round16『女たち』

  資産家・渡貫茂の朝は早い。
  毎朝決まって午前六時に目を覚まし、身だしなみを整えて軽めの朝食をとる。
  食後はガラス製のダイニングテーブルに全国紙五紙の朝刊を広げ、コーヒーを飲みながら
 たっぷり二時間かけて紙面に目を通す。株の値動きから地方欄の片隅に書かれているちょっ
 とした事故まで、情報と名のつくものすべてがやつの手駒になる。
  その間、俺は無言でやつのかたわらにたたずんでいる。家政夫の俺に発言の自由はない。
 ご主人様のまえでは、与えられた仕事をするとき以外は邪魔にならないよう黙って立ってい
 るのが俺の役目だ。
  カスミが寝室を出て食卓にやってくるのは、だいたいいつもシゲルの一時間後だ。
 「おはようございます」
 「おはよう」
  それっきり、シゲルが出社の準備を済ませるまで夫婦の会話は途絶えてしまう。
  この家では、誰もやつの静かな朝を乱してはいけない決まりになっている。たとえ妻であ
 ろうとも、不用意に口を開くことは許されないのだ。
  逆らえば俺は職を失い、カスミは寝室に二十四時間閉じ込められる。
  この王国に住むのは、一人の独裁者と二匹の飼い犬だ。
  ときどき息が詰まりそうになる。高級ホテルのスイートルームにも匹敵する広々としたダ
 イニングスペースで、優雅にくつろいでいるのはシゲルだけだ。
  テーブルには、俺のぶんの食事も用意されている。皿に薄く張ったコーンポタージュスー
 プと、ひときれのパン。
  俺がこの粗末な朝食にありつけるのは、シゲルが読み終えた新聞をたたんでからだ。
  やつはパンを床に捨て、ひしゃくで道路に水を打つようにスープをぶちまける。
  尻込みしてフローリングの床を凝視する俺に、威圧的な声が告げる。
 「どうした、さっさと食べろ」
  うながされて俺は唾を心を殺し、額を床につけてぺろぺろとスープを舐めた。
  口の中に泥のような敗北感が広がった。
  いかなる場合も、家政夫にとってご主人様の命令は絶対だ。奴隷として買われ、シゲルの
 優越感を満たすために俺はここにいる。やつが出すどんな要求にも、俺は尻尾を振って応え
 なくてはならない。
  ――今の俺は人間ではなく、普通の遊びに飽きた金持ちの遊び道具なのだ。
  やつは俺を屈服させて上機嫌になり、くつくつと悪趣味に笑っていた。
  カスミは見ていられないとでも言いたげに、痛ましげな顔で目を伏せている。
  こんなふうにして、奇怪にゆがんだ渡貫家の一日ははじまる。
  床に舌を這わせていると、まるで自分が人間ではなくなっていくようだった。
  以前の俺なら、屈辱に耐えきれずシゲルに怒りを叩きつけていただろう。
  だが、今の俺には目的がある。そのためなら、どんな仕打ちにだって耐えられる。
 「よく味わって食べろ。一滴たりとも残すな」
 「はい、ご主人様」
  俺が床に口をつけてスープをすすると、シゲルは満足そうに頬を吊り上げた。
  これでいい。考えるのをやめさえすれば、復讐心なんていくらでもごまかせる。
  目に映るのは、病院のベッドで眠るヒカリの姿。
  守るべき大切なもののため、俺は今日も働く。


  汐留にある、四十三階建ての超高層マンション。その最上階が渡貫茂の邸宅だ。
  霞ヶ関やお台場にも交通至便な汐留には、芸能界や政財界の第一線で活躍する住民も多
 い。そんな街のもっとも空に近い場所で、ヒエラルキーの頂点に立ったことを誇示するかの
 ように、シゲルはセレブレティの暮らしを睥睨している。
  渡貫邸は約九十平方メートルの敷地面積を持つ4LDKで、その気になればシゲルの会社
 に勤める全社員を楽々収容できそうだ。夜になれば、バルコニーから神となって銀河を見下
 ろすように東京の夜景を鑑賞できる。壮麗なパノラマビューは、富と、名誉と、社会の中核
 を担うごく一握りの人間だけが持ち得る権威の象徴だ。
  俺は毎朝始発の電車でこの街にやってきて、深夜まで渡貫家での労働に従事している。
  洋服の手入れから三食の調理まで、与えられる雑務には限りがなく、ときには広大なシャ
 ワールームのタイルを磨いているうちに一日が終わってしまうこともある。
  中でも重要な仕事が、シゲルがカスミに買い与えた庭の手入れだ。
  色彩豊かな草花で埋め尽くされたその庭園は、マンションの屋上にあった。

