round8『黒い生活、甘い生活』

  十一月も終盤戦にさしかかり、気の早い大型店舗がクリスマス用の飾りつけをしはじめた
 ころ。俺は予備調査の報告を聞くために、再び武蔵小路探偵事務所を訪ねた。
  事務所とは名ばかりの汚部屋の門をくぐると、意外にも浪子はすでに起きて待機してい
 た。
 「待ってたわよジャリボーイ。こっちは準備万端。いつでも来てってカンジ」
  カモンボーイ、と言って椅子の上で誘うようにクイクイと指先を動かす浪子は、コスプレ
 のつもりなのか、女教師風のスーツに身をつつんでいた。初対面の時の印象がアレだったせ
 いか、おそろしく不似合いに感じられた。
 「まずは調査報告書に目を通してもらおうかしら。昨日徹夜したのよね〜」
 「一ヶ月もあって結局徹夜かよ」
 「私ってば夏休みの宿題は最終日にやるタイプなの。さ、探偵七つ道具出しちゃうよ」
  浪子は俺に背を向けて立ち上がり、窓を花柄のカーテンで隠した。続けてカーテンレール
 に手を伸ばし、いつの間に用意したのか、明らかにどこぞの教育機関のお下がりとわかる埃
 だらけのスクリーンをするすると降ろす。
  これまたどこから引っ張ってきたのか、物置きと化している事務机の一角には小型のプロ
 ジェクターが配置されていた。その準備のよさに、俺はこのうさん臭い私立探偵に対する評
 価を一ミリほど上方修正した。
 「すごいな、これ。ちゃんと必要最低限のビジネスツールはそろえてるんだな」
 「ううん。前金でもらったお金が三万円ほど余ってたから。リサイクルショップで買ってき
 ちゃった」
 「キレていい?」
  評価を大幅に下方修正した。調査費用を六割も無駄に費やしやがって。ジリ貧経営みたい
 なことを言っていたが、どう考えても浪費癖です本当にありがとうございました。
 「ま、それはさておき」
  さておかれたくない俺の気持ちを無視し、浪子はプロジェクターの電源を入れた。ノート
 パソコンを介して、スクリーンにウィンドウズのペイントで描いたとしか思えない下手な絵
 がうっすらと映し出される。どうやらシゲルの身辺調査の結果をまとめた相関図らしい。
  言いたいことは山ほどあったが、ひとまずそれらは脇にどけてやることにした。
  浪子は指し棒を取り出してスクリーンをちょんちょんと叩く。
 「一週間ほどあいつを張ってたんだけど、さすが敏腕経営者だわ。分刻みのスケジュールで
 移動する移動する。そんでもって電話する電話する。愛人だか秘書だかわかんないけど、四
 六時中女がくっついてていけすかない感じだったわね。夜は料亭で各業界の大物と会食する
 か女と会うかの二択。勝ち組オーラビンビンよ」
  半年まえまでは、俺も勝ち組オーラビンビンの暮らしをしていた。だが今となっては、そ
 れがテレビドラマのように現実味がなく、遠い世界の出来事に感じられる。そうなってしま
 ったのもすべてシゲルのせいだと思うと、腹の虫が収まらなかった。
  しばらくシゲルと主要な取引先との関係についての説明が続いたあと、浪子は「で、ここ
 からが驚きの事実なんだけど」と前置きして、スクリーンに表示する画面を切り替えた。
  今度はシゲルの家族構成に関する資料のようだった。作業途中でやる気が尽きたのか、先
 ほどの相関図と比べると白が目立つ手抜きの図画だ。
 「このように、渡貫家は親一人子一人の二人家族なのね。シゲルがまだ高校生のころに、母
 親が離婚してるわ」
  その点については俺も聞きおよんでいた。いつだったか、本人の口から直接。
 「で? それのどこが驚きの事実なんだ?」
 「まぁまぁ、セックス覚えたての高校生じゃないんだから、そう焦んないの。もっとよく図
