round9『雨に濡れた仔犬のように』

  ある日、俺がいつものようにまんが喫茶から帰宅すると、座敷に見覚えのないブランド名
 が刻印された紙袋が鎮座していた。
 「どうしたんだこれ。ユニクロ以外で衣類を買ってくるなんて、珍しいじゃないか」
  無印良品で買い物をするのにも二の足を踏むカスミに、自分へのご褒美などといったス
 イーツ思考が働くとは思えなかった。もしそうなら、今宵は雪が降るだろう。
 「期間限定で、お店の制服が変わるんですよ。もうすぐクリスマスですからね」
  ちゃぶ台に晩ごはんを配膳しつつ、カスミはコスチュームが店側から支給されたのだと説
 明した。
  紙袋を勝手に開けてみると、中から出てきたのは案の定ミニスカサンタの衣装だった。メ
 イドカフェ・涅槃の店主は、確か加藤といったか。愛と平和と同情がモットーのような顔を
 しておきながら、あの男もなかなかいい趣味をしている。
 「そうか、もうそんな季節なんだな……」
  言われてみれば近頃、中野の街は右を向いても左を向いても煌びやかな電飾に覆われてい
 る。俺がカスミの住居に転がりこんだのが九月の暮れだったので、聖夜を迎えるころには、
 カスミとの半年間の共同生活はちょうど折り返し地点に突入することになる。
 「なぁ、おまえはもうクリスマスの予定は決まっているのか?」
 「今年のクリスマスは平日ですからねぇ。普通にお仕事をしていると思いますけど」
 「そ、そういえばそうだったな! 俺も当日は仕事だ。まったく、年末進行は忙しくてかな
 わん」
 「せめてタンドリーチキンとシャンパンだけでも買って、お祝いしたいですねぇ」
  さっそくクリスマス料理にかかる費用を両手で試算するカスミに対し、俺は今の会話でボ
 ロが出なかったかと内心気が気でなかった。
  カスミにはまだ、アルバイトを辞めたことは話していない。一度嘘をついてしまうと、日
 に日に真実を打ち明けるのが怖くなっていく。
 「まぁ、まだしばらく先の話ですから。それより早くしないと、ごはん冷めちゃいますよ。
 今日もお仕事でお疲れでしょうし、じゃんじゃんおかわりしてくださいね!」
  そう言って両手を合わせるカスミの笑顔に、胸が痛みを訴える。
  お疲れなものか。カスミがブロードウェイで食費を稼いでいる間、俺はずっとまんが喫茶
 でネトゲをして遊んでいたのだ。気疲れするのも嫌になって、ひたすら現実から目を背けて
 いたんだ。
  ――こんなボロ屋敷、すぐに職を見つけて出ていってやるさ。
  はじめて花田荘を訪れたときの自分の言葉が、胸の奥でむなしく響く。このまま行けば、
 俺はシゲルに復讐するどころか、職を見つけることすらなく共同生活の契約期限を迎えてし
 まうだろう。
  再浮上の目はなく、時間だけが刻一刻と過ぎていく。