 「水を与えすぎないように注意してください」
 「承知しております、奥様」
  木立の根元に咲くスイセンに水をやる俺の背に、籐椅子に深く腰掛けたカスミが声をかけ
 た。雇い主の妻である彼女がなによりも大切にしている庭園の管理には、常に細心の注意を
 払わなくてはならない。
  シゲルが家にいない日中の大半を、カスミはこのイングリッシュガーデンで過ごす。空間
 の中央部分に円形のデッキがあり、特になにをするでもなく、籐椅子に掛けてぼんやりと草
 花を見つめながら夫の帰りを待っている。勝手に外出することは、シゲルによって禁じられ
 ているのだ。
  空中庭園の屋上は半円形に作られたサンルーフに守られており、空調設備も整っているた
 め、真冬に一日中ここにいても風邪をひくことはない。シゲルは渡貫邸のあちこちに監視カ
 メラを設置して俺とカスミの行動を制限しているが、屋上はやつの管轄外だ。ここでなら、
 俺も彼女も自由に会話をすることができた。
  この空中庭園は、シゲルが結婚の記念にカスミに贈ったプレゼントだそうだ。五万円のネ
 ックレスとはケタが違う。それに、俺は彼女が色とりどりの草花に囲まれる暮らしに憧れて
 いたなんて、ちっとも知らなかった。
  最愛の男性と結婚し、憧れの生活を手に入れて、彼女は幸せなはずだった。
  だけど俺には、彼女が自分だけの世界に閉じこもっているように見えた。
  籐椅子に腰掛けてうつろな瞳で庭の様子を見つめる彼女は、車椅子の老婆のようだ。
 「奥様……いや、カスミ」
 「なんですか?」
  小径の脇にパンジーの球根を植えつけて、愛した女に問いかける。
 「楽しいか、こんな生活」
  数秒間の沈黙ののち、彼女は楽しいですよと答えたが、俺にはとてもそれが本心とは思え
 なかった。
  あるときは経営コンサルタント会社の若社長として、またあるときは一代で巨万の富を築
 いた個人投資家として。シゲルはヒーローに飢えた世間の関心を一身に受け、テレビや新聞
 に引っ張りだこだ。水面下では将来の政界進出に向けて、連日連夜各方面とのパイプ作りに
 飛び回っている。
  やつは常に分刻みのスケジュールで動いていて、みずからの野心に目を奪われ家庭をかえ
 りみようとしない。一泊二泊の出張は日常茶飯事で、家に帰ってもカスミと話すのは朝食の
 席での一、二時間くらいだ。シゲルに家政夫として雇われて半月近くになるが、俺はやつが
 妻に愛情を示す場面を一度たりとも目にしていない。
  職業の貴賎を問わずに社会的地位の低い一般の女性を妻に娶ったことで、シゲルは政治や
 経済に興味を持たない層にも支持を得た。俺から生きる希望を奪う目的も果たし、おそらく
 すでにカスミはやつにとって無用の長物となっているのだろう。
  犬小屋の代わりに広大な庭を与えられ、餌の代わりに何不自由ない暮らしを与えられて。

  カスミはこの庭園で、シゲルに飼われている。

  俺は半年ぶんの給料と引き換えに彼女を隷属させた夜を思い出し、語りかける。
 「おまえは俺に言ったよな。幸せってなんですかって。金がないと生きていけない、清貧な
 んて言葉は嘘だって」
 「それがどうかしましたか?」
 「金に困らない暮らしを手に入れて、こんな庭園に閉じ込められて。おまえはそれで本当に
 幸せなのか? これがおまえが欲しがっていた幸せなのか?」
 「……あなたには関係のないことです」
 「だったらどうして、そんなものをまだ持っているんだ」
  カスミは俺の言葉に過敏に反応して、両手でさっと首筋を隠した。
  空中庭園には遠くおよばない、俺からの誕生日プレゼントのネックレスを。
  俺は籐椅子の前に立ち、弱い部分を見られたように下を向く彼女の肩を揺さぶる。
 「目を覚ませよ、カスミ! シゲルはおまえを愛してなんかいない。おまえはあいつに復讐
 の道具として利用されたんだ。自由に口をきくのも、外出するのも許されないなんて……そ
 んなのペットと同じじゃないか! 俺だったら、おまえをこんなことには――」
 「いいかげんにしてください!」
  カスミは身をよじって俺の手を振りほどき、甲高い声で叫んだ。
 「あなたになにがわかるっていうんですか! いつも偉そうにふんぞり返って、私を辱める
 ことしか頭になかったあなたに!」
  俺は奥歯を噛みしめて、俺のせいで心に深く傷を負った女から視線をそらした。
  無邪気に犯した罪が、取り返しのつかない後悔を呼び覚ます。
  シゲルと新婚旅行に旅立つ直前、彼女は俺にこう言った。
  ――あなたは一度も私を救ってはくれなかった。
 「知ったような顔をして、適当なことを言わないでください。シゲルさんは素晴らしい方で
 す。あの方といっしょにいれば、苦労して働かなくても済むんです。お金を稼ぐためにみじ
 めな思いをしなくて済むんです!」
 「カスミ……」
 「庭のお手入れはもうけっこうです。出ていってください」
  彼女はとりすました顔に戻り、それ以上口をきいてはくれなかった。
  空中庭園を追われた俺は、エプロンを脱いで誰もいない渡貫邸に戻った。
  狭くオンボロな花田荘での日々を、最近しきりに思い出す。
  あの半年間の共同生活で、カスミはよく笑っていた。
  たとえそれが復讐心に塗り固められた偽りの笑顔だったとしても、俺はそこに幸福を見い
 出すことができた。貧しくて、自分の不甲斐なさに打ちのめされる毎日の中で、彼女の笑顔
 だけが俺のささやかな幸せだった。
  今では見る影もない。
  再会から半月。カスミは表情の作り方を忘れたみたいに、すっかり笑顔をなくしてしまっ
 ていた。


