round11『名前を呼んで』

  告訴とは。
 「一般に刑事告訴とも呼ばれ、犯罪被害者および任意の第三者が刑事訴訟法にもとづき捜査
 機関に犯罪を申告し、処罰を要請することである」
 「なにそのウィキペディアから丸写ししたような解説」
  茶葉の香りをゆっくりと楽しんで紅茶をひと口すすると、古風な探偵ルックに身を包んだ
 浪子はテーブルに頬杖をつき満足げに笑ってみせた。
 「やればできんじゃないのさ」
  俺ははじめて逆あがりに成功した運動音痴の小学生のような照れ臭さを感じ、キャスケッ
 トを深く被り直して表情を隠した。
  野良犬の無残な最期から一夜明けたこの日、俺と浪子はメイド喫茶で働くカスミをはす向
 かいのブックカフェから観察していた。腹を引き裂かれた野良犬がストーカーからの警告で
 ある以上、連日続いている尾行調査はもはや予断を許さぬ状況となっている。
 「おそらく相手は公権力にも太いパイプを持っている。玉砕覚悟で頑張りなさいよね」
 「ああ、承知しているさ」
  窓ガラスの外に目をやると、ちょうど三人組のご主人様≠ェカスミに見送られて涅槃か
 ら出てくるところだった。どいつもこいつも会計時にレジで渡されたバレンタインチョコを
 大事そうに抱え、ロマンティック浮かれモードといった間の抜けた顔をしている。
  本当は愛犬に死なれて悲しんでいるだろうに、カスミはそんな様子はおくびにも出さずに
 営業スマイルを客に振りまいている。昨晩は見ているこっちの胸が痛くなるほど泣き腫らし
 ていたくせに、健気というかなんというか、つくづく職業意識の高い女だ。
  二度と彼女の笑顔を奪われないために、俺は必ず犯人を見つけ出す。
  誰からも彼女の笑顔を奪われないために、俺はシゲルと対決する。
  決意もあらたに机の下の拳を固く結んでいると、浪子が突然大きなあくびとともに席を立
 った。
 「じゃ、私そろそろ帰るわ。ゆうべはあんたに叩き起こされたせいで寝そびれちゃったし」
 「おい、なに勝手なこと言ってるんだ。まだ尾行調査の途中――」
  飲食代も置かずにテーブルを離れようとする浪子を呼び止めると、ぽんと肩を叩かれた。
 「好きなんでしょ」
  サングラスの縁に挑発的な瞳をのぞかせて、浪子は教えを諭すように言った。
 「あんたが守ってやんな」
  みるみるうちに顔が紅潮していくのが感じられ、咄嗟に否定の言葉を重ねようとしたが、
 うまく舌が回らなかった。
  別れ際、浪子は餞別がわりだと言って一枚のフロッピーディスクを俺によこした。中には
 シゲルに関する一連の調査をまとめたデータが保存されているとのことだったが、二十一世
 紀を迎えて久しいこのご時世に中松博士の端末を愛用しているあたりが前時代的で、なんと
 も彼女らしい。
 「しっかりやんなさいよ、ご主人様」
  飄々と手を振り歩み去る彼女に、俺は心の中で言われなくてもやってやると答えた。
  ああ、そうだよ。俺はカスミが好きだ。ご主人様がメイドに惚れて、なにが悪い。
  浮気症のろくでもない親父の口癖に、こんなものがあった。
  惚れた女は死んでも守り抜け。
  たとえ持たざる者になろうとも、ノブレス・オブリージュ――それが男の義務である。


