らせてはならな
 い。親父の口癖のひとつに、そんな言葉があった。
  財産を横取りされ国外逃亡の憂き目に遭っても、親父は信念を貫いている。
  こうして合流した俺たちは、空港内のレストランで積もる話をした。
  親父は現在、ロスに住む友人の家を拠点としてアメリカ各地を飛び回っているそうだ。親
 父の音楽のルーツを探る旅で、日本での活動再開に向けた下準備らしい。
 「築き上げてきたものをすべて失って、今一度原点に立ち返ることができた。そういう意味
 でシゲルには感謝している。次に出すアルバムは、間違いなく夏見英一の最高傑作だ」
  無邪気な少年のようにそう語る親父を、俺は心底かっこいいと思った。
  親父は俺と違って、無一文になっても泣きごとひとつ言わない。それどころか、自分を裏
 切った腹心の部下に感謝しているとまで言う。日本中にファンがいるわけだ。
  浪子はしばらく見ない間にハリウッドセレブの仲間入りを果たしていた。はじめはとても
 信じられなかったが、現在はギャンブルで稼いだ金を元手にデトロイトの再生事業に携わっ
 ているらしい。人間、どこで転機が訪れるかわからないものだ。
 「さて、これからどうする?」
  三人で空港を出たのが午後二時過ぎ。時間はまだたっぷりあった。
 「浪子ちゃん、しばらくこいつと二人きりにしてくれないか」
 「いいけど、どうして?」
 「寄っておきたい場所がある」
  そう言うと、親父は意味ありげに微笑んでタクシー乗り場のほうへと歩いていった。
  首をかしげる浪子に、俺は肩をすくめてみせることしかできなかった。