  クリスマスが翌週に迫ったある日、俺はカスミの使いでシゲルの職場を訪ねた。
  六本木のビル群をなぎ倒さんばかりの勢いで吹きすさぶ寒風に身を縮こまらせて、六十階
 建てのタワービルの門をくぐる。
  このビルには高級ブランドの専門店や有名なレストランも入居しているが、二十階以上の
 中層部には世界に名だたる一流企業のオフィスが密集している。馬鹿と煙は高いところが好
 きという論法を用いれば、国を動かす力を持つ勝ち組たちは筋金入りの馬鹿ということにな
 る。シゲルの会社は四十階だ。
  会社の受付で用件を伝えると、タイミングが悪かったらしく、お人形のような受付嬢にシ
 ゲルは外出中だと教えられた。代理の人間が応対してくれるというので無人の会議室でそい
 つを待つことにしたのだが、しばらくしてそこに現れたのは、案の定あの女だった。
 「なにしにここに来たのよ」
 「お使いだよ。見りゃわかんだろ」
  シゲルの秘書――白河遥は、ビジネスとは縁遠いファストファッションの俺を見るなり、
 露骨に眉を細めた。
  共通の上司に仕える使用人と秘書という関係上、俺たちが顔を合わせる機会は少なくな
 い。その都度この女が露骨に嫌そうな顔をするのは、この女が頭のてっぺんからつま先まで
 シゲルに心酔している狂信者で、俺がまだ教祖の首を狙っているのではないかと疑っている
 からに違いない。
  シゲルの側近に同じ姓の人間がもう一人いるため、俺は便宜上この女をハルカと呼び捨て
 にしている。かといってそれほど気安い仲なのかと問われれば、むしろその逆だ。
  俺はこの女が苦手だ。おそらくそれはむこうも同じだろう。
  調査捕鯨船とシー・シェパードのように、俺たちは会う都度衝突を繰り返している。
 「で、渡貫社長に届けてほしい書類って?」
  小脇に抱えたブリーフケースを、スカートから伸びる白い脚を組んでアーロンチェアに座
 ったハルカに渡す。
 「なにこれ?」
 「さぁな。中身は開封するなと奥様に言いつけられている。それだけ重要な書類なんだろ」
 「ふぅん。小型爆弾とか仕込まれているんじゃないでしょうね?」
 「……ジャック・バウアー並の疑り深さだな、おまえ」
  手に取ったブリーフケースを、角度を変えて念入りにチェックするハルカ。
  カスミからは病院関係の書類だと聞かされていたが、その内容までは俺の関知するところ
 ではない。ヒカリが搬送された病院でシゲルと出くわした例を鑑みれば、おおかたやつは医
 療器具販売のビジネスでもはじめるつもりなのだろう。
 「用件はそれだけだ。じゃあな」
 「あ、ちょっと待って」
  俺が要件を済ませてさっさと退室しようとすると、ハルカがふとなにかを思い出したよう
 に椅子から腰を浮かせた。スーツのポケットから丁寧に折りたたんだコピー用紙を取り出し
 て、俺に差し出す。
 「これ、今度のクリスマス・イヴに開かれるパーティの招待状。渡貫社長と取引のある政治
 家の懇親会で、私は後輩の女の子と参加することになっていたの。でも、その子が急に病気
 で倒れちゃって……あなたなら予定が空いてそうだったから」
 「はっ、余計なお世話だ。そっちこそ、ほかに誘う男はいなかったのかよ」
 「うるさいわね。参加するの、しないの」
 「ま、考えておいてやるよ」
  そう言って、俺は招待状をくしゃくしゃに折り曲げてポケットに突っ込み、部屋を出た。
  イヴに予定が入っているわけではなかった。休暇だってもらっている。
  だが、俺には誰にも祝福されない孤独な聖夜に、そばにいてやりたい少女がいるのだ。
  懇親会の出席の可否は、彼女の体調と心の状態にかかっている。