 を見てごらんなさいな」
  言われてはじめて、シゲルの母親を描いたとおぼしき似顔絵から、俺の親父らしき似顔絵
 にむかってち○毛みたいなだらしない一本線が伸びていることに気づく。
  二人を結ぶ赤い糸の意味を悟ったとき、俺ははっとして口もとを覆った。
 「まさか、これって……?」
 「そ。あんたの親父とシゲルの母親はデキてたってわけ。何年もまえの話だけどね」
  動揺を隠せない俺を尻目に、浪子は極めて事務的に、事実だけを淡々と挙げ連ねる。
 「私はあんま芸能人のスキャンダルとか興味ないんだけど、あんたの親父は相当な好色家だ
 ったみたいね。当時のスポーツ新聞や週刊誌をあたってみたら、あんたの親父が女とツーシ
 ョットで撮られてる記事がわらわら出てきたわよ。シゲルの母親も、その中の一人だったっ
 てわけ」
  思い当たる節がないわけではなかった。俺が物心つくまえから、親父と母さんの口ゲンカ
 は日常茶飯事だった。ケンカの結末は毎回母さんがしおしおと泣いていて、気分を害した親
 父が飲みに出かける光景だった。二人のケンカの原因が、マスコミが報じていた親父に関す
 る下世話な記事だったことは、当時まだガキだった俺にもなんとなく想像がついた。実際、
 両親が不在のときに知らないオバサンが俺の家を訪ねてきたことも何度かあった。
 「あんたの親父は、当時通訳の仕事をしていたシゲルの母親と海外公演を通じて知り合っ
 た。そして関係を持った。そこからは泥沼だったみたいね。シゲルの母親は家庭よりオトコ
 を取った。夫と息子を捨てて、あんたの親父を追っかけてったのよ。で、あんたの親父に捨
 てられてからは、アルコール中毒でやがて自殺。典型的な転落パターンねえ」
  昭和のドラマかよ、と言い捨てて浪子は椅子に腰を落ちつけた。ハイヒールで床を蹴り、
 椅子をくるくると回転させて遊んでいる。
 「あんたの親父がそれを知っててシゲルを事務所に入れたのか、それとも知らずに雇ったの
 か……さすがにそこまでは確認のしようがなかったわ。だけどこれで復讐の動機はじゅうぶ
 んでしょ? 母親が出てってから、渡貫家はボロボロだったみたいよ」
  認めたくないが、心情としては理解できた。俺自身も、母さんが死んでから我がもの顔で
 その後釜についたクソババアを、いまだに忌み嫌っているからだ。もちろん、それにはイタ
 ズラで俺の下半身に呪いをかけやがったことに対する個人的な恨みも含まれているのだが。
 「でも、だからって親父から七十億もの大金をふんだくっていいってことにはならないだろ
 う? それに、シゲルの個人的な復讐のせいで、どうして俺まで巻き添えにならなくちゃい
 けないんだ。冗談じゃない!」
  俺がそう抗弁すると、浪子は椅子で遊ぶのをやめ、事務机に脚を投げ出してぴたりと俺に
 向き直った。
 「理屈じゃ説明できないと思うよ。家族を奪われた恨みってやつは」
  険しいまなざしに射すくめられて、俺は言い返すことができなかった。
  この日、俺は浪子に調査の続投を願い出た。性格面における問題点は挙げればきりがない
 が、こいつの探偵としての技量は買ってやってもいい気がしたからだ。
  まいどあり〜、と優良顧客を見送る風俗嬢のような顔をした浪子に言われながら、俺はう
 さん臭い探偵事務所をあとにした。

  花田荘に戻ると、一足先に帰宅したカスミがちゃぶ台の上に晩ごはんを配膳していた。
  壁かけ時計の針が南西に偏っているのを見て、もうそんな時間かと内心ため息が漏れた。
 「おかえりなさい、ご主人様。今日は遅くまでお仕事されていたんですね」
 「あ、ああ。まぁな」