  善は急げとの内なる声に従い、俺は浪子と別れた三日後に、さっそくアポイントをとって
 都内のある法律事務所を訪ねた。
  専門家の知恵を借りて告訴状を作成することが主たる目的であったが、訴訟を起こすにあ
 たっての予備知識をレクチャーしてもらう目的もあった。依頼相手はかつての親父の事務所
 の顧問弁護士だ。
  上下を雀荘と喫茶店に挟まれた池袋のテナントビルの二階に、その法律事務所はあった。
  ワンフロアを占有してはいるものの、応接間は室内を間仕切りで区切っただけの簡素なつ
 くりで、どことなく学校の職員室を連想させた。
  さすがに代表者のデスクは別室だったが、こちらはさしずめ校長室といったところか。壁
 面を占める本棚には法律関係の書類がずらりと並び、部屋の中央にはガラス張りのテーブル
 と三人掛けのソファが置かれていた。
  俺が入室すると、その弁護士は観葉植物に水をやる手を止めて柔和に微笑んだ。
 「よく来てくれたね、サトシくん。きみとはきみがまだ学生のころにお父さんの事務所で何
 度か顔を合わせているんだが、覚えてくれているかな」
 「もちろんですよ。ご無沙汰しています」
  珍しい苗字と外国映画に出てくる警察官のようなでっぷりと脂の乗った体格は、一度脳に
 インプットされると忘れられるはずがない。
  七釜戸康平。見た目はどこにでもいそうな中年男性だが、彼はトラブルが絶えなかった親
 父の芸能活動を十数年にわたり陰で支えてきた、腕も人柄も信用に値する弁護士だ。
 「今日はどういったご用向きで?」
 「親父の仇討ちにお力添えいただけないかと」
  おだやかな物腰の中年の紳士はいくらか神妙な顔つきになり、俺にソファに掛けるようう
 ながした。
 「親父の借金は濡れ衣だと言ったら、信じてもらえますか?」
  七釜戸さんの目の色が変わるのを確認し、俺は持参した茶封筒から書類を取り出した。

  俺が用意した資料は、浪子から手渡されたフロッピーディスクの中身を出力したものだ。
 そこには度重なる調査やシゲル本人の発言から推測される事件の全容、とりわけシゲルとグ
 ルになって親父から大金を吸い上げた経理担当者の不審な点について詳細な記述がなされて
 いる。
  順を追って事件の真相を説明すると、七釜戸さんはしばらく話の信憑性を吟味するように
 言葉もなく俺が手渡した資料を精査していた。
  やがて彼はステーキでも焼けそうに広い額をとんとんと指で叩き、長い沈黙を破った。
 「……大変興味深い事案だ」
 「協力していただけますか?」
  七釜戸さんは渋い顔を作って腕組みをし、宙を見つめながら答えた。
 「大変興味深い事案ではあるが、事実を証明できるかは別問題だ。知ってのとおり、渡貫茂
 は検察の調べで一度白だと断定されている。そのうえ事件の当事者であるボス――つまりき
 みのお父さんは海外に逃亡していて所在がつかめないときている。渡貫茂の証拠隠しが徹底
 している以上、今回も不起訴処分になってしまう確率が高い。起訴状が受理されるかどうか
 も怪しいものだ。きわめて勝ち目の低い賭けだと言わざるをえないね」
  再び猶予の沈黙が流れた。
  事実がどうあれ、世間的には親父は十数回宝くじに当選しても返済できないほどの借金を
 踏み倒した大罪人で、俺は大罪人の息子だ。そんな厄介な人間の訴訟には極力関わりたくな
 いと思うのが常人の思考だろう。逆の立場なら、俺だってそう考えるかもしれない。
  やはりダメか――そう思って諦めかけたとき、突如七釜戸さんが相好を崩した。
 「しかし僕個人は博打が好きでね。目の前で大勝負がはじまろうとしているのを、黙って見
 過ごすわけにはいかない」
  発言の意図が飲み込めず目をぱちくりさせていた俺に、七釜戸さんはトム・ハンクスも顔
 負けの笑顔で語りかけた。
 「ボスには僕がまだ駆け出しのころから世話になった。あの人から学んだことは多い。一流
 の人間の使命は義理を果たすことだっていう考え方には、特に感銘を受けたよ」
 「それじゃあ……!」
 「ああ。ボスへのせめてもの恩返しだ。できることは少ないが、僕にも協力させてくれ」
  俺は弾かれたようにソファから腰を上げ、七釜戸さんと固く握手を交わした。
  目頭が熱くなり、ありがとうございますと何度も繰り返した。
  病院のベッドで目を覚ましたその日から、裏切られ、手のひらを返されることが日常に
 なっていた。傷つき、諦めることに慣れていた。古臭い義理人情などとっくに廃れ、信用
 に値する人間なんてどこにもいないのだと、不信感と敵意ばかりを腹の底に募らせていた。
  だけどそれは間違いだった。世界に見切りをつけるのはまだ早い。
  古臭い義理と人情は、残る人の心には、まだちゃんと残っているのだ。