  その少女は、日当たりのいい病院の一室で病気療養をしている。
  週に二、三回、仕事の空き時間に彼女のお見舞いをするのが俺の習慣だ。
 「いちごのタルトを買ってきたぞ。好きだっただろ」
 「食欲ない。そこに置いといて」
  精いっぱい明るく呼びかけても、ベッドの上のヒカリは気のない返事だった。心ここにあ
 らずといった様子で、手もとに広げた絵本から顔を上げようとしない。
  自殺に失敗して病院に運ばれたヒカリは、術後、経過観察のために一週間の入院生活を余
 儀なくされた。幸い後遺症も発見されず無事に退院の日を迎えたのだが、そこからが問題だ
 った。彼女がまた手首を切ろうとして、病院を出たがらないのだ。
  これには医師や看護師も手を焼いていた。果物ナイフを取り上げれば髪留めのピンで、ピ
 ンを取り上げれば今度は花瓶を割ってガラス片で手首を切ろうとする。退院するくらいなら
 死んだほうがマシだと言って聞かないヒカリは、しかたなく精神疾患の治療という名目で一
 般病棟の個室に移され、今にいたるまで入院生活を送っている。
  看護師に訊ねても、俺のほかに見舞客は来ていないという。ヒカリの父親は、入院中の娘
 に顔を見せるどころか、電話のひとつも寄越してこない。
  二人が血の繋がらない親子だという話は本当なのだろうか。
  だとしたら、彼女はそのことを知っているのだろうか。
  答えをたしかめる勇気がなくて、俺はいつも当たり障りのない会話に逃げていた。
 「もうすぐクリスマスだな。なにか欲しいものはあるか?」
 「ない」
 「そ、そういえば仕事柄、料理を作る機会が多くてさ。昨日はブイヤベースを作ったんだ」
 「ふぅん、それで?」
 「最近いいもの食べてないだろ。退院したら、ヒカリにも作ってやるよ」
 「いらない。もともとあんまり食欲ないから」
  入院してからというもの、ヒカリとの会話は万事が万事こんな調子だった。あの手この手
 で彼女の興味を引こうとしても、どれも徒労に終わってしまう。暖簾に腕押しとは、きっと
 こういうことを言うのだろう。
  心に頑丈な鍵をかけて、ヒカリは自分の世界に閉じこもっている。
 「……いつまでこんなところにいるつもりなんだ、ヒカリ」
  長続きしない会話の息苦しさに耐えかねて、俺はとうとう両手を上げて降参した。
  無理に明るく振る舞うのをやめ、避けて通ってきた話題に踏み込む。
 「ふてくされて病院に居座ってたって、そんなの長続きするもんじゃない。いつかは外に出
 て、自分の力で働いて生きていかなきゃいけないんだ」
  ややあって、ヒカリは絵本に視線を落としたまま言った。
 「お説教するんだ。自分だって、ついこの間まで働けなかったくせに」
 「そうじゃない、考え直してもらいたいんだ。俺は今、ヒカリのために一生懸命働いてい
 る。自分でも信じられないよ。あれほど思いつめて働くことから逃げ続けてきた俺が、ちゃ
 んと働いているんだ」
 「だからなに」
 「ここを出て、働く方法をいっしょに考えよう。俺にだってできたんだ。ヒカリにできない
 はずがないさ」
  無表情だったヒカリの顔にふっと影が差して、弱気な声が聞こえた。
 「無理だよ、そんなの……」
 「今すぐじゃなくたっていい、ゆっくり時間をかけて考えよう。当面の生活費は俺がなんと
 かするから」
  ヒカリは口を閉ざしてうつむいて、膝の上で握った両手を小さく震わせていた。
  俺は包帯が巻かれた彼女の手首をなぞり、その手をそっと包みこむ。
  働くのが怖い気持ちは俺も同じだ。恐怖から逃れて自殺したくなる気持ちも、同じ。
  ――だから俺たちは、こうして手を取り合って生きていくしかない。
  背後のドアをコンコンと叩く音が、束の間の静寂を打ち破った。ヒカリがどうぞと声をか
 けると、病棟を巡回中の若い看護士が一礼して部屋に入ってきた。
  看護師と入れ替わるようにして、俺は椅子の背もたれにかけていたコートに袖を通す。そ
 ろそろ渡貫邸に戻らなくてはいけない時間だ。
  別れ際、病床のヒカリにもう一度声をかけた。
 「早く帰ってこい。マンションの部屋、きれいにして待ってるから」
  気の毒そうな顔の看護士と、返事もなくうつむいているヒカリ。
  彼女の心の傷が完全に癒えるのには、まだ少し時間がかかるかもしれない。
  待ってるからな、とたった一人の親友に念押しして、俺は病室を出た。


