round1『ご主人様と呼べ!』

  これは、一人の青年の戦いと再生の記録である。

                           第一部

  この日、八十年代から続く六本木の老舗クラブ『ヴェルファイア』のドアは、固く閉ざさ
 れている。
  看板に書かれた文字は、CLOSEDの六文字ではなく「夏見智史様、本日貸し切り」の
 一文。この夏見智史という人物が平凡な人間ではないことは、ワンフロアではなく店舗ごと
 貸し切りにしているところからうかがい知ることができるだろう。
  きっと多くの人はこの一文から、どこかの大企業の社長とか、有名な学生サークルの代表
 とか、海外のセレブとか、そういった上流階級の人間を想像するに違いない。
  だけど、ちょっと違う。
  夏見智史は御曹司ではあるが社長ではない。学生ではあるがサークルの運営もしていな
 い。ついでに言うと、セレブではあるが、イレブンじゃない日本人だ。
  じゃあどんな人物かって?
  それは夏見智史――俺に訊いてくれ。


 「夏見先輩、お誕生日おめでとうございまーす!」
  司会に続いて、五百人超のオーディエンスが俺への祝辞を唱和した。ステージの上からは
 俺を取り巻くようにして、同窓生によるクラッカーの三十発一斉掃射。極めつけは、この地
 下三階から地上にまで届きそうな拍手の嵐だ。
  俺の鼓膜は割れんばかりの祝福にまだ驚いているようだったが、もうちょっとだけ我慢し
 てもらうことにして、司会の下級生からマイクを拝借する。
  主役のMCをまえに、しんと静まり返る場内。五百人超の聴衆が、息をひそめて俺に注目
 する。この瞬間がたまらない。まるで自分がこの世界を支配しているかのような錯覚を覚え
 る。
  薄暗いフロアの奥まで見渡してもったいぶったあと、まずは軽くご挨拶。
 「……ありがとウィッシュ!」
  両手をクロスさせると、会場がどっと沸いた。つかみはOKといったところか。
 「えー、みなさん。今日は俺の二十二回目の誕生日を祝いに来てくれて、本当にありがと
 う! こんなに大勢の人に祝ってもらえて、最高に幸せです。今日は貸し切りなんで、朝ま
 でアゲアゲでいきましょう! 以上!」
  俺の言葉に応えるように、再び拍手と歓声が巻き起こる。それを合図にDJは音楽を鳴ら
 し、天井のミラーボールはダンスフロアに色鮮やかな光線を走らせる。ついでに背後のスク
 リーンには俺の誕生日を祝う英文が躍った。
  今回のパーティも大成功だ。この客の入りならクラブ側は大満足だろう。収益の何パーセ
 ントかは企画を任せたゼミの同窓生たちに分配される。今日ここに駆けつけた五百人の中に
 は、この場で知り合った異性と熱い一夜を過ごす者もいるに違いない。
  それらはすべて、俺のおかげ。俺という、生粋のカリスマのおかげだ。

  特に親しい間柄の者だけを集めて移動したVIPルームには、どこからかパーティの噂を
 聞きつけた業界人が、ひっきりなしに訪ねてきた。
  いい歳をした大人たちが花束を差し出してぺこぺこと俺に頭を下げる光景は、実に愉快か
 つ滑稽だ。中にはここぞとばかりに営業をかけてくる者もいたが、そんな不届きな輩にはあ
 ごで出入口の場所を教えてやった。
 「サトシ、なにもそこまで邪険に扱わなくてもいいんじゃないのか。せっかく来てくださっ
 たんだから」
  ソファに腰を落ち着けて気持ちよくウイスキーを飲んでいたところ、俺の右手に座る、岩
 のようなゴツい顔をした男――久瀬猛にそんなことを言われた。オカンか、こいつは。
 「いいんだよ。スーツを見ればわかる。どうせ親父の利権目当ての、地方放送局のせこい連
 中だ。いつも言ってるだろ? 俺が相手にするのは金持ちだけ。いちいち貧乏人にまで関わ
 ってちゃ、キリがないんだよ」
  それだけ言ってグラスを傾ける。タケシはまだなにか言いたそうな顔をしていたが、せっ
 かくの雰囲気に水をさされても困るので、放置しておくことにした。
 「ねぇサトシ、私との一周年にも、パーティ開いてよね」
  今度は左手から声をかけられる。井上柑奈。付き合い始めて一ヶ月になる、俺の恋人だ。
 「きみとの誕生日は二人で過ごしたいな。夜景が見える、一流ホテルの最上階でね」
 「いや〜ん、サトシってサイコー」
  なにを今さら当たり前のことを。この俺がサイコーでなければなんだと言うのだ。シュー
 ジンだとでも言うのか。カンナは育ちはいいが、頭が弱すぎる。
  まぁいい。どうせ一周年を迎えるまえに捨ててやるさ。
 「とにかく、今日は俺の奢りだ。さぁみんな、もっとジャンジャンバリバリ飲んでくれ」
  ウェイターを呼び、ボトルを一本追加した。もちろん、この店で一番高いやつを。