  その後も俺は毎日出勤するふりをしてまんが喫茶に通い続けたが、その間一度も仕事をし
 ようと思わなかったかといえば、そんなことはなかった。
  榊さんの会社で味わった苦い挫折がトラウマになっているのか、労働意欲は我慢汁ほども
 湧いてこなかったが、このままでは廃人になってしまうという危機意識が俺をアルバイトへ
 と駆り立てた。
  最初に挑戦したのはサンモールの裏通りにずらりと並ぶ飲食店、その中でもっとも客足が
 鈍そうなラーメン屋の厨房だった。食器洗いくらいなら俺にもできると思った。
  しかし洗うのは食器だけではなかった。油汚れが取れない排気口、隅をつつけば黒い虫が
 飛び出してきそうな調理台、テーブルに床に天井に店の裏まで掃除させられた。
  その結果どうなったかというと、店長に頭をはたかれ罵声を浴びせられた。動くのが遅い
 だの汚れがちゃんと取れていないだの返事にやる気が感じられないだの散々な言われようだ
 ったので、ここでのバイトは一日で辞めた。
  ならば立っているだけならどうかと思い、今度は中野通りに面したコンビニで働くことに
 した。基本直立不動で笑顔さえ絶やさなければいいレジ打ちならば、俺にもやれるような気
 がした。
  しかしその判断はあやまりだった。携帯電話のプリペイド機能やクオカードで代金を支払
 われる度、俺は突発的なパニック症候群に陥りミスを連発した。ここでは店長に罵声を浴び
 せられることはなかったが、かわりに客にしつこくクレームをつけられた。勤務時間の終わ
 りにレジ集計で二万円を超える誤差が判明して、やはりここも一日で辞めた。
  かくなる上は単純作業しかないと思い、俺は藁にもすがる思いで段ボールを人から人へと
 渡すだけの工場でアルバイトをすることにした。出勤当日、頭の弱そうな外国人労働者が大
 量にいるのを見て、やれる! と思った。
  しかしまたしてもやれなかった。段ボールを百回も手渡したころに、俺の腕が悲鳴をあげ
 た。限界です、筋肉が痙攣していますと同僚のDQNに訴えると、どこに筋肉があるんだよ
 と言って背中を蹴りつけられた。確かに俺の二の腕には筋肉がなかった。昼休憩の間にトイ
 レに行き、窓からこっそり逃げ出した。ここでは一日どころか、半日ももたなかった。
  そうやって応募と無断欠勤を繰り返すうちに、やはり俺には労働は向いていないのだとい
 う結論にいたった。いくら仕事を変えても、割れた蜂の巣のように次々と問題が飛来しては
 俺の心を挫く。しょせん温室育ちの俺には、自分の力で生きていく能がないのだ。
  バイトを辞めると、次の行動を起こすための気力を充填するのに、最初は三日かかった。
  それが失敗を重ねる度に、四日、五日と伸びていく。
  クリスマスまえの一週間、俺はほとんど毎日まんが喫茶にいた。


  そして今日も俺は、両脇をセパレーターに塞がれた、小さな箱に閉じこもる。
  まんが喫茶のポイントカードはすさまじい勢いでハンコの数を増やしている。対象的に、
 武蔵小路探偵事務所への支払いやまんが喫茶の利用費、食費やスーツ購入費、その他もろも
 ろの経費がかさんで、クレジットカードの残高はみるみるうちに減っている。当初百五十万
 円あった俺の貯蓄だが、このペースでいくと来月末には桁がひとつ減りそうだ。
  まんが喫茶で電子の海にもぐっている間、俺にはともに泳ぎ続ける仲間がいた。
  俺は彼の顔も名前も知らない。知っているのは、hikashuというアングラ感漂うハンドル
 ネームと、彼が現役の高校生であり、現役の不登校児であるという事実のみ。
  そう、俺たちは似た者同士だった。
  俺にとって彼は仮想現実においてのみ存在するアバターで、彼にとっても俺はアバターだ
 った。だからこそ俺たちは、容姿やステータスにとらわれず、精神で共鳴することができ
 た。恥も外聞もない私生活を隠さずとも、ともに笑い、ともに泣くことができた。いつし
 か、彼は現実世界で誰にも相手にされなくなった俺の、たった一人の親友になっていた。

  satosixの発言:
  さて、クリスマスに予定が入ってないのは人生初なわけだが。
  hikashuの発言:
  え? 今年のクリスマスは中止じゃないんですか?
  satosixの発言:
  バーローwww東京全体にツリーとかキラキラが飾ってあんだろwww
  hikashuの発言:
  ひきこもってたから気づきませんでしたサーセン^^;
  satosixの発言:
  テラ社会不適合者wwwどうせお互い暇ならオフ会でもやろうずwwwww

  MSNメッセンジャーのチャットウィンドウにに返信が表示されるまえから、俺は浮き足
 立っていた。
  人生におけるありとあらゆる場面でどこぞの奥州筆頭のように「レッツ、パーリィ!」と
 叫んでは大軍を率いて飲めや唄えやを繰り返してきた俺だが、オフ会の経験は皆無だった。
 人間関係に飢えたことはなかったし、会いたいと強く願う相手もいなかったからだ。
  だけど今は事情が大きく違っている。俺を求める者はなく、俺は切実に求めている。傷を
 舐め合える相手を。これ以上俺に傷を負わせない相手を。
  病院で目を覚ましてからというもの、俺は誰かと会う度に傷を増やしてばかりだ。誰もが
 俺を傷つける。シゲルもそう、タケシもそう、カンナもそう、入社試験の面接官も、榊さん
 もバイト先の人間もそうだ。例外は大木戸さんと浪子……あとはカスミくらいだ。
  だが、精神で共鳴し、社会的な立場も似たり寄ったりなhikashuは、俺を嘲笑しない。罵
 倒しない。決して傷つけない。
  ――彼となら、会いたいと思った。
  ほどなくしてタスクバーのアイコンがオレンジ色に明滅した。二十四日はバイトの予定が
 入っているが、二十五日なら大丈夫。あとはとんとん拍子にオフ会の計画がまとまっていっ
 た。逃げて逃げて逃げて、小さな箱の中に閉じこもる生活の中に、心の拠りどころができ
 た。
  こうして、俺はこの日もポイントカードのハンコをひとつ増やした。俺はhikashuと会う
 その日だけを楽しみに、クリスマスまでの残り数日を逃げきることにした。