  俺たちを乗せたタクシーが向かった先は、都内の高地にあるだだっ広い霊園だった。
  山の斜面に等間隔に並ぶ、御影石の黒と生け垣の緑。
  ここに母さんが眠っている。
 「ひさびさのハイライトだってのに、東京も住みにくい街になったもんだ」
  園内禁煙の立て札の前で、忌々しげに煙草を灰皿に押しつける親父。
  親父と二人で母さんの墓に参るのは、高校生のとき以来だ。
 「そういえば、康平と会ったんだってな。浪子ちゃんから聞いたぞ」
 「ああ。七釜戸さん、親父のこと心配してたよ」
 「今度会ったらよろしく言っとけ」
  入り口で線香と花を買い、銀のバケツに水を汲む。
  母さんが死んだのは中二の夏だ。それ以来、俺は毎年夏になると欠かさずここに来ている
 が、去年は入院していて時期を逃してしまった。
  霊園内に人の姿はまばらで、芸能人の親父と歩いていても声をかけてくる者はいなかっ
 た。もしかすると、もうみんな夏見英一という歌手が存在したことを忘れているのかもしれ
 ない。
 「苦労をかけたな」
  バケツを持って坂道を登る途中、親父が背中越しにぽつりと言った。
  すぐにオーストラリアの土地資産運用に端を発する一連の騒動を指しているのだとわかっ
 た。シゲルがくわだてた横領事件がなければ、俺たち親子は今でも東京で何不自由なく暮ら
 していたに違いない。
 「あいつはいつか大きなことをするだろうと思っていたが、まさかこの俺を踏み台にして成
 り上がるとはな。一杯食わされたよ」
 「シゲルに……シゲルさんに復讐しようとは思わないの?」
 「興味ねぇからな。五十三億なんて、俺にとっちゃただの金だ。それに俺には音楽がある」
  余裕をなくしたら男は終わり。これも親父がよく言っていたせりふだ。
 「だが、おまえは俺とは違う。仕返ししたけりゃすればいい。やんちゃは若者の特権だ」
  母さんの墓前にバケツを降ろし、親父はそのままポスターに使えそうなクールな微笑を俺
 に向けた。
  礼拝のまえに、二人で手分けして墓石とその周辺の掃除をした。
  御影石を手入れする際、親父は愛車のメンテナンスをするように丁寧に雑巾をかけた。
  母さんと結婚してからも女性にまつわるスキャンダルが絶えなかった親父だが、再婚の話
 を聞いたことは一度もない。今日だって母さんの墓参りに行こうと言いだしたのは親父のほ
 うだ。好き勝手やっているように見えて、こういうところは意外と律儀なのだ。
 「仕事、楽しいか」
  線香を焚いて手を合わせたあと、親父がふいにそんな質問をしてきた。
  親父は俺がシゲルのもとで働いていることを知らない。一応仕事をしていると報告しては
 いたが、雇い主やその業務内容まではどうしても話せなかった。
  ちょっとだけ悩んで、俺は親父の問いに「わからない」と答えた。
  親父はそれをどう受け止めたのか、ポケットに両手を突っ込み空を見上げていた。
  俺たちが立つ場所からは、東京の空がよく見渡せた。
  ジェット機が残す飛行機雲が、一面の青空を半分に切り分けてゆく。
 「キツくなったら、辞めてもいいんだぞ」
 「え?」
 「俺は今、ロスでショウビズの会社を経営している友人のアドバイザーをやっている。自己
 破産したときに著作権も差し押さえられちまったからな。目下資金集めの最中だ」
  俺には親父が言おうとしていることが手に取るようにわかった。
  自身が不遇な幼少期を過ごしたせいか、親父は一人息子の俺にはとことん甘い。
 「以前のような生活には戻れないが、金に困るってほどじゃない。ロスに来れば、おまえに
 もそれなりの生活をさせてやれる」
  親父はうっすらと消えていく飛行機雲を見つめて俺の返事を待っていた。
  つい数ヶ月まえの俺なら、大喜びでこの誘いに乗っていただろう。
  だが、今はそうはいかない。
  ――俺には、この東京で守りたいものがある。
 「悪いけど、遠慮しとくよ」
 「なんだ、東京に女でもいるのか?」
 「まぁ、そんなところ」
  実際の俺とヒカリは、とても恋人と呼べるような間柄ではない。
  それでも、彼女が俺にとって特別な存在であることに変わりはなかった。
  親父は母さんの墓石に目を落として、昔話でもするようにしみじみと語った。
 「俺自身もそうだった。上京してしばらくはなにをやっても泣かず飛ばずで、いつもバンド
 を辞めて故郷に帰りたいと思っていた。それでも俺がサクセスできたのは、こいつのおかげ
 だ」
 「母さんのおかげ……?」
 「そうとも。あれはいい女だった。だから捨てるのが惜しくて、俺は東京にしがみついた。
 毎日がむしゃらに働いて、夜は小さなライブハウスで十人ちょっとしかいない客を相手に演
 奏した。その結果俺はビッグになって、おまえが産まれたんだ」
  過去の武勇伝を語るのが好きな親父の、がらにもない苦労話。
  親父は節くれだらけの両手で俺の肩をつかみ、真剣な口調で言った。
 「いいかサトシ、今の気持ちを忘れるなよ。女でも友人でもいい、とにかく大事なものがあ
 れば、へこたれるほどキツいことなんてどこにもない。人生なんて楽勝だ」
  人生なんて楽勝だ、か。
  あまりにも力強いその言葉に、思わず笑みがこぼれた。
  今、目の前にはっきりと示されている。
  ビルから飛び降りようとして失敗したあの日に、一度はつかみかけた働く秘訣――ヒカリ
 に伝えようとして伝えられなかった、生きるための希望が。
  胸の中を温かい気持ちが満たしていった。
  ずっと俺に欠けていたものを、とうとう見つけた。そんな実感があった。
 「なぁ、親父」
  親父の顔を見て言うのが照れ臭くて、俺は母さんの墓石に向かって話した。
 「俺、親父のようなビッグな男になりたいんだ」
 「ほう、そいつは大きく出たな」
 「それからシゲルに復讐もしたい。やっぱり、このままじゃ終われない」
 「やりたいようにやればいいさ」
 「できるかな、俺に」
  俺が自信なくつぶやくと、親父は愚問だと言わんばかり口を開けて笑った。
 「できるに決まってるだろ、そんなの」
  子どものころと同じように、大きな手が俺の頭を撫でる。
 