  夜もふけぬうちに、俺は再び移動を開始した。
  目的地はとある高級住宅街。そこに俺が暮らすマンションがある。一般庶民の言葉を借り
 るなら億ションというやつだ。大学に進学した年に、親父が気前よく買い与えてくれた。
  VIPルームで宴会をしていた仲間たちを引き連れてヴェルファイアのエントランスに出
 ると、先ほどの司会の男が待ちかまえていた。
 「お疲れ様です先輩! お出かけですか?」
 「ああ。あとは適当に楽しんで、いつもどおり五時には客を外に出してくれ」
  胸ポケットに本日のアルバイト料を現金で支払ってやると、司会の男は身体をくの字に折
 り曲げて、深々と頭を下げてきた。
 「ありがとうございます! お気をつけて!」
  ふん、プライドのないクズめ。
  屋外に出ると、十月の心地よい夜風がアルコールで火照った身体をほどよく冷ましてくれ
 た。
  路肩に待機させていた四台のタクシーに、取り巻きどもを流れ作業で滑り込ませる。俺が
 最後の一台のドアに手をかけたとき、まだ路上に突っ立っているのはタケシ一人だった。
 「どうした? 乗らないのか」
 「なぁ、サトシ」
  タケシは重いドキュメンタリでも見たあとのように、深刻そうな表情で足もとを見つめて
 いた。
 「さっき、相手にするのは金持ちだけ、貧乏人にまで関わっている暇はないって、言ったよ
 な」
 「ああ、言ったな。それがどうかしたか?」
 「だったら、サトシはどうして俺の相手をしてくれるんだ? 俺の親は普通のしがないサラ
 リーマンだ。俺は金持ちの息子でもなけりゃ、名家の跡取りでもない。運よくおまえと同じ
 大学に入れただけの貧乏人だ。そんな俺を、どうして相手にしてくれる?」
  意外な角度からの質問に少々面食らった。
  俺の交友関係には、やんごとなき家庭でやんごとなき教育を受けた者が多い。というの
 も、大学自体がそういう人間の集まりやすい風土なのだ。
  タクシーの中で騒いでいる取り巻き連中だって、親の履歴書を見れば大手メーカーの役職
 名がそろい踏みするような、中流階級以上の人間がほとんどだ。
  そんな中では、タケシは確かに少々浮いた存在かもしれない。
  それでも、解答に迷うほどじゃない。
 「決まってるだろ、そんなの」
  俺はタケシの肩に腕を回し、浮かない横顔に語りかける。
 「おまえが友だちだからだよ」
  微笑みかけてやると、タケシもようやく安心したように破顔した。
 「そっか……そうだよな!」
 「さ、わかったらさっさと次のパーティ会場に移動しようぜ」
  背中をぽんと叩いて、電柱みたいに地面にくっついたやつの足を引き剥がしてやる。
  肩を組んで乗ったタクシーの中では、タケシはすっかりいつもの表情に戻っていた。
  どうやら俺の言葉は、ちゃんとタケシの胸に届いたらしい。
  ま、言葉の真意は別としてね。