  イヴの前夜、突如カスミが倒れた。
 「年末商戦もいよいよ大詰め。大手玩具販売店各社は、生き残りをかけて独自の戦略で山場
 となる明日に挑みます」
  深夜十一時過ぎ、粗末な晩飯をたいらげたばかりの俺は、居間に寝転がってジャニタレの
 ニュース番組を観ていた。台所のほうからは食器が割れる音が聴こえてきたが、食器洗いで
 ドジるのはカスミにはよくあることなので、別段気にも留めなかった。
  ブラウン管の中で、年端もいかない子どもたちが「サンタさんにはなにをお願いした
 の?」との街頭インタヴューを受けていた。俺は彼らの物欲しそうな顔を見ながら、親父の
 関係者から山のようなクリスマスプレゼントが届けられ、手に入らぬものなどなかった幼少
 時代を思い出していた。今は手に入らないものばかりだ。仕事とか、地位とか名誉とか、友
 だちとか。
  用を足そうとして腰を上げたとき、ようやく台所の物音が絶えていることに気づいた。カ
 スミは床にへたりこみ、彼女のすぐそばにはガラス片が散らばっていた。
 「おい、どうした?」
  駆け寄って抱き起こしてやると、彼女は幽霊みたいに白い顔で俺を見た。頬にかかる吐息
 がやけに熱い。一目見て風邪に罹患しているのだとわかった。
 「大丈夫、ちょっと立ちくらみがしただけですから」
  立ち上がろうとするものの、力が入らず椅子の背もたれにすがりつくカスミ。
  ほっておくと気絶しそうだったので、強がる彼女を強引に布団に寝かしつけ、体温計で熱
 を計らせた。四十度近い高熱だった。だがそれを見てなお、彼女は立ち上がろうとする。
 「お店の制服、洗濯しておかなくちゃ……」
 「おい、まさかその体調で明日も出勤する気か?」
 「みんな頑張ってるのに、私だけ休むわけにはいきませんから……」
  過労だと思った。この一週間、勤め先がクリスマスキャンペーン中とかで、カスミはろく
 に休暇をとっていない。勤務時間も増える一方で、働きづめの状態だ。かといって彼女は体
 力自慢でもなんでもない。体調を崩すのも無理からぬ話だ。
 「いいから休めよ。店には俺のほうから連絡しとくから」
 「ですが……」
 「ですがも春日もあるか。薬買ってくるから、頭にこれ乗っけて寝てろ。いいか、これは命
 令だからな」
  汗ばんだ額に氷のうを置いてやると、カスミは目を細くして、振り絞るような笑顔で言っ
 た。
 「ご主人様の命令じゃ、逆らえませんね」
  なぜかどきりとしてしまい、こっちの顔まで熱を帯びてくる。それを悟られまいとして、
 俺はコートも羽織らず部屋を飛び出してしまった。

  深夜のコンビニで風邪薬とスポーツドリンクを買った帰り道、俺はカスミの言葉を何度も
 思い返していた。
  自分だけ休むわけにはいかない、と彼女は言った。俺はてっきり、彼女は生活費のために
 働いているのだと思っていた。あるいは俺のために。だけどそれだけではなかった。
  同僚のため、客のため、もしくは店のため。彼女は使命感にも似た勤労意欲に突き動かさ
 れて、身体を壊すまで働いていた。俺にはそれがうらやましくて、少しだけ悔しかった。
  俺はとてもそんな真似はできない。二十三年間、自分の欲望のためだけに生きてきたの
 だ。今さら誰かのためになんて生きられない。働けない。この性分はこの先も変えられない
 だろう。きっと過労になるまえに、俺は逃げ出してしまう。
  時々不安になる。俺はこのままで生きていけるのだろうかと。
  花田荘に向かっていつもお世話になっているコインシャワーの店の前を歩いていると、ふ
 いにポケットの中で携帯電話が震えだした。いつだったか、手っ取り早く収入を得ようとし
 て登録しておいた日雇い派遣の会社からのメールだった。
  着信したばかりのメールの文面は、こんなふうだった。