  この日、俺は七釜戸さん完全監修のもとで告訴状を作成した。
  罪状は刑法二五三条、業務上横領。事件性が認められ告訴状が受理されれば、そこから先
 は検察の仕事だ。祈ることしかできないのは歯がゆいが、あとは浪子が用意した資料に手を
 加えて警察に提出してくれる七釜戸さんの手腕と、検察を信じるしかない。
 「厳しい戦いになるとは思うが、渡貫茂が起訴されたとなるとマスコミも黙っちゃいないだ
 ろう。スキャンダル好きの世間を味方につければ、別の角度からやつを切り崩すことも可能
 だ。不起訴処分を受けてしまえばそれまでだが、僕のほうでも手を尽くすと約束しよう。希
 望は捨てないでくれ」
  これが一か八かの勝負であることは、もとより承知している。今はそんなことよりも、背
 後から声援を送ってくれる味方がいる心強さに、胸が震えて止まらない。
  顧問料はいくらかと訊ねると、七釜戸さんは「これくらいのことでボスの息子から金を取
 るわけにはいかない」と言ってそれを固辞した。善意で働く人間もいるものだ。
  最後にもう一度握手を交わし、俺は池袋の弁護士事務所をあとにした。

  花田荘に戻ったのは、深夜十時過ぎだった。
  玄関先に不審物が置かれていないことを確認し、慣れた手つきでドアに合鍵を突っ込む。
 「ただいま」
  呼びかけても、真っ暗な穴ぐらとなった部屋に返事をする者はいない。
  ストーカーが野良犬の死骸を送りつけてきた翌日から、カスミは田園調布の一軒家で贅沢
 な一人暮らしを営む同僚の家に寝泊まりしている。中世の洋館を思わせる豪邸で、アオイと
 いう名のその同僚が実質的な世帯主らしい。防犯設備も長嶋さんに「してますか?」と訊ね
 られたら迷わずイエスと答えられる万全の態勢なので、不用意にストーカーが近づいてくる
 こともないだろう。
  部屋の明かりをつけ、コンビニ弁当と買い置きの缶詰で簡単な夕食を済ませた。
  毎晩似たり寄ったりの献立で食事をしていると、ときたま無性にカスミの手料理が恋しく
 なる。二人では狭苦しかった六畳一間も、一人になるとやけに広く、寂しく感じられた。
  億ションに住んでいたころからは考えられない変化だ。カスミの存在が抜け落ちた途端、
 俺の生活は自然の恵みなき不毛の大地と化してしまう。
  今は一時的に離れて暮らしているだけだが、いずれ長いお別れがやってくる。
  共同生活の契約期間は、あと一ヶ月と少ししか残されていない。
  気をまぎらわせようとしてテレビをつけると、NHKが討論番組で若年層の雇用問題をあ
 つかっていた。もはやなにが本業かわからない人気作家がゲストコメンテーターとして出演
 し、就職難にあえぐ若者たちに理解と同情を示していた。
 「やはり雇用が資本主義社会の屋台骨ですから。働き手がいないと国家が成り立たないんで
 すね。強烈な社会不信がロストジェネレーションや無気力世代と呼ばれる若者の諦念を生み
 出しているだけで、彼らはけっして働く気がないわけではないんです。資本主義社会の新た
 な担い手となる彼らのためにも、政府は積極的な財政出動をおこない、安定した雇用を確立
 すべきなんです」
  ストールを首に巻いた若づくりの人気作家は、ロストジェネレーションや無気力世代の肩
 は持ったものの、臭いものに蓋をするかのごとくニートへの言及は避けていた。それは論点
 を明確にするためなのかもしれないが、俺には彼が暗に働く意思のない者の味方をする気は
 ないと言っているように思えた。
  誰が俺たちの味方をしてくれるだろう。いくら自分を奮い立たせても働く意思が持てず、
 資本主義社会の担い手になることのできない俺たちに、誰が手を差し伸べてくれるだろう。
 「カスミ……」
  一ヶ月後、契約期間を終えたあとも、あいつは俺を見捨てないでいてくれるだろうか。ご
 主人様ではなくなり、職も未来もないちっぽけなニートでしかなくなっても、俺の味方でい
 てくれるだろうか。
  愛してはくれるだろうか。
  絵空事ばかり並び立てるテレビを消し、一人きりの部屋に膝を抱えてうずくまる。
  自己弁護を唱え目をそむけても、俺はこの命題から逃れることができない。一日がどんな
 内容で、どんな回り道をしようとも、最終的には同じ標識にぶち当たってしまう。
  その標識にはこう書かれている。