  武蔵小路探偵事務所のことは伏せておくことにした。かといって昼間は労働に従事してい
 たのかというとそうでもないのだが、話がややこしくなるので黙っておくことにした。
  俺が内玄関で皮靴を脱ぐと、カスミが駆け寄ってきて俺からスーツを受け取った。ネクタ
 イをゆるめて洗面台に向かいながら、こうしているとなんだか新婚の夫婦みたいだなと思っ
 て、胸がどきりとした。
  ……なにを考えているんだ、俺は。汗と涙が骨の髄まで染みた、こんなおしんみたいな貧
 乏女が俺の嫁だなんて。ばかばかしい。俺はもっと高貴な、シェリル・ノームのような女に
 持っていかれたいのだ。
  この夜食卓に並んだのは、鯖のみそ煮と肉じゃが、ほうれん草のおひたし。どうせブロー
 ドウェイの地下で買いそろえた安上がりな食材で作ったのだろう。
 「やれやれ。こんな素食に舌がうなるなんてな。俺の味覚もいよいよ庶民のそれに近づいて
 きたってことか」
  皮肉のつもりで言ったのだが、天然のカスミには通用しなかった。
 「よかった……愛情をたっぷりこめてお料理しましたから」
  またどきりとして、箸を落としそうになる。
  最近はこんなことばかりだ。奴隷に心乱されるなんて、このところ俺はどうかしている。
       
 「BGMがないと寂しいですね。テレビでもつけましょう」
  カスミがリモコンの電源ボタンを押してからブラウン管が光をともすまで、数秒のタイム
 ラグがあった。化石のような家電製品ばかりが並ぶこの部屋では、今でもアナロ熊が現役で
 活躍中だ。
  テレビの中では、ゴリラ顔の男性司会者と微妙に不細工な女性司会者があれこれと議論を
 重ねていた。議題はハケン問題とニートの社会参画について。
 「あ、私この番組好きなんですよ。カオスカンブリア宮殿。毎回いろんな一流企業の社長を
 ゲストに迎えて、企業理念やその人の生きざまについて語るんです」
  へえと思いつつブラウン管に目を向けて、俺はぎょっとした。
  華やかさに欠ける椅子に腰を下ろして司会者と向かい合っているのは、憎き仇敵、渡貫シ
 ゲルだった。不当解雇の憂き目にあった中高年の再雇用をすすめることの意義性について、
 弁が立つ男性司会者に物怖じすることなく熱弁をふるっている。
 「若いのに立派な方もいるもんですねぇ」
  感じ入ってぽわんとした表情のカスミに断りを入れることなく、俺は慌ててテレビの電源を
 落とした。
 「あっ、なにするんですか! せっかく観てたのに……」
 「うるさい、あの男の顔を見ていると、なんかメシがまずくなるんだよ!」
  カスミは唇の下にごはんつぶをつけたまま、不服そうに頬をふくらませた。どこまでも能
 天気なこの女は、シゲルのことをなにも知らない。あの理知的な笑顔の裏に隠された大泥棒
 の顔も、狩猟者の顔も。
  俺だけが知っている。今テレビの中で善人ヅラをしている男の正体は、人の心を失った、
 冷酷無比なパラノイド・アンドロイド。まごうことなき冷パアなのだ。
  たとえどれだけメディアに賛美されようが、親父との間にどんな確執があろうが、あの男
 が俺の人生を奈落の底まで転落させたことに変わりはない。俺だけはあいつを許さない。許
 してはならない。必ず復讐してやる。
  そう心に誓い、俺は嫌な気分を振り払うように、がつがつと白米を喉に押しこんだ。


  翌朝、俺はいつも通り『おはスタ』放送時間内に起床した。
  まだ眠気まなこのカスミが用意してくれた鮭おにぎりとスクランブルエッグ、みそ汁を急
 ピッチでかきこみ、奮発して購入したアバハウスのスーツ(当然のようにふたつボタンだ)
 を装着完了。榊さんの企業に正社員登用が前提のアルバイトとして入社してから連日続いて