 「なんだってできるさ、おまえは俺の息子なんだからな」

  その言葉がしみ込んでくるのと同時に、身体が自然と武者震いを起こした。
  俺の中に眠っていた無限の可能性が、うねりをあげて目を覚ます。
  病院で意識を取り戻してから今日までの一年と数ヶ月、俺はいくつもの挫折を経験した。
 その度に幼いころはたしかにあった自信は少しずつすり減ってゆき、気がつくと俺は、自分
 はなにもできない人間なんだと考えるようになっていた。
  でも、本当はそうじゃない。カスミと暮らしていたときもヒカリと暮らしている今も、俺
 はやろうと思えばなんだってできたはずなんだ。
  大事なものがあれば、へこたれるほどキツいことなんてどこにもない。
  なのに俺は、ちょっと転んでしまうとすぐにいじけて、自分の中に秘められた無限の可能
 性を信じようともしなかった。家や金を失っても決して失ってはならない最高の財産を、み
 ずから捨てていたんだ。
  一人息子の俺にとことん甘い親父が、わざわざそいつを拾って届けてくれた。
  胸を満たした温かい気持ちは、やがて水滴へと変わって俺の瞳をうるませる。
 「どうした、泣いているのか?」
  親父にそう訊かれて、俺は線香の煙が目にしみただけだと答えた。
  ここで泣くわけにはいかない。
  次に俺が泣くのは、ビッグな男になってシゲルに復讐を果たしたときだ。
  涙をこらえて見上げた青空に、糸のように細い白煙がするすると昇っていった。

  墓参りを終えた俺たちは、待たせていたタクシーに乗って霊園をあとにした。
  これから再度浪子と合流し、夜は三人でマサラに行く手筈になっていた。親父にべったり
 の浪子を見て、大木戸さんがどんな反応をするか見ものだ。
  開かずの踏切の前でタクシーが停車しているとき、ハルカから電話がかかってきた。
 「どうした、女か」
  たしかに女には違いないが、断じて親父が想像しているような関係ではない。
  俺は親父の質問にあいまいに首をかしげて、携帯電話の通話ボタンを押した。
 「珍しいな、おまえのほうから電話をかけてくるなんて。再就職先でも見つかったのか?」
 「見つかろうが見つかるまいが、あなたに教える義理はないわ」
  この口ぶりからすると、おそらくまだ見つかっていないのだろう。
  だが、少し安心した。声に以前の威勢のよさが戻っている。俺の減らず口に減らず口で返
 せるくらいには、シゲルに裏切られたショックから立ち直ったようだ。
 「で? 俺に電話してきたからには、なにか特別な用事があるんだろ?」
  訊ねると、ハルカは取引先と職務上の相談をするような口調でこう言った。
 「今晩、会えないかしら」
  彼女が泣きながら抱きついてきたときのことを思い出して一瞬勘違いを起こしそうになっ
 たが、次の一言ですぐに現実に引き戻された。

 「あなたに力を貸してあげる。渡貫茂と戦う力を」

  その言葉からは、彼女の覚悟のようなものが感じられた。
  長い間止まっていた時間をみずから動かしてやろうという、力強い覚悟が。
  こういうのを渡りに船と言うのだろうか。
  偶然にも、俺もついさっき渡貫茂と再び戦う意志を固めたところだ。
 「いいぜ。待ち合わせはどこにする?」
  おおまかに場所と時間を指定して、ハルカは電話を切った。詳しい話は会ってのお楽しみ
 というわけだ。
  携帯電話をポケットにしまうと、親父が意味深な視線を俺にそそいでいた。
 「デートのお誘いか?」
 「ああ。残念だけど、大木戸さんのところには行けそうにない」
 「マセガキめ。さすが俺の息子だ」
  開かずの踏切がようやく開いて、タクシーがゆっくりと走り出す。
  転機というのは、いつ訪れるかわからないものだ。
  親父との再会が、俺の中に眠っていた無限の可能性を呼び覚ましてくれた。
  そして、たった今のハルカからの電話。
  ヒカリといっしょにビルから飛び降りようとして失敗したあの日、俺は自殺願望を腹の底
 に押し込めて日々懸命に働いている人々と出会い、生きていくためのヒントを得た。しかし
 直後にヒカリが手首を切って入院し、解答の機会は持ち越されてしまった。
  その機会が今、ようやく巡ってきたのだ。
  今度こそ、俺は示してやる。
  親父に、ハルカに、ヒカリに、そしてシゲルとカスミに。
  ――俺が出した答えを、叩きつけてやる。
 「楽しいデートになりそうだ」
  動きはじめた窓の外の景色を眺めて、俺はそうつぶやいた。