  最低の人間であるおまえに、救いの神はいない。
  ろくに働くことのできないおまえに、生きる価値はない。

 「うるさい、俺は今それどころじゃないんだ。やるべきことがあるんだ……!」
  自分以外誰もいない部屋で、俺は心の声と格闘せねばならなかった。
  カスミを守り、シゲルへの復讐を果たす。訴訟でやつを完膚なきまでに打ち倒し、豊かな
 暮らしを取り戻す。確かな大義名分と絶えざる覚悟をもって、俺はこの戦いに挑んでいる。
  ――だが、それすらも働けないことからの逃避行動なのではないのか。
  そう囁く心の声を、俺は今夜も黙らせることができなかった。


  ついにストーカーの捕獲に成功したのは、二月の最終日のことだ。
  冬将軍が最後の大暴れをしているかのような、寒風吹きすさぶ夜だった。メイド喫茶での
 勤務を終えて避難先の豪邸に住まう同僚とともに中野駅に向かうカスミを尾行している最
 中、怪しい人影を発見したのだ。
  そいつは色落ちの激しいフードパーカとスウェットのパンツに身を包み、挙動不審に周囲
 をきょろきょろと見回しながらサンモールの人ごみの中を歩いていた。靴はよく履き古され
 たアディダスのスタンスミス。俺はそいつのコーディネイトに見覚えがあった。カスミ目当
 てで涅槃を訪れる常連客の一人だ。
  俺は職務質問を行う警察官のようにそっとそいつの背後に忍び寄り、軽く肩を叩いてやっ
 た。振り返るとやつはぎょっと両の瞳を見開き、口をきく間もなく駆け出した。
 「待て、この野郎!」
  何度となく通行人と肩をぶつけ、脇目も振らずに逃げ足の速いストーカーを追いかけた。
  やつは商店街をサンプラザ方面に折れ、信号機を無視して中央線のガード下を抜けた。心
 臓が跳ね上がるのを感じながら、俺も全速力でやつを追う。
  線路に沿ってレトロな街路灯が足もとを照らす坂道を駆け上がったところで、とうとうや
 つを目と鼻の距離にまで追い詰めた。
 「逃がすかよっ!」
  高校球児のヘッドスライディングさながらの勢いでやつの背中に飛びかかり、覆い被さる
 ようにして地面に倒れた。捕獲成功だ。息が上がって頭がくらくらした。こんなに無我夢中
 で全力疾走したのは、小学校の運動会以来だ。
  ストリートダンスの練習をする若者が消えた中野ZEROホールの正面で、俺はやつに馬
 乗りになった。すぐ近くにあるフェンスのむこうで、電車が線路を通過する音が聴こえた。
  調査開始から一ヶ月近く、野良犬が死にカスミが同僚の家に避難してからおよそ半月。と
 うとうストーカーをここまで追い詰めたのだ。逃がすわけにはいかない。
 「いいわけは聞かねぇぞ、物証も押さえたからな……こいつは没収だ」
  俺は地面に転がっていたボールペンの形状をした小型ビデオカメラを拾い上げた。こいつ
 を使ってカスミを盗撮していたのだろう。盗撮画像掲示板で得た知識がなければ、これがビ
 デオカメラだとは気づかなかったかもしれない。連日のエロ画像漁りが、まさかこんな場面
 で役に立つとは。
 「観念しろ変態野郎。おまえを警察に突き出してやる」
 「やっ、やれるもんならやってみろ! 僕の父さんは池袋警察署の署長だ!」
 「それがどうした。俺の親父は夏見英一だ」
  間近で見るとストーカーは高校生くらいの線の細い少年だった。両耳にピアスをあけて染
 髪してはいるが、怯えきった顔にはまだ親の庇護下にある者のあどけなさが残っている。
  俺に下敷きにされたストーカーの少年は、声を震わせつつも抵抗を続けた。
 「だだだだいたい、きみに僕の恋路を邪魔する権利があるのか!?」
 「悪いな、俺はあいつのご主人様なんだよ。メイドについた悪い虫は、退治しないとな」
 「い、いっしょに暮らしてるくらいでいい気になるなよ! カスミちゃんはみんなのメイド
 なんだ! おまえのものじゃない!」
 「やれやれ、口の減らないガキだな……」
  俺はやつを仰向けにして胸ぐらを引き寄せた。
  眠らぬ街の騒音の中でも俺の声がはっきりと届くように、鼻頭がくっつきそうなほど顔を
 近づけてやつに宣告する。
 「いいか、よく聞けよ。カスミは俺が守る」
  深く息を吸い込み、やつに――そして俺自身に向けて、言い放った。