 いる、朝の風景だ。
  皮靴に靴べらを挿しこむ俺に、背後からカスミが鞄と手作りの弁当を手渡してくる。
 「今日も一日、お仕事頑張ってくださいね」
 「ふん、まぁほどほどにやるさ。俺が本気を出したら、あっという間に重役クラスになって
 しまうからな。無意味に反感を買うのはごめんだ」
 「ふふふ、そうですね。では私は出勤時間まで、もうちょっとだけ寝てます」
  新妻(エイジではない)のようなメイドに見送られ、俺はボロアパートを出る。若い女に
 手を振られながら颯爽とアパートの渡り廊下を歩く俺は、どこからどう見てもやり手の新入
 社員だろう。
  高級なスーツに身を包み経年劣化が著しい民家ばかりが並ぶ中野区一丁目を歩くのは、華
 やかなりしころに戻ったようで、ちょっとした優越感が感じられた。
  だが、それも新宿のまんが喫茶に入店してスーツを脱ぐまでだ。ひとたび薄暗い個室のド
 アを閉めると、直視できない現実が襲いかかってくるのだ。俺はそいつから逃げるようにパ
 ソコンの電源を入れ、朝から仮想現実の世界に入り浸った。
  ここ二週間ほど、ずっとそうしている。カスミの前では出社したふりをして、夜になるま
 でひたすら現実から目を背けている。
  大学時代の同窓生に、成人式に出席しなかったという者がいた。理由を訊ねると、彼は中
 学を卒業するまで相当な根暗だったらしく、地元には友人と呼べる人間が一人もいないのだ
 という。それで成人式当日、彼がどうしたかというと、一日中パチンコ屋で時間をつぶし、
 両親には成人式楽しかったよと報告したのだそうだ。
  俺はその話を聞いたとき、よくよく馬鹿にしたものだ。なのに、今の俺は彼と同じことを
 している。
  俺の社会人生活は、とっくに終わってしまっていたのだった。


 「先に断っておくけど、親戚だからって特別あつかいはしないから」
  今になって思えば、勤務初日に榊さんから直接言い渡されたその言葉は象徴的だった。平
 等主義といえば聞こえはいいが、裏を返せば、俺も数多いる平のアルバイトと同じ、モブキ
 ャラの一人に過ぎないということだ。つまるところ、数の足しになれば誰でもよかったの
 だ。俺は一年以内の離職率五十パーセントという超過酷な新興IT企業における、抜けた穴
 を埋めるための予備パーツだった。
  そんなこととは夢にも思わぬ俺は、拾ってもらった恩に報いるつもりで、やる気満々で新
 人研修にのぞんだ。しかして俺を待ち受けていたのは、月刊少年ガンガン並の分厚さを誇る
 研修資料と、三枚組のCD−Rだった。
 「今週中にこれだけ頭に叩きこんどいて。でないとシステムエンジニアは勤まらないから」
  これだけってレベルじゃねーぞ! と頭の中で異議申し立てをしつつ、俺はマンツーマン
 研修で俺の担当になった先輩社員に質問を返した。
 「あの、俺ってSEやるんですか? 営業か企画で希望出しといたはずなんですけど……」
 「もしかして、いきなり企画に参加できるとか甘いこと考えてたりする? どの会社も基本
 は下積みからだよ。営業は人数足りてるし、きみは自分のすることをしてればいいの」
 「でもですね、俺は大学も理数系じゃないし、そもそもパソコンだってネットで動画見たり
 ゲームをするくらいしか使ったことがなくて……」
 「だから、日本語わかってる? まずは与えられた仕事をしろっつってんの。きみに向いて
 る仕事とかそういうのは、きみが一人前になってから俺たちが判断することだから」
  先輩社員と勤務初日のアルバイト。言いたいことはいろいろとあったが、圧倒的な力関係
 の差を前にして、俺に反抗の余地などなかった。