  一夜明けて、月曜日の朝。
  俺は出勤の準備を整え、片手にゴミ袋を携えてヒカリに声をかけた。
 「それじゃ、行ってくるよ」
  玄関でしばらく待ったが、ヒカリのいるリビングから返事は聞こえてこなかった。
  共同生活がはじまって間もないころはよく家でボイストレーニングをしていたヒカリだ
 が、最近はめっきり口数が減ってしまっている。慢性的な無気力症候群で、声帯が錆びつ
 いてしまったかのように。
  だが、苦しい季節だって永遠に続くわけではない。
  親父が俺に勇気を与えてくれたみたいに、俺が必ずヒカリを救う。
 「帰ってきたら、大事な話がある」
  ――だからどうか、苦しくても今日を生き延びてくれ。
  俺は無言の彼女に見送られてマンションを出た。
  家政夫としての、最後の仕事を済ませるために。

  この日、俺は定刻どおりに出勤し、渡貫邸で朝食の世話をした。
  カスミよりも一足早く朝食を終えたシゲルは、クラスティーナのテーブルに新聞紙を広げ
 て、優雅なコーヒーブレイクを楽しんでいる。
  かたや、自由に発言することを禁じられたカスミは、うつろな瞳で黙々とパンケーキを口
 に運んでいた。
  シゲルは妻であるカスミを、部屋の隅に置かれているアレカヤシと同程度にしか見ていな
 い。毎日適当な量の水をやり、気が向いたときに愛でるだけの存在。
  植物のようにあつかわれても、カスミは文句を言わない。シゲルの不興を買い罰を与えら
 れるのをおそれ、感情のスイッチを切っている。
  世界中探しても、こんな新婚家庭はほかにないだろう。
  窓の外は四月のような晴天だというのに、この食卓には爽やかさのかけらもない。
 「じっと立っているのも疲れるだろう。ほら、今朝の食事だ」
  新聞を読み終えると、シゲルは直立不動で夫婦の食事風景を眺めていた俺のもとへやって
 きて、皿に取り分けたパンケーキを床に置いた。
  食べろ、と目で合図を出される。
  カスミが観葉植物なら、俺はさしずめペットといったところだ。
  昨日までなら、俺はご主人様に命令されたとおりに床にひれ伏していた。
  だが、今日は違う。
  首輪についた鎖を噛みちぎる日が来たのだ。
 「どうした、さっさと食べろ」
  餌を差し出されてもお座りをしない俺に、シゲルが高圧的な口調で言った。
  俺はやつの視線をまっすぐ受け止めて、はっきりと告げる。
 「食べられません」
 「……よく聞こえないな。もう一回言ってみろ」