 「カスミは俺の女だ! 誰にも手出しはさせない!」


  退路が断たれたと悟るやいなや、気の弱い少年はしゅんとなってしおらしく罪を認めた。
  やつは昨年末に涅槃に来店して以来カスミに憧れを抱くようになり、ストーカー行為に走
 ってしまったと自供した。野良犬を殺害し花田荘に送りつけてきたのは、やはりカスミと同
 棲に近い状態にある俺への警告のつもりだったらしい。
 「お願いです、このことは誰にも言わないでください……」
  少年は俺にそう懇願してきた。四月に大学入学を控えており、両親や高校に罪を知られた
 くないのだという。まったくもって、身勝手にもほどがある。
  しかし俺は警察官じゃない。カスミの神経を衰弱させ野良犬の命を奪った罪は重いが、や
 つの出方によっては情状酌量の余地を与えてやろうと思った。
  そこで俺はやつに交換条件を提示した。素直に条件に応じれば今回の件は不問に処す、た
 だし約束を破れば揺るがぬ証拠として小型ビデオカメラを警察に提出するとやつを脅しつけ
 た。甘い判断かもしれないが、俺にはこの少年がそんなに悪いやつには見えなかったのだ。
 「本当にそんなことで許してくれるんですか? だったら、喜んで協力します!」
 「ああ。そのかわり二度とこんなことはするんじゃないぞ」
  少年は再犯はしないと誓って深くこうべを垂れ、俺に感謝しつつ反省の意を述べた。この
 様子なら彼はもう道を踏み外すことはないだろう。仮にどこかで再び過ちを繰り返したとし
 ても、それは俺には関係のない話だ。カスミさえ無事なら俺はそれでいい。彼を更生させる
 のは、俺の役目ではないのだから。

  純朴なストーカーの少年と別れたその足で中野駅に行き、何本か電車を乗り継いで田園調
 布に向かった。
  街の玄関口である田園調布駅に降り立ち、携帯電話で地図を確認しながら歩くこと二十
 分。俺はカスミが同僚とともに住まう西洋建築のお屋敷にたどり着き、カメラと指紋認証が
 ついたインターホンを鳴らした。
  事情を説明するとカスミの同僚はすぐに門の施錠を解除してくれた。左右に割れた鉄製の
 格子の間を通り抜けて広い庭に足を踏み入れる。ほどなく玄関の扉が開き、カスミがひょっ
 こりと顔を出した。彼女がこのお屋敷に緊急避難してから俺たちは半月以上も離れて暮らし
 ていた。感動のご対面だ。
 「ご主人様、こんな夜中にどうしたんですか?」
 「おまえを迎えに来たんだよ」
 「でも、ストーカーが……」
  一連の事件が解決したことを知らないカスミは、お化け屋敷の中を歩くように用心深く周
 囲に視線を走らせて俺に近寄ってきた。無理もない。野良犬のことがあってから、彼女は恐
 怖と隣り合わせの日々を過ごしていたのだから。
  だが、すべては終わったのだ。悪い狼は去ったと伝え、彼女を安心させてやらなくては。
 「大丈夫、もうストーカーは現れないよ」
  まだ半信半疑の彼女に、俺は心の底からの笑顔でかじかんだ手を差し出す。
 「花田荘に帰ろう」