 ≪あす24日、イベント会場設営スタッフ急簿! 軽作業だけの楽なお仕事です≫

  設営なのに楽なお仕事というのはいかにも虫がよすぎる話だが、一日限りのアルバイトな
 ら、根性なしの俺にも勤まるかもしれない。どうせ明日はカスミは一日中床にふせっている
 だろうし、hikashuも見知らぬどこかでバイトに励んでいるのだ。それに稼いだ金でクリス
 マスケーキを買って帰ったら、カスミのやつはきっと喜ぶ。そんな愚にもつかない理由で、
 俺は派遣会社からのメールに返信した。
  ――もう一度だけ、働いてみよう。自分自身のためじゃない。ほかの誰かのために。
  そして俺は、ひそかにもうひとつの決意を固めた。
  この仕事すら満足にこなせないようなら、もはやすべてを諦めようと。


  今年の聖夜はホワイトクリスマスとはいかず、朝から断続的に雨が降り続いた。
  俺は見上げるだけで気が滅入りそうな曇り空の下、肩を雨に濡らし、イベント会場となる
 多目的ホールと大型トレーラーの間を行ったり来たりしていた。
  早朝、俺はメールで指定された通り印鑑だけを持ってこの場所にやってきた。会場に隣接
 した庭園に一学級ぶんくらいの同年代の日雇い労働者が集まり、どう見ても年下にしか見え
 ない業者の人間から仕事内容の説明を受けた。イベント運営会社の下請けをする営利目的の
 学生サークル、そのさらに下にいるのが俺たち日雇い労働者というわけだ。
  俺たちの仕事は、会場に横づけされたトレーラーから足場と呼ばれるパイプ材を会場内に
 運び入れること。これをシャトルランみたいに何十往復も繰り返し、舞台セットを組む専門
 業者の補助を務めるのだ。たったそれだけの単純作業だが、四時間おきの休憩時間までは息
 つく暇もない。
 「もう駄目だ……脚が疲れた。喉が乾いた。腕が痛い。早くおうちに帰りたい」
  などと搬入路でぼやいていると、雇い主である学生サークルの人間がぱんぱんと手を打っ
 て俺を走らせる。搬入作業は常に走っているのが基本、らしい。
 「くそっ、どうして俺があんなひ弱そうなガキにコキ使われなくちゃならないんだ……」
  望んで引き受けた仕事とはいえ、不平をのべたくなるのも無理のない話だろう。俺たちが
 汗と雨で作業着のジャンパーを濡らしている間中、やつらはところどころに業界用語を織り
 交ぜながら、あったかそうなコートを着こんで談笑しているのだから。そのくせ俺たちの日
 当はあいつらにたんまり中間搾取されているのだ。半日もの間これだけの重労働を強いられ
 ながら、俺たちの懐に入る金は一万円にも満たない。
  これじゃまるで、俺たちはあいつらの奴隷だ。持てる者から持たざる者になり、使う立場
 から使われる立場になって、はじめてわかる。みんな自覚がないだけなんだ。