 「あんたが出した飯なんか食えるかって言ったんだよ、ご主人様」

  予想もしていなかった返答に、シゲルの眉がわずかに上がる。ポーカーフェイスを装って
 はいても、不快感を隠しきれていない。
  カスミは椅子に座ったまま、驚いた様子でこちらを見ていた。
  自分と似た立場にありながらシゲルに楯突いた俺の姿は、彼女の目にどう映っているのだ
 ろうか。俺が起こした小さな反抗は、彼女の胸に火をともしてくれるだろうか。
  カスミ、おまえは俺に幸せの意味を教えてくれた。
  貧しくてみっともない暮らしの中にも、値段をつけられない宝物があるってことを。
  今度は俺が、そいつをおまえに教えてやる番だ。
  この小さな反抗は、その第一歩に過ぎない。
 「それがご主人様に対する口のききかたか?」
  シゲルはまとわりつく羽虫を見るような嫌悪のまなざしを俺に向けていた。
  こいつには、今この場ではっきりと教えてやらなくてはならない。
  人生には、落とし穴もあるってことを。
 「あんたのおままごとに付き合わされるのはもううんざりだ。悪いが家政夫は今日で辞めさ
 せてもらう。プライドは捨てても、闘争心までなくしたわけじゃないからな」
  シゲルはメガネを軽く持ち上げて、口の端で冷ややかに笑っていた。
 「ふん、威勢だけは相変わらずだな。まぁいい、きみの造反は最初から織り込み済みだ」
 「物好きな野郎め。いや、悪趣味な野郎と言うべきか?」
 「どちらでもかまわないさ。それで? 手のひらを返してどうしようって言うんだい?」
 「そうだな、とりあえず――」
  俺はすっと腕を上げて、シゲルの背後を指差した。
 「毒を盛る、ってのはどうだ?」
  血相を変えてテーブルに振り返るシゲル。
  カスミは飛び上がらんばかりの勢いで椅子から腰を浮かせている。
  俺の指先が示すテーブルには、空になったコーヒーカップがある。
  狼狽するシゲルたちを見ていると、忘れていた感覚がじょじょによみがえってきた。
  シゲルに拳銃を突きつけたあのときに胸を満たした、この世でもっとも甘美な感情。
  そうだ、俺が求めていたのはこの興奮だ。
  ――復讐は、甘い蜜の味がする。
  仇敵があわてふためく様を眺めているのは実に愉快な気分だったが、いつまでもこうして
 いるわけにはいかない。
  お楽しみは、まだまだこれからだ。
 「安心しろよ。今のはちょっとしたジョークさ。散々こき使ってくれたお礼ってやつだ」
 「貴様っ……!」
 「一杯食わされたか? 人を騙すのは得意でも、騙されるのは苦手らしいな」
  俺に手玉に取られたのがよほど屈辱的だったのか、シゲルはぎりぎりと音がしそうなほど
 強く唇を噛みしめていた。いつもの余裕は消え失せて、憤怒の形相で俺を睨みつけている。
  そう来なくては面白くない。
  憎しみをぶつけあってこそ、復讐し甲斐があるというものだ。
  俺は形勢がこちらに傾きつつあることを誇示するために、わざと笑顔でシゲルの怒りを受
 け入れてやった。
 「まぁそう怖い顔するなよ。それより、礼のついでにあんたに会ってもらいたいやつがい
 る。そいつがどうしてもって言うんで、ここに連れてきた」
 「……なんだと?」
 「あんたもよ〜く知ってる人物さ。連れてくるから、ちょっと待ってろ」
  声に警戒をにじませたシゲルに背を向けて、いったん玄関に出る。
  ロックを解除してドアを開けると、いつにも増して機嫌の悪そうなハルカが立っていた。
 「遅い。何分待ったと思ってるのよ」
 「うるせぇな。入れてやっただけでもありがたく思え」
  ぷいっと横を向いて玄関に上がり、せっせとハイヒールを脱ぎはじめるハルカ。マンショ
 ンに入るのに必要な暗証番号を教えてやったのは誰だと思っているのだ、この女は。
  俺を無視して足早に廊下を突っ切るハルカを追いかけ、ふたたびシゲルが待つダイニング
 に戻る。
  俺は彼女のとなりに立ち、あらためてシゲルと対峙した。
  朝の日射しが隅々まで行き渡ったダイニングを、ぴりぴりとした緊張感が包みこむ。
 「なんだ、誰かと思えばうちの元社員か」
 「渡貫社長、今一度あなたにおうかがいしたいことがあります」
 「悪いが、出社まで時間がないのでね。手短に頼むよ」
  シゲルを見据えるハルカの横顔には、揺るぎない意志がみなぎっていた。どうやら迷いは
 完全に断ち切れたらしい。
  凛とした立ち姿で、彼女は元上司に挑みかかる。
 「私は長い間、イヴの夜にあなたが語った出来事を受け入れることができませんでした。秘
 書を解雇されてからも、心のどこかであなたを信じていた。あなたが夏見英一氏の資産を横
 領したなんて嘘だと。あなたは無実なんだと、自分に言い聞かせていたんです」
 「それがどうかしたのかい?」
 「もう一度、あなたの口から事件の真相を聞かせてください。でないと私は、自分の気持ち
 にケリをつけられない」
 「僕がこの状況でそうやすやすと口を滑らせると思うかい? きみには教えてやったはず
 だ。僕は同じことを二度は言わない。重要な情報は一言一句聞き漏らすな、ってね」
  シゲルはいくらか余裕を取り戻した表情で、ハルカの頼みを一笑に付した。
  しかしハルカは動じなかった。
  一瞬たりとも目をそむけずに、自分を裏切った男に敢然と立ち向かう。
 「ならば私は、あなたの教えを実践するまでです」
  ハルカはスーツのポケットから小さな機械を取り出して、そいつを印籠のように掲げてみ
 せた。
  彼女が機械の上部にあるスイッチを押すと、そこからこんな音声が流れてきた。