  結局、ヒカリの退院はイヴの夜に間に合わなかった。
 「なんだ。憎まれ口叩いてたわりに、ちゃんと来てるじゃない」
 「ふん、酒を飲みに来ただけだ」
 「口の減らない男ね」
  シンプルな黒のパーティードレスでめかしこんだハルカが、わざとらしく肩をすくめる。
  都内某所にあるホテルの宴会場を貸し切っておこなわれる政治家の懇親会には、建設会社
 の重役クラスに大手銀行の営業本部長、果てはプロ野球チームの監督まで、豪華な会場にふ
 さわしい各界の著名人が大勢集まっていた。俺もドレスコードに従って一応スーツを着ては
 いるが、日常生活で金銭的な苦労を強いられているのはこの場で俺一人だろう。
 「え〜それでは、本日お集まりのみなさまに、我が盟友・渡貫茂社長からのご挨拶です」
  政治家の紹介でシゲルが壇上に上がると、会場全体が大きな拍手に包まれた。やつは本日
 の主役の一人だ。
  政界との結びつきをより強くすることで企業の発展、ひいては社会への貢献に努めたいと
 いう旨のシゲルの挨拶で、パーティーは華々しく幕を開けた。
 「誰かに声をかけられたら、くれぐれも失礼のないように振る舞うのよ。いいわね?」
 「覚えてたらな」
 「あなたは今夜、渡貫社長の部下としてここに来てるんだから。発言には気をつけて」
 「へいへい」
  ハルカはまだなにか言い足りないようだったが、シゲルにくっついて政界の有力者たちに
 挨拶回りをするため、渋々俺のもとを引き上げていった。せっかくのクリスマスパーティー
 だというのに、営業熱心な連中だ。
  パーティーの食事はバイキング形式になっていて、各テーブルを動き回っているホテルマ
 ンを呼びつければ好きな酒を飲むことができた。金に糸目をつけずに高級ワインをしこたま
 飲める滅多にない機会だと思い、次々と注文を出した。ハルカは気にしているようだった
 が、どうせ俺に声をかけてくる人間はいないだろう。金持ちは金持ちにしか興味がない。か
 つて俺自身がそうであったように。
  会場の片隅で一人ワインを飲んでいると、カスミとヒカリの顔が浮かんだ。
  彼女たちは今ごろ、庭園と病室、それぞれの場所で一人寂しくイヴの夜を過ごしているの
 だろうか。そばにいても邪魔者あつかいされるだけかもしれないが、二人のことを思うと絶
 品のはずのワインもほとんど味がしなかった。
  愛されてなどいないと知り、それでもシゲルに飼われ続けているカスミ。
  働くくらいなら死ぬと言って聞かず、病室から一歩も出ようとしないヒカリ。
  ――俺のまわりにいる女たちは、みんなどうかしている。
  パーティーがはじまって一時間が経ったころ、主催者の政治家が同業者と歓談中のシゲル
 たちのところにやってきた。俺はその様子を少し離れた場所でぼんやりと眺めていた。
 「若くてきれいなお嬢さんがいつもいっしょでうらやましいねぇ、渡貫社長は」
 「白河くんは大変な勉強家でしてね。仕事ぶりもなかなか優秀なんですよ」
 「ますますうらやましいね。それで、お嬢さんはあっちのほうも優秀なのかな?」
  そう言って、主催者の政治家はハルカの腰のあたりにいやらしい視線を這わせていた。
 「先生、白河くんは柔道と合気道の有段者ですよ」
 「そいつはいい。是非とも寝技の稽古をつけてもらいたいね」
  シゲルがそれとなく注意しても、そんなことおかまいなしにセクハラを続ける政治家。
  上司と酒癖の悪いエロオヤジの間に挟まれて、ハルカは顔を引き攣らせて愛想笑いをして
 いた。ときおりチラチラとこちらに視線を送ってきたが、あの怪力女が俺なんかに助けを求
 めたりするだろうか。だいたい、たかが家政夫の俺に、大物政治家を相手にどうしろという
 のだ。
  俺が割って入るべきか考えていると、政治家はハルカの肩に手を回した。
 「交際している男はいるのかね、きみ」
 「いえ、仕事一筋ですので……」
 「もったいないなぁ。今度おじさんと遊びに行こうよ」
  そしてついに、エロオヤジの触手が背中に伸びた。ゆっくりと滑り落ちた大きな手に尻を
 触られて、ハルカは飛び跳ねるような声で「ひっ!」と小さく悲鳴を上げた。
  俺は慌てて飛び出そうとしたが、一歩遅かった。