  働くということは、誰かの飼い犬になるということ。奴隷になるということだ。

  我ながらやけに大仰で、被虐的な妄想だと思う。当然のように働き当然のように自活して
 いる圧倒的多数の資本主義社会の人民にしてみれば、こんなのはお笑い草だろう。だが、俺
 にとってはこのとりとめのない妄想こそが、俺を地べたに縛りつける根源的かつ致命的な真
 理にほかならない。
  家に帰れば俺を慕う召し使いがいる。カスミの前では、俺はいつだってご主人様だ。でも
 外に彼女はいない。俺は奴隷の役を演じて、誰かに媚びへつらって生きるしかない。そんな
 暮らし、俺には到底耐えられそうにない。当たり前だ。二十三年間、飼うばかりで自分が誰
 かに飼われるなんて、考えもしなかったのだから。
  ふと、家に帰りたいと思った。俺だけのメイドが待つあのボロ屋敷に、帰りたい。
 「やっぱり駄目だ……働くこと自体、俺には向いていないんだ」
  コンクリートの壁に背を預け、沈んだ色の空ににため息をついた。仕事が終わる午後十時
 まであと三時間弱。それだけの時間を残しながら、俺は休憩時間でもないのにこっそり搬入
 作業から抜け出していた。ここは多目的ホールの入り口の近くで、トレーラーが横づけされ
 た搬入路からは死角になっている。
  少し休んだら、また仕事に戻ろうか。それともなにもかも放り出して、このまま逃げ出し
 てしまおうか。
  そんなことを考えつつぼんやりしていると、雇い主たる学生サークルの代表者が、視界の
 隅を横切った。ぎょっとしてどこかに身を隠そうとしたが、彼は俺の存在には気づかずに、
 多目的ホールの正面入り口からまっすぐ庭園の石畳を渡ってゆく。その行方を目で追うと、
 庭園の外縁部に一台のベンツが停車しているのが見てとれた。サークルの代表者が自ら出迎
 えていることから察するに、ベンツに乗っているのはイベント会場を視察しに来た関係者ら
 しい。
  俺は諜報活動に従事する忍者よろしく木陰に身を移し、五メートルほどの距離を置いて興
 味本位で彼らの動向を見守った。
  ベンツの運転席から降りてきたのは若くて背の高い、美人秘書といった風体のパンツスー
 ツを着た女だった。腰まで届く黒髪と意思の強そうな目鼻立ちが印象的で、モデルと言って
 も通用しそうな雰囲気がある。
  彼女はサークルの代表者と二、三言葉を交わしてから、ビニール傘をさして助手席のドア
 を引いた。そこから王侯貴族のように威風堂々と傘の下に出てきた男を見て、俺は我と我が
 目を疑った。
 「シゲル……? どうしてやつがこんなところにいるんだ」
  キザったらしい上面だけの笑顔は、見間違えるはずがない。
  サークルの代表者がぺこぺことお辞儀をしているところから察するに、どうやらシゲルは
 仕事の関係でここに来ているらしい。ということは、傘を持ってシゲルの脇に立っている背
 の高い女は、浪子が言っていた四六時中シゲルと行動をともにしているという秘書だか愛人
 だかに違いない。
  やがてシゲルはサークルの代表者に先導されて、雨の中悠然と多目的ホールの正面入り口
 に足を進めていった。俺とやつはやぁ奇遇ですねぇと言って気軽に言葉を交わすような間柄
 ではない。黙ってこの場をやりすごそうと思った。
  しかし俺の願いは叶わなかった。例の秘書らしき女がぴたりと足を止め、俺のいるほうに
 鋭い眼光を注ぎ、シゲルの動きを制したのだった。
 「お待ちください社長。不審人物を発見いたしました。テロリストの可能性があります」
  さすがにそれはねーよと思いつつ木陰から退避しようとした俺だったが、ときすでに遅
 し。シゲルの目はすでに俺をとらえていて、俺は影縛りの術にかかった忍者のようにそこか
 ら動けなくなってしまった。
 「白河くん、下がっていたまえ。あれは熱狂的な僕のファンでね。僕が直々に相手しよう」
  淀みない足取りで、一歩二歩と俺に近づいてくるシゲル。そのうしろに白河と呼ばれた秘
 書らしき女が侍女のようにつき従う。
  数か月ぶりの仇敵との対面。俺は中腰になったまま、身を隠していた木のそばから離れる
 ことができない。首筋を雨だか汗だかわからない液体が伝う。隠密行動失敗だ。
  二メートルほどの距離を置いて、シゲルは俺の眼前に立ちはだかった。メガネの裏で、双
 眸が相変わらずの獲物を狩るハンターのごとき執念深さと残酷さにぎらついている。
 「いやはや奇遇だね、サトシくん。こんなところでなにをしているのかな?」
 「おまえこそ、なにしに来たんだ」
 「僕かい? 僕は我が社が主催するシンポジウムの会場を下見に来ただけさ。で、きみはこ
 んなところでなにをしているのかな?」
 「……あんたに教えてやる義理はないな」
  俺が強がって言葉を濁すと、シゲルは胸を反らせて雨の夜空に高笑いを響かせた。
 「あはははは、見栄を張る必要はないよ。きみが職に困っていることは監視者から聞きおよ
 んでいるんでね。おおかた日銭を稼ぐためにアルバイトでもしていたんだろう? その薄汚
 い格好を見ればわかるさ」
  はっとして首から提げていたスタッフカードを作業着の内側に隠す。憎き仇敵に惨めな現
 状を言い当てられたことに、服に値札がついたままだと指摘されたような羞恥を感じる。
  だが、それ以上に看過できない発言があった。
 「監視者……? いったいどういうことだ、それは」
 「読んで字のごとしさ。気づかなかったかい? きみの行動はすべてこちらに筒抜けになっ
 ているのさ。きみだって探偵にしては悪目立ちする妙な女に僕の周囲を嗅ぎ回らせているん
 だから、やっていることはイーヴンだろう?」
  自称名探偵の馬鹿面を思い出してぎくりとする。浪子さん……あんたバレバレですやん。
 「ま、せいぜい頑張りたまえ。それじゃ仕事があるんで、僕はこのへんで失礼するよ」
  勝ち誇ったような笑みを浮かべて、シゲルは身をひるがえす。女をはべらせて正面入り口
 に向かう背中を見据えながら、俺は監視者なる者の正体について考えをめぐらせていた。
  シゲルに逐次情報を報告している謎の人物。まともな社会生活を営んでいない俺の生態を
 よく知る人物はきわめて少ない。真っ先に頭に浮かんだのはカスミだったが、あの天然女に
 スパイみたいな器用な真似ができるとは考えにくい。
  となると、容疑者は一人しかいない。
  毎日のようにネットの中で俺と会い、恥も外聞もない私生活を隠すことなく語り合ってき
 た人物。精神で共鳴できる相手。たった一人の親友。俺が職にも就かずぶらぶらとしている
 ことを知っているのは、あいつしかいない。
  想像は瞬く間に確信へと変わり、俺の心は暗い絶望の淵に閉ざされる。屈辱的な気分だっ
 た。外の気温のせいではなく、身体の内側からの悪寒に唇が震えた。
  シゲルに裏切られ、仲間だと思っていた連中や恋人にまで裏切られた。その都度胸は張り
 裂けそうになり、これ以上傷つくのは嫌だと訴えた。そして俺は、決して傷つけ合うことの
 ない安息の関係を求めて、気が遠くなるほどの時間をhikashuと共有してきた。
  そのhikashuも俺を裏切った。もう俺には親友と呼べる人間がいない。
  ――飼うことも飼われることもなく、対等に笑い合える相手が、どこにもいない。