  かくして昼夜を問わずSEの基礎を学ぶ日々がはじまったのだが、Cといえば言語ではな
 く胸囲のサイズ、手打ちといえばhtmlではなくそばのことだとインプットされた俺の脳
 に、専門用語の解説そのものが専門用語で埋め尽くされている研修資料は、異国の文字で記
 された医学書に等しかった。さっぱり意味が理解できないのだ。
  劣等生の俺には、勤務時間を終えても居残り勉強が課せられた。その都度先輩に、「おま
 えの覚えが悪いせいで、俺まで残業させられてるんだからな」とイヤミを言われる始末だ。
  屈辱だった。居残りなんてさせられたのは、二十三年の人生を通してはじめてだった。
 「ほらほら。早く仕事覚えてもらわないと、俺らがフォローに追われるんだよ」
 「きみさ、いい大学出てんでしょ?今までなに勉強してきたわけ?」
 「ただ資料をめくってるだけでお給料もらうなんて、申し訳ないと思わない?」
  日増しにイヤミを言う社員が増えていく。榊さんに助けを求めたかったが、職場での榊さ
 んは冷たかった。顔を合わせても、「仕事頑張ってよ」としか声をかけてくれないのだ。
  使えないやつのレッテルを貼られ、話しかけられるたびにスミマセンスミマセンと頭を下
 げる。一日中真っ青になりながら、胃痛と格闘する日々が続いた。その折々でふと思い出す
 のは、なぜか決まってメイド喫茶で働くカスミの笑顔だった。
  俺は、あんなふうには働けない。それどころか、その前段階でつまづいているのだ。
  やがて俺はひとつの現実に突き当たる。それはつまり、俺には働く能力が欠如している、
 ということ。
  二十三年間、アルバイトはおろか家事の手伝いすらしたことがなかった俺には、働くため
 に必要な下地が致命的に欠けていた。自転車すら漕いだことのない人間が、いきなりバイク
 にまたがるようなものだ。仕事の向き不向きではない。

  俺にはそもそも、働くこと自体が向いていない。

  そう悟った時、俺はとうとう職場から逃げ出した。携帯電話の電源をオフにし、一日中ま
 んが喫茶に身を隠した。こうしてついに無断欠勤をしでかした俺は、合わせる顔がなくて、
 翌日も、そのまた翌日も欠勤した。気がつくと、無断欠勤は一週間近く続いていた。
  正式にアルバイトを辞めるのは簡単だった。電話一本だけで、あっそうと言って榊さんは
 俺との縁を切った。ほらね、思った通りだ。やっぱり俺は、榊さんにとっては替えのきく
 パーツのひとつにしか過ぎなかったんだ。
  あとになって知ったことだが、新興系のIT企業は、そのほとんどが使い捨て前提のアウ
 トソーシングを基軸としたブラック企業で、ホスト業界もびっくりの、イメージにそぐわぬ
 体育会系らしい。学生時代に就職活動をしていなかった俺は、そんな基本中の基本も知らず
 にブラック企業に勤めていた、文字通りのマン・イン・ブラックだったというわけだ。
  俺が「もう限界かもしれない」と感じるのは早かった。
  ハングリー精神が備わっている者ならそれでも負けずに働き続けて一人前になるのかもし
 れないが、競争とは無縁の人生を送ってきた俺にできることは、尻尾を巻いて逃げ出すこと
 だけだった。
  簡潔に言うとこうなる。
  ――俺は社会復帰に失敗した。


  無価値な一日を過ごし、カスミが晩ごはんの支度をする時間を狙いすまして帰宅する。
  俺の実情を知らないカスミは、今日も一日お疲れ様でしたと言って俺をねぎらってくれ
 る。本当は疲れるようなことなど、なにひとつしていないのに。
  ちゃぶ台にはまだ食器が並んでおらず、かわりに薄っぺらい雑誌が広げられていた。
 「仕事帰りに本屋さんで買ってきたんです。このまえのテレビ番組で気になっちゃって」