 「なにすんのよっ!」

  政治家は一瞬にして怒りのメーターを振り切ったハルカの手によって、テーブルを真っぷ
 たつに割って床に叩きつけられた。最前列でその光景を見ていたシゲルも唖然とするほど
 の、見事な一本背負いで。
  物音に驚いて、会場全体がしんと静まり返っていた。ハルカがはっと気づいたときには、
 酔っぱらいの政治家はすでにくるくると目を回して床にのびていた。
  主催者を投げ飛ばして思いも寄らずパーティーの主役となってしまったハルカに、決まり
 が悪そうに咳ばらいをして、シゲルが声をかけた。
 「白河くん」
  ぽんと肩を叩いたあとに彼の口から出てきた言葉は、当然こうだった。
 「外で頭を冷やして来なさい」

 「いくらなんでも、背負い投げはやりすぎだったな」
 「言わないで。真剣に落ちこんでるんだから」
  ソファの上で肩を落としたハルカは、頭痛を抑えるように手のひらで顔を覆い、深くため
 息をついた。シゲルの前で最悪の失態を演じた自分を悔いているのだろう。
 ハルカに投げ飛ばされて気絶したあわれな政治家は、今は別室でホテルマンに介抱されて
 いる。俺はほかならぬシゲルの命令で宴会場を追われた彼女が気になってロビーまでついて
 きたが、彼女は想像以上に深刻な自己嫌悪に陥っているようだった。となりに立っているこ
 っちまで気が滅入りそうだ。
 「あんまり気にするなよ。ありゃどう見たっておまえの正当防衛だろ」
 「気にするわよ。もし私が原因で、あの先生と渡貫社長の関係が悪化したりすれば……」
 「そうなれば俺としては万々歳だな」
 「ごめんなさい。今は喧嘩するような気分じゃないの」
 「……悪かった」
  ハルカはよほどのことでもないかぎり他人に弱い部分を見せない女だと思っていたが、ど
 うやら今、そのよほどのことが起こっているらしい。気を紛らわせてやろうとして軽口を叩
 いても、まったく張り合いがなかった。
  祈るように握った拳を額につけて、すっかり意気消沈したハルカはつぶやいた。
 「私、クビかな」
  口には出さなかったが、その可能性はじゅうぶん考えられた。今回の件が丸く収まればい
 いが、もしそうならなかった場合、シゲルはそれなりの方法で彼女に責任を求めるはずだ。
 あのお手本のような見事な一本背負いは、謝って済まされるレベルを完全に超えている。シ
 ゲルに異常な忠誠心を持つ彼女が不安がるのも無理はなかった。
 「クビにされても、おまえならすぐに就職先が見つかるさ。道場とか警察とか」
 「冗談はよしてって言ってるでしょ」
 「だいたい、シゲルのどこがそんなにいいんだかな。あいつはおまえが思ってるほど善良な
 人間じゃないぞ」
 「またその話。どうせ詐欺師だって言いたいんでしょ」
  もううんざりよと言って、またひとつ深いため息をつくハルカ。
  職業上の理由でしばしば顔を合わせるようになってから、俺は何度か彼女にシゲルが起こ
 した巨額の横領事件について説明している。つまり、俺と親父が天国から地獄へと真っ逆さ
 まに叩き落されたいきさつを。
  しかし彼女は、その都度根も葉もないほら話だと決めつけて、まともに俺に取り合おうと
 しなかった。彼女の中では、俺が語る真実よりも、シゲルへの信頼が勝っているのだ。
 「渡貫社長がお金を騙し取っただなんて、言いがかりに決まっているわ。あなたは自分の境
 遇を他人のせいにして、安心を得たいだけなのよ」
 「本当にそう思ってるのか?」
 「思ってるわよ。渡貫社長は清廉潔白だわ。どこかの誰かと違ってね」
  シゲルについて語るときのハルカは、恋する少女そっくりだ。他人の言葉にはまるで耳を
 貸さず、好きになった相手を自分に都合のいいように美化してしまう。
  この女も、やはりどうかしている。俺のまわりにいるのは、おかしな女ばっかりだ。
 「だったら本人に聞いてみろよ」
  俺が呆れた口調でそう言うと、ハルカは意外そうな目で俺を見た。
 「もちろんシゲルが本当のことを話すとはかぎらない。おまえを身内とみなしているうち
 は、そう簡単に疑いを持たれるような発言はしないだろうな。だが、もしやつが先ほどの一
 件でおまえを解雇するつもりならどうだ? 社外に追いやってしまえば、おまえ一人の発言
 力なんてたかが知れてる。自分に不利益な話でも、案外ぺらぺらと喋ってくれるかもしれな
 いぜ?」
 「……渡貫社長はそんな軽率な人じゃないわ」
 「かもな。でも、訊いてみる価値はあるんじゃないか?」
  口もとを手で隠して、思案げにうつむくハルカ。
  彼女の心が揺れているのが、ありありと見て取れた。面従腹背の俺とは違い、彼女はシゲ
 ルの経営者としての手腕だけでなく、人格にまで心酔しきっている。だからこそ、芽生えて
 しまった疑念を見過ごせないのだろう。
  ちょうどそのとき、通路を渡ってロビーにやってくるシゲルの姿を俺の視界がとらえた。
 噂をすればなんとやらだ。政治家への謝罪について、ハルカと相談しに来たのだ。
 「ほら、行ってこいよ」
  俺が発破をかけると、彼女は意を決したように立ち上がり、崇敬する上司と対峙した。
 「渡貫社長」
 「なにかね?」
  ついさっきまで肩を落としていたのが嘘のような毅然とした態度で、彼女は言い放った。
 「少しお話があります」