 「うわああああああああああああああああああああ!!!!」

  気がつくと、俺は我を忘れてシゲルの背中に向かって突進していた。拳を固く握り締め、
 振り向いたシゲルの横っ面に力の限りそいつを叩きつけようとした。
  しかしそれよりも数瞬早く、一直線に風を切る視界の真ん中に、白河と呼ばれたあの女が
 ビニール傘を投げ捨てて立ちはだかった。彼女は目標に向かってまっすぐに伸びた俺の腕を
 軽くいなしたかと思うと、素早い動作で俺の足を薙ぎ払い、上体をひねって俺の腕をぐいと
 引っ張った。
  体勢を失った俺は、危険を察知した瞬間にはすでに宙を舞っていた。隕石が落下したよう
 な衝撃とともに、したたかに石畳の地面に背中を打ちつける。背負い投げだ。
  動けない、と思った直後に無理やりうつ伏せにされて、そのまま背中で両腕を縛った状態
 で組み伏せられた。この女はただの秘書じゃない。秘書兼ボディガードだったってわけだ。
 「渡貫社長、テロリスト確保しました!」
  だからテロリストじゃねえって、と返そうにも、全身が焼けるように熱くて声が出ない。
 地面に跳ねる雨粒の音にまぎれ、頭上で「かまわん、離してやれ」というシゲルの声だけが
 聞こえてきた。
 