  中野の街に戻った俺たちは、駅前の広場に出ていた屋台で少し遅めの夕食にありついた。
 六百円のラーメンは貧乏暮らしの俺たちには贅沢な食事だったが、今夜くらいはそれもいい
 だろう。
  痩せた初老の店主が麺を茹でている間、俺はカスミにストーカーの少年について話して聞
 かせた。改悛の情に駆られた彼は自ら花田荘に出頭してきて、二度とこんなことはしないと
 誓って俺のもとを去ったと。多少事実と異なる説明ではあったが、ことが丸く収まるのなら
 そのほうがいいと思ったのだ。
  カスミははじめ信じられないという顔をしていたが、味噌ラーメンを食べ終えるころには
 表情も和やかになり、すっかりもとの元気を取り戻していた。これにて一件落着だ。
  店主にお代を支払い、路地があみだくじのように入り組んだ中野区一丁目へと通じる線路
 沿いを歩いた。昼夜を問わずひっきりなしに走るタクシーを避け、一列になって帰り道をた
 どる。疲れ果てて眠りについた冬将軍の寝息が、そよそよと心地よく吹きつけていた。
 「たまにはラーメン屋で食事をするのも悪くないな。今度青葉にでも行くか」
 「そうですねぇ。ご主人様、私がいない間ちゃんとした食事してました?」
 「レトルト食品に詳しくなったよ」
 「もう、不摂生はいけません。栄養価の高い食事をしないと、長生きできないですよ」
  手前を歩くカスミが、街路灯の下で振り向いて笑う。
 「ご主人様は私がいないとダメですね」
  俺は苦笑するだけで返事をしなかったが、心の中では彼女の言葉を認めていた。
  そうなんだ。
  おまえがいてくれないと、俺はダメなんだ。
 「……あのさ、カスミ」
 「なんですか?」
 「四月になったら、おまえどうするんだ?」
  あと一ヶ月で共同生活の契約期間が終わる。桜が街を彩るころには、俺たちは主従の関係
 ではなくなってしまう。甘い蜜月の終焉は、もうすぐそこまで来ている。
  もしよかったら、これからも俺と――そう言おうとして、カスミの声にさえぎられた。
 「行ってみたいところがあるんです。だからお引っ越しします」
  花田荘の家主には三月いっぱいで部屋を引き払うと約束している、同僚と別れるのはつら
 いが、涅槃でのアルバイトも辞めて中野を去る。カスミは俺にそう告げた。どこに引っ越す
 予定なのかと訊ねると、まだ計画の段階なのでそれは教えられないと言われてしまった。
 「でも心配しないでください。たとえ離れて暮らすことになっても、これからもご主人様は
 私のご主人様ですから」
 
  やりきれない気分になったが、必死に顔に出すまいと努めた。
  できることなら、いつまでもカスミといっしょに暮らしていたいと思った。その淡い願望
 は今にはじまったことじゃない。もうずっとまえから、俺は彼女なしには生きられなくなっ
 ていたんだ。
  主従関係が終わっても、俺は彼女にそばにいてほしい。労働契約や金の繋がりなんていら
 ない。雇い主とメイドとしてではなく、一人の人間として対等な関係でそばにいてほしい。
 就職先も金もなくていい。復讐が未遂に終わってもいい。
  これが俺の、たったひとつの望み。
  ご主人様なんて呼んでくれなくていいから、俺を名前で呼んでくれ。

  ――名前を呼んで、愛していると言ってくれ。

  最後までそう口に出すことができず、俺はポケットに両手をつっこんで近隣の小学校の生
 徒によるグラフィティアートが描かれたガードの脇を歩き続けた。
  花田荘に帰るまでずっと、カスミの背中を見つめながら。


  早ければ明日にでも、ストーカーの少年は俺との約束を果たすだろう。
  彼は池袋警察署を訪ね、父親である署長に俺の告訴状を受理させる。それが俺が彼に提示
 した交換条件だ。
  近く検察による取り調べがはじまり、綿貫茂起訴のニュースが世間を騒がせる。俺の物語
 は動き出し、復讐計画は最終局面に突入する。
  そこに待ち受けている未来がどんなものなのか、俺に知るすべはない。天国への階段を上
 がっているのか、地獄の淵を滑走しているのか。今はまだ、それすらわからない。
  俺にわかるのはふたつだけ。俺は彼女を愛しているということ。いずれ彼女はこの街を離
 れ、俺のもとからいなくなってしまうということ。
  もうすぐ日付が変わる。ひとつの季節が終わりを迎え、獅子のような三月がやってくる。
  俺の焦燥感などつゆ知らず、最後の幕が開く。

  共同生活の期限は、残り一ヶ月を切った。
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