  俺は通路の角で壁にもたれかかり、ダイソー製の腕時計に目を落とす。
  あれからまだ三分しか経っていない。一分が一時間のように感じられた。
  この角を曲がった通路の奥では、ハルカが人目を避けてシゲルの疑惑を追及している。俺
 には二人の会話は聞こえないが、そろそろケリがついてもいいころだ。
  五十三億円という大金が絡んだ横領事件に関して俺以外の人間に詰め寄られるのは、おそ
 らくシゲルにとってはじめてのことだろう。他人に真実を明かすかどうかは、やつの気分次
 第だ。
  俺がシゲルの悪事を暴けとハルカをけしかけたのは、善意でもなんでもない。真実を知ろ
 うと知るまいと、誰につき従うかを決めるのは彼女自身だ。盲目的にシゲルを信奉している
 彼女の鼻を明かしてやれさえすればそれでよかった。
  これが彼女にとっていかに残酷な仕打ちだったかなんて、想像もしなかった。
  一人で通路を飛び出してきた彼女の、不機嫌そうな横顔を見るまでは。
 「なんだ、もう話はついたのか」
  シゲルとの話し合いを終えたハルカは、全身から今しがた恋人と大喧嘩をしてきたような
 近寄りがたいオーラを放っていた。俺の問いかけには答えず、コートをソファに置きっぱな
 しにして、すたすたとロビーを横切ってゆく。
 「ど、どうしたんだよ、怖い顔して」
 「うるさい、今話しかけないで!」
  怒気を含んだ声でそう告げて、彼女は振り向きもせずにホテルの出入り口へと歩いていっ
 た。
  すさまじい剣幕に気圧されつつも、俺には彼女が深く傷ついているように見えた。
  ひょっとしたら、その原因を作ったのは俺なのではないか。
  焦って彼女のあとを追おうとして腰を浮かしかけたとき、今度はシゲルが通路から出てき
 た。苛立たしげだったハルカとは対照的な、普段どおりの落ち着き払った態度で。
 「やれやれ。まさか彼女がこうも打たれ弱いとはね。想定外だよ」
  五分も無駄にしてしまった、と言ってとなりに立つシゲルに、俺は主従の関係も忘れて食
 ってかかった。
 「おまえ、あいつになに言ったんだよ!」
 「なにって、知りたがっていたことを教えてやったまでさ。僕に事件について話すよう仕向
 けたのはきみだろう? 怒鳴られる筋合いはないな」
  言われて俺は、のどまで出かかった批判を引っ込めた。
  ハルカを焚きつけたのは俺だ。この状況を招いた責任の所在は俺にある。
 「追わなくていいのかい? 彼女、忘れ物をしているようだが」
  出入り口に目を向けると、ハルカの姿はすでにそこから消えていた。
  シゲルの人を食ったような態度が気に障ったが、そうも言っていられない。
  俺はソファの上からむしり取った千鳥格子のコートを抱えて、慌ててハルカを追った。