 「無様だな。貴様の社会復帰を邪魔してやるつもりで監視者に状況を報告させていたが、ど
 うやらわざわざ手を下すまでもなく、貴様は負け犬のようだ」
  少し雨足が強くなった。地面に這いつくばりながらもどうにか顔を上げると、シゲルと秘
 書の女が昆虫の死骸でも見るような冷めた目で俺を見下ろしていた。
 「僕に復讐すると言ってのけたときは少しは期待したが、これじゃ遊ぶにしても張り合いが
 ない。きみには失望したよ。どうぞ心ゆくまで、惨めな落伍者として生きてくれたまえ」
  そう言ったきり、俺から興味をなくしたみたいにシゲルたちは背を向ける。
  遠ざかる足音は強さを増した雨音の中に消えていく。庭園に一人取り残された俺は自力で
 立ち上がるしかなかったが、肩に力が入らなかった。
 「ううっ……ちくしょう、ちくしょう……」
  下を向いた鼻頭から、雨と汗が雫となって石畳にこぼれ落ちる。
  とてもこの状態で仕事に戻る気にはなれなかった。早く家に帰ることしか頭になかった。
  無様で惨めで情けない俺の姿を、シゲルもあの女もhikashuも、みんな笑うだろう。もは
 やそれでいいとすら思える。
  だってもう、これ以上立ち上がれる気がしない。復讐する気力も働く気力も、全部なくし
 てしまった。
  大粒の雨に背中を打たれながら、俺は無駄な努力はすべて諦めることにした。