  自宅マンションで俺を迎え入れてくれるのは、三島香澄という名の同い年の家政婦だ。俺
 は家事全般に頓着がないので、日常生活における雑事はほとんど彼女に任せきりになってい
 る。
 「おかえりなさいサトシさん。今日はお客さんが大勢いらっしゃるんですね」
 「悪いね、こんな時間に来てもらって。そのぶん給料ははずむから」
  本日のカスミはオレンジのタートルネックにスキニージーンズという、質素ないでたち。
 控え目な性格に反して激しく主張するバストが浮き彫りになっている。
  俺が取り巻きたちを奥の間へ通したあとに彼らの靴を四畳の内玄関にきちんと整列させる
 のも、カスミの役目だ。
  そんな彼女の姿を、はじめてここに来た連中は物珍しそうに見ていた。
 「やっぱスケールが違いますね、サトシさんは。俺、個人でメイドを雇ってる人なんてはじ
 めて見ましたよ。それだけでも凄いのに、あんなに可愛い人、なかなかいないッスよ」
  下級生の一人がそう言った。
  俺は黒地に白のスティッチが入った革張りのソファに腰を落ち着けると、作り慣れた余裕
 の笑みで返す。
 「たまに家事を手伝ってもらってるだけで、メイドなんていいもんじゃないよ。ただの家政
 婦さ。まぁ、彼女の容姿は俺の自慢のひとつだけどね」
 「家具も高級品なら、家政婦も一級品ッスね!」
  当たり前だ。インテリアに妥協しないのがセレブのたしなみだ。カスミだって、俺の私生
 活を彩るコレクションのひとつに過ぎない。
  カスミがテーブルの上に料理を並べている間、何人かの招待客は博物館に迷い込んだかの
 ような顔で、二十二畳のリビングをおそるおそる見渡していた。女性陣の多くは、バルコ
 ニーで地上二十三階から見降ろす東京の夜景に心奪われていた。
  中には俺の自室を見たいという者もいたが、それだけは断固として拒否した。誰だって、
 他人に見せたくない物のひとつやふたつはあるはずだ。たとえば、壁一面に並ぶアニメグッ
 ズとかな。
  俺が海外から仕入れたB&Wのオーディオを友人たちに紹介していると、コンクリートの
 室内に皿が割れる音が響き渡った。
  リビングにいた連中がいっせいにキッチンに目を向ける。カスミの足もとに、陶器の破片
 と鶏肉のマリネが散乱していた。
  様子を見に行くと、料理を運ぶ手伝いをしていたカンナがその場に膝をつくカスミを呆れ
 果てた顔で見下ろしていた。
 「あ〜あ、これマイセンのお皿じゃん。二万円くらいするんだよ? カスミさん、わかって
 んの?」
 「も、申し訳ございません!」
  カスミはその場に膝をつき、青い顔で所在なく視線をさまよわせている。彼女は献身的で
 よく働いてくれるが、この手のドジは日常茶飯事だった。
  俺は素手で破片を集めようとするカスミの手を止めて、同じ目線で彼女に語りかける。
 「危ないよ」
 「で、ですが……」
 
  彼女の手からガラス片をそっと抜き取り、優しく微笑みかける。
 「食器が一枚減るよりも、きみが怪我をすることのほうがショックだ。待ってて、今ほうき
 とちり取りを取ってくるから」
  そう言って立ち上がると、一連のやりとりを遠巻きに見ていた連中が陶酔の表情で俺を見
 守っているのがわかった。そばにいたカンナなどは「サトシやさしー」と口に出して俺を讃
 えていた。
  そうとも。これが持てる者の余裕だ。悩める者に手を差し出す慈悲の心も、セレブは忘れ
 ちゃいけない。
  カスミと共同作業で床を掃除したあと、俺はリビングに集結した面々に向かって、声高ら
 かに宣言した。
 「さぁ、パーティの続きだ。明日の授業のことは忘れて、楽しんでいってくれ」
  二十年モノのシャトー・マルゴーを開けると、周りからおお〜、というユニゾンが起こっ
 た。誰も彼も、俺の破格の振る舞いに驚きと陶酔を隠せない。
  下界の不景気なんて、地上二十三階に暮らす俺には、遠い世界の出来事だった。