 「では、あの男が言ったことは全部事実だとおっしゃるんですか?」
 「そうさ。僕が夏見英一を自己破産に追い込んだ。彼がオーストラリアの銀行に振り込む金
 を、架空の口座に移し替えてね」
 「どうしてそんなことを……」
 「どうしてもなにも、きみがあの男から聞いたとおりだよ。夏見英一は僕の母親を死に追い
 やった。その借りを返してやっただけのことさ」

  音声はそこでぷつりと途切れた。ハルカがスイッチを切ったのだ。
  シゲルの表情がさっきまでとは一変していた。
  テーブルでことのなりゆきを見守っていたカスミまでもが、のどもとに刃を突きつけられ
 たかのように青ざめている。
 「なんの真似だ……」
 「イヴの夜にお話ししてくださったことを、一部始終録音させていただきました。いつもお
 っしゃっていましたよね? 重要な情報は一言一句聞き漏らすな、って。だから私は、商談
 に出かけるときはいつもICレコーダーを持ち歩いていました。いざというときに、相手が
 見せた弱みをこちらの切り札にできるように。これもあなたの教えです」
  絶句したシゲルの顔が面白くて、俺はとうとう噴き出してしまった。
 「優秀だな、あんたの元部下は」
 
  ハルカの手に握られているのは、ただのICレコーダーではない。
  ――シゲルの運命だ。
 「……そいつをこっちに寄越せ」
 「その命令には従えません。業務時間はとっくに過ぎていますので」
 「ふざけるな! 早くそいつをこっちに寄越せ!」
  シゲルは血管が浮き出そうなほど顔を真っ赤にして叫んだが、ハルカは要求に応じなかっ
 た。かわりに彼女の手から俺の手にICレコーダーが渡される。
  こうなることは、昨夜の打ち合わせであらかじめ決まっていた。ハルカは葛藤のすえに、
 かつて忠誠を誓った男の敵となる道を選んだのだ。それは俺への罪滅ぼしなのかもしれない
 し、自分の信頼を裏切ったシゲルに対する意趣返しなのかもしれない。
  いずれにせよ、今の俺たちは一蓮托生だ。
  敵に回せば厄介だが、味方となれば彼女ほど頼もしい女はいない。
  シゲルに裏切られた者同士、協力して反旗を翻すのだ。
  俺はICレコーダーをお手玉のように手のひらで弾ませ、憎き仇敵に脅しをかける。
 「頭のいいあんたなら、このICレコーダーの重みがわかるよな? 今法廷で争えば、あん
 たに勝ち目はないぜ。せっかく築き上げた地位も名誉も、あっという間にパァだ」
  こいつを証拠として裁判所に提出すれば、もはやシゲルに言い逃れの余地はない。
  ついに追い詰めたぞ、シゲル。
  ここからは、俺のターンだ。
  シゲルは激情をその目に宿して、うめくように言った。
 「なにが望みだ……」
  さすがのシゲルも、こんな形で苦境に立たされるとは予想していなかったらしい。冷静な
 言動とは裏腹に醜くゆがんだ顔が、やつの焦りを物語っている。
  シゲルのそんな顔を見たのははじめてだった。
  背筋がぞくぞくして、武者震いが止まらなかった。
  圧倒的な優位に立つのは、最高の気分だ。
 「望みか。いろいろあるが、まずは――」
  床に視線を落として、シゲルと俺の間に転がっている物体を確認する。
  ついさっき、やつが放り捨てたパンケーキだ。

 「こいつを食べてもらおうか」

  俺がそう言った瞬間、シゲルの目が大きく見開かれた。
  さぁ、ご主人様。復讐再開だ。
  ――俺を敵に回したことを、これからたっぷりと後悔させてやる。
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