  午後十時、よたよたと布団から起き出てきたカスミは、ずぶ濡れで帰宅した俺を見るな
 り、驚いたように小さく声をあげた。
 「どうしたんですか、その格好! ひょっとして傘も差さずに帰ってきたんですか!?」
 「いいんだ。それより売れ残りのケーキとシャンパン買ってきたから、あとでお祝いしよ
 う」
  七面鳥は調達できなかったけど、と笑って両手いっぱいの買い物袋をカスミに渡す。バス
 タオルで全身をくまなく拭く俺を、カスミはどこか気がかりそうにじっと見つめていた。
  シャワーを浴びてから、生きているのが楽しくてしかたがない、といった顔の芸能人たち
 が唄ったり踊ったりする特番を観ながら、カスミと二人で食卓を囲った。
  食事の間中、カスミは心配そうにちらちらと俺の顔色をうかがった。なにかあったんです
 か、とおそるおそるといった調子で訊ねてきたので、なにも、とだけ返しておいた。自分だ
 ってまだ熱が下がらず半纏を着こんでいるくせに、いちいち他人を気遣うのが好きな女だ。
  さんざ迷った末、俺はカスミに本当のことを話そうと決めた。だけどどう切り出していい
 のかわからず、しばらく黙々と料理を口に運ぶだけの時間が続いた。
  やっとのことで決心がついたのは、二人仲よくクリスマスケーキをすっかりたいらげた直
 後だった。テレビは深夜のニュース番組を映し出し、生誕祭まで残り一時間を切ったことを
 茶の間に報せていた。
 「あのさ」
 「なんですか?」
 「……俺、仕事辞めたんだ」
  カスミは生クリームのついた唇にハンカチをあてがって目をぱちくりさせている。俺がど
 んな気持ちでこの言葉を口にしたのかなんて、この女は知りもしないだろう。
  この世に生を受けてからの二十三年間を振り返っても、これほど勇気を要した告白はな
 い。これほど自分が情けなく感じた告白もない。自分で自分のメッキを剥ぐなんて、俺は気
 が触れてしまったのだろうか。
  弱いところを見られたくないという思いを完全に捨て去ることはできず、俺はせめて口調
 だけでも強気の姿勢を崩すまいとする。
 「そんなわけで、明日からしばらく家にいるからな。なぁに、心配するな。次の仕事を見つ
 けるまでの充電期間、潜伏期間だと思ってくれればいい。あ、そうそう。生活費はちゃんと
 毎月貯蓄を切り崩して支払ってやるからな。なんなら家事を手伝ってやってもいいぞ。どう
 せ時間はたんまりあるんだからな!」
  言っていてむなしかったが、台本を読むようにぺらぺらと言えた。開き直りによる高揚感
 を感じる。続けてあっはっはと笑ってみせるが、カスミは笑ってはいなかった。
  カスミの気の毒そうな顔を見ていると高揚感は急激に萎えていき、あとには砂利を舐める
 ような苦々しさだけが残った。
  赤茶けた天井から、どんよりとした沈黙が降りてくる。耐えきれずに、胃のあたりがむか
 むかした。
 「どうした? おまえの手間が減るんだぞ。喜べよ、笑えよ」
 「……笑えません」
 「笑えって言ってんだろ!」
  なぜだかカッとなってしまい、俺は机を叩いて立ち上がった。カスミは肩をすくませ、目
 を剥いて俺を見ている。なんなんだ、この罪悪感は。
 「あのな、俺本当はとっくに仕事なんて辞めてんだよ。気づかなかったか? 気づくわけな
 いよな。おまえは毎日働いて、その間俺がどこでなにやってるかなんて知りようがないもん
 な。ああそうだよ。俺は働けなかったんだよ。今日まで毎日仕事してるふりしてニートやっ
 てたんだよ。明日もあさってもしあさっても、ずっとニートなんだよ! だから笑えよ、俺
 を馬鹿にしろ! 散々大きな口叩いといて情けないですね惨めですねって、俺を笑えよ!」
  どうやらいつの間にかリフレクをかけられていたらしい。荒い呼吸とともにカスミに放っ
 た言葉はそっくりそのまま自分に返ってきて、正体不明の罪悪感に胸が張り裂けそうにな
 る。
  カスミは笑うどころか、かえって思いつめた表情になって下を向いてしまった。
  もううんざりだ。どうして俺がこんな思いをしなくちゃならない。どうして苦しんだり哀
 れまれたりしなくちゃならない。俺はただ、気ままな暮らしを取り返したいだけなのに。
 「なぁ、カスミ」
 「……はい」
 「笑えないんなら、かわりに俺を慰めろよ。むかしみたいにさ」
  ご主人様の命令だもんな、やってくれるよな。ヤケになってそんなことを言うと、カスミ
 はきゅっと口の端を結び、逡巡するように畳の上に視線をさまよわせた。しかしほどなくし
 て、出来の悪いロボットみたいに四つん這いでのそのそと俺のところにやってきて、憐憫を
 たたえた瞳で俺を見上げた。そのまま俺の股間に手を伸ばし、慣れない手つきでズボンのチ
 ャックを下ろそうとする。
  そうだ、これでいい。俺にはわがままなご主人様が似合っている。誰かの飼い犬なんて器
 じゃないんだ。好き勝手振る舞って、やりたいことだけをやればいい。こうやって奴隷を傷
 つけて、自分が傷ついたことは忘れて、ごまかして、逃げて逃げて逃げて――
 「やめろよ!」
  気がつくと、俺は陰部に手をかけようとするカスミを突き飛ばしていた。肘から畳に倒れ
 たカスミが、驚いたような、怯えたような目で俺を凝視していた。
 「頼むから、やめてくれ……」
  立っていられなくなり、膝をついて顔を覆った。感情の整理がつかず、自分でもなにがし
 たいのかわからない。こんなことははじめてだった。
  急に心細さを感じて、ぽろぽろと涙がこぼれてきた。畳にシミを作るまいとして目をこす
 っても、涙は間欠泉のようにあとからあとから出てきて、止まらなかった。
  しばらくそうしていると、見かねたカスミがそっと俺を抱きしめた。
  やめてくれ、そんなことされてもちっとも嬉しくない。同情なんてするな。そう言いたか
 ったが、疲弊しきった心は俺の意に反して、彼女の優しさを求めていた。
 「もう嫌だ、働きたくない。働くなんてできない……」
  そんな言葉が自然と口を突いて出てきた。見栄を失った証拠だ。
  自分が世界で一番情けない人間のように思えた。カスミはそんな俺を、笑うでも励ますで
 もなく、ただ無言で抱きしめていてくれた。余計に泣けてくる。俺はとうとう、たった一人
 の奴隷にまで哀れまれるようになってしまったのだ。
  だけどカスミの身体は温かくて、離れたくないと思った。熱のせいだろうか。
  おそらくもう、俺は働けないだろう。復讐なんてもってのほかだ。
  いくら自分を奮い立たせても、必ずどこかで挫折する。必ずどこかで逃げ出してしまう。
  俺はこれから、雨に濡れた仔犬のように、ただ哀れまれるだけの存在として、弱くみすぼ
 らしく生きていくしかないと思った。
  だから今は、せめてカスミに抱かれていたい。情けないと思われてもいい、だらしないと
 思われてもいい。俺を傷つけない人間に、そばにいてほしい。哀れな俺を見ていてほしい。

  このままでは風邪がうつってしまうかもしれないな、と思いながら、俺はカスミの腕に包
 まれて、延々と泣き続けた。
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