  浅い眠りから覚めると、散らかった室内に淡い日射しが溶け込んでいた。
  どうやらソファで寝てしまっていたらしい。室内に人の気配はなく、テーブルには空のボ
 トルが山脈のように連なっている。昨晩のどんちゃん騒ぎが嘘みたいな、静かな朝だった。
 「あ、おはようございますサトシさん」
  上体を起こすと、フローリングの床を掃除していたカスミと目が合った。宴会のあと片づ
 けがまだ終わっていないようで、額に汗の珠を滲ませている。
 「どれくらい寝ていた?」
 「ご学友のみなさんがお帰りになられてすぐだから……だいたい三時間くらいでしょうか。
 今日は大学には行かれるんですか?」
 「いや、今日は自主休講だ」
  俺ともあろう者が、どうやら昨夜はアルコールの分量を誤ってしまったらしい。まだ意識
 がしっかりしないし、疲れもとれていない。普段なら大学に向けて車を走らせている時間帯
 だが、今日はいいだろう。
 「それにしても、昨晩はお楽しみでしたね」
  カスミはどこぞの宿屋の主人みたいなことを言う。
 「なにがお楽しみなものか。あれくらい、どうってことはない」
  パーティは確かに盛り上がったが、あんな虫けらどもと時間を共有したところで、一銭の
 得にもなりはしない。ああやって定期的に財力とカリスマを誇示してやらなければ愚民ども
 はついてこないからな。まったく、セレブも楽じゃない。
 「あ、そうだ!」
  カスミは雑巾をかける手を止めると、なにかを思い出したようにキッチンへと走っていっ
 た。俺のもとに戻ってきた時、彼女は赤い包装紙でラッピングされた小箱を大事そうに抱え
 ていた。
  頬をほのかに桜色に染めながら、カスミは言う。
 「サトシさん、二十二歳のお誕生日おめでとうございます。これ、つまらない物ですが……
 私からのプレゼントです」
  そういえば誕生日とはそういう日だったか。あげるばかりで、もらうことを忘れていた。
 「開けてみてください」
  言われるままに包装紙を破き、箱の中身を確かめる。俺が今年もらった唯一の誕生日プレ
 ゼントは、安っぽい美少女の人形だった。
 「これ、サトシさんが最近夢中になっている、ざんげちゃんのフィギュアです。秋葉原中探
 し回って買ってきたんですよ!」
  手に取り、マッチ棒のような肢体をじっくり鑑賞する。が、それは俺の物欲を満たすよう
 な物ではなかった。
 「ふん、こんな物いるか」
  キャッチボールの要領で、フィギュアを投げ捨てる。ざんげちゃんはごみ箱の縁にクリー
 ンヒットすると、床の上でバラバラになった。
 「ああ、なんてことを……!」
 「おまえ、俺をナメてるのか? ちゃんと造型師の名前は確認したか? 顔がモッコスじゃ
 ないか。あんな不細工を俺のコレクションに加えろってのか? 冗談もほどほどにしろよ」
  こんな粗悪品が誕生日プレゼントだなんて、俺を侮辱するにもほどがある。
 「も、申し訳ございません!」
  カスミはしゅんとなって頭を下げる。その表情が、俺の嗜虐心に火をつける。
  俺は怒りにまかせてカスミを叱責した。
 「それにいつも言っているだろう。二人きりの時はご主人様と呼べと。何度も言わせるな」
 「は、はい! 申し訳ございません、ご主人様!」
  自分の失態に気づいたカスミは、慌てて頭を下げる。
  だが、もう遅い。彼女は朝から俺の機嫌を損ねた責任を取らなくてはならない。
  ……やれやれ。どうやら今日も、お仕置きが必要なようだ。
 「おい」
  俺はクローゼットをあごでしゃくり、カスミにいつもと同じ命令を下す。
 「メイド服に着替えろ」


  カスミは家政婦だが、それはあくまで建て前にすぎない。俺と二人でいるときは、彼女は
 俺に仕える従順なメイドだ。
  メイドはご主人様に尽くさなければならない。自尊心をかなぐり捨て、身も心もすべて捧
 げて俺に奉仕するのが、彼女の役目だ。
 「おい、もっと舌を使え」
 「ふぁい……申し訳ありません、申し訳ありません……んぐっ」
  ソファに腰を落ち着けたままの俺の股間に顔をうずめて、メイド服を着たカスミは必死に
 口を動かす。両目の端に涙を浮かべ、抑えきれない羞恥心をぐっとこらえながら。
 「それと、昨日おまえが割った皿の代金は給料から引いておくからな。せいぜい尽くせよ」
 「んむっ、あむ……了解しまひた、ごひゅじんさま……」
  父親の借金のカタにカスミが俺のもとに来て、はや三ヶ月。カスミは俺にとって、最高の
 玩具になりつつあった。
  そして俺は絶頂を迎える。まるで俺の人生みたいに。

  俺たちは、主従の関係。
  ご主人様と召し使い。マスター&サーヴァントだ。
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