 「おい、待てって! どこ行くんだよ!」
 「どこに行こうが私の勝手じゃない! ついてこないで!」
  自動車のヘッドライトが行き交う夜の街を、ハルカは急ぎ足でどんどん進んでゆく。
  いつの間にか外は雨が降っていて、すれ違う人々が差した傘の上では、絶え間なく降りそ
 そぐ雨粒がダンスを踊っていた。
  思い起こせば、一年まえのイヴの夜も雨が降っていた。あの日、俺は日雇いのアルバイト
 でシゲルが主催するシンポジウムの会場を設営し、失意のどん底でハルカと出会った。テロ
 リスト呼ばわりされて背負い投げで地面に叩きつけられたときの痛みは、今でもはっきりと
 覚えている。
 「シゲルとなにがあったんだよ! エロジジイを投げ飛ばした件は丸く収まったのか?」
 「そんなのあなたには関係ないでしょう? もうほっといてよ!」
  癇癪を起こしたように声を荒げて、ハルカはさらに歩調を速める。
  せっかく人が心配してやっているのに、とことん可愛げのない女だ。
  ついむっとして、俺は背後から彼女の肩に手をかけて、無理矢理立ち止まらせた。
 「俺にだって知る権利はあるだろ。シゲルの不正を教えてやったのは誰だと思って――」
 「いいかげんにして!」
  通行人が驚いて振り返るほどの声でそう叫び、俺の手を振り払うハルカ。
  間近に見ると、雨に濡れた彼女の肩は儚げに震えていた。
 「あなたは無神経よ。人が落ち込んでいるときに冗談を言って茶化したり、ついてこないで
 って言ってるのについてきたり……一人になりたいのに、どうして一人にさせてくれない
 の。どうしてこんなときにかぎって優しくするの」
  あの気の強い女の口から出たとは思えない、今にも泣き出しそうな声だった。
  俺はどうしていいのかわからず、彼女の背中から顔をそむけた。
 「私、やっぱりクビだって」
 「シゲルがそう言ったのか?」
 「おまえにはもう用はない、だから本当のことを教えてやるって。あなたのお父さんから大
 金を騙し取って破滅に追い込んだのは、渡貫社長だった。そうとも知らずに、私はあの人に
 人生を捧げるつもりでいたのよ。馬鹿みたいでしょ? 笑いたきゃ笑えばいいじゃない」
 「……笑わねぇよ」
 「ちょっとお尻を触られたくらいで大事なパーティーを台なしにして、挙句の果てにこのザ
 マよ。余計なことは知ろうとせずにただ頭を下げていれば、仕事まで失わずに済んだかもし
 れないのに。こんな思いしなくてもよかったかもしれないのに。あなたのせいで、こっちは
 踏んだり蹴ったりだわ!」
  いつもなら八つ当たりをするなと言ってやるところだが、今回ばかりはとてもそんな気に
 はなれなかった。
  信頼していた人間に裏切られる痛みは、俺も嫌というほど知っている。
  にも関わらず、俺は軽はずみに彼女を焚きつけて、同じ痛みを与えてしまった。
  愚かな俺たちを笑うように、勢いを増した雨が視界を滲ませる。
 「こんな顔、見られたくなかったのに……」
 
  やっとのことで振り向いたハルカは、世界に見放されたように心細そうな顔をしていた。
  尊敬する上司と仕事。生きる支えをふたついっぺんに失って、現実に押し潰されそうにな
 るのを必死にこらえている様子だ。拳銃を突きつけられても鋭く俺を見据えていた瞳は、今
 は見る影もなくうるんでいる。
 「もう、どうしたらいいのかわからない……」
  すっかり弱りきった顔を見せられると、こっちまでどうすればいいのかわからなくなる。
  俺が頭をフル回転させて慰めの言葉を探していた、そのとき。

  不意に彼女が俺の肩に寄りかかってきた。

 「お、おいハルカ……」
 「お願い。ちょっとの間だけこうさせて」
 彼女は俺の胸に顔をうずめて、とうとう静かに泣きはじめた。
  動揺してきょろきょろとあたりをうかがうと、通行人たちが場をわきまえないカップルを
 見るような視線を俺たちにそそいでいた。
  戸惑いを隠せない俺にくっついたまま、ハルカは声を殺すのも忘れて泣き続けている。
  いったいなにがどうなっているんだ。俺たちはこれまで、調査捕鯨船とシー・シェパード
 のように、何度となく衝突を繰り返してきた間柄ではなかったのか。それがどうして、夜の
 街中で恋人同士のようにくっついたりしているのだ。
  もう、わけがわからない。
  俺は彼女の震える肩におそるおそる手を添えて、この状況を脱出する方法を必死になって
 考えた。
 「と、とりあえず」
  ――どこか雨宿りのできる場所を探さなくては。
  見渡せば、眠らぬ街の明かりが俺の心臓のリズムに合わせてあちこちで瞬いていた。

  俺のまわりにいる女たちは、みんなどうかしている。
  そして神様もときどき頭がおかしくなって、気まぐれに俺たちを悲しませたり、どきどき
 させたりする。
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