  台所に立つカスミが、慣れた手つきでニンジンを刻みながら言う。
  シャツのボタンを外しながら雑誌を手に取ると、表紙にはシゲルの顔がでかでかと印刷さ
 れていた。日本のビジネスシーンを疾走する若きオピニオンリーダー二万字インタビュー。
  俺は即座にそいつをぐしゃぐしゃに丸めてごみ箱に捨てた。表紙を飾る自信に満ちたシゲ
 ルの笑顔が今の俺を嘲笑しているように見えて、頭がかっとなった。
 「ちょ、ちょっと! なにするんですかご主人様。せっかく買ってきたのに……!」
 「うるさい、こいつの顔を俺に見せるな! こんなやつを信用するな! 今後我が家では、
 こいつに関連する刊行物は今後いっさい購入禁止だ!」
  俺が声を荒げると、カスミはうつむいてしまい、それからおもちゃをねだる子どものよう
 に、上目づかいに俺を見た。
 「でもこの人、有害図書に指定するような悪い人には思えませんよ? 失業者の再雇用を奨
 励しているみたいですし、むしろ立派な方かと……」
  違うんだ、こいつは極悪人なんだ。そう言い返そうとして、俺は喉まで出かかった言葉を
 飲みこんだ。というよりも、どう言い返していいかわからなかったのだ。誰がどう見たっ
 て、シゲルは日本経済の救世主に違いない。
  いっそこれを機にシゲルの本性を暴露してやろうかとも思ったが、プライドがそれを邪魔
 した。会社に出勤していないことといい、シゲルのことといい、なぜか俺は肝心なことをカ
 スミに言えずにいる。俺はどうしてか、彼女の前でだけは、むかしと変わらぬカッコイイ自
 分でいたがる。
  ――カスミにだけは、情けないところを見られたくなかった。
 「とにかく、今後いっさい購入禁止だ!」
  頭ごなしにそう言いつけて、俺はカスミを台所に帰した。カスミがシゲルに感化されるの
 は、我慢ならない。
  気まずい食事をともにしたあと、俺は食器を洗うカスミに、明日からは弁当は作らなくて
 いいと告げた。カスミが早起きして作った弁当をまんが喫茶で食べるのは、なんだか毎回、
 とてつもなく申し訳ない気分になるのだった。
 「でも、お昼ごはん食べないとお腹空きませんか?」
 「いいんだよ、いっつもほかの社員に定食屋に誘われて困ってんだから」
  もちろんそれも嘘だった。本当は出勤していたころですら、ほかの社員に食事に誘われた
 ことは一度もなかった。資料を広げながら一人で食うか、便所で食うかの二択だった。
 「まぁ、お仕事がひとつ減って助かりますけど……ちゃんとごはんは食べてくださいね」
 「ああ、SEは体力勝負の仕事だからな。適度に栄養は摂るさ」
  俺がそう言うと、カスミはよかった、と言って笑顔になる。それを見て俺は安心する。
  明日からはコンビニ弁当のお世話になろうと決めた。

  夜中、なかなか寝つけずに何度も身返りを打った。
  カスミは極力俺と離れた場所に布団を敷き、夜這い対策のスタンガンを胸に抱いたまます
 やすやと寝息をたてている。ごみ箱にはシゲルが表紙を飾った雑誌がまだ残ったままだ。
  真っ暗な部屋の中で目を閉じていると、すぐ近くでシゲルが俺を笑っているような気がし
 て、寝るに寝られない。俺はいたしかたなく布団から這い出て、ごみ箱から雑誌を拾って屋
 外に出た。
  外は静かで虫の音もない。近所の一軒家が壁面にクリスマス仕様のイルミネーションを取
 りつけているのを見て、いつの間にか十二月になっていることに気づいた。カスミと二人で
 暮らすことになって、もう二ヶ月以上が経過したことになる。
  花田荘の裏庭に出て、枯れ木の下で焚き火をした。ライターで火をともすと雑誌はよく燃
 えた。俺を笑う男の顔が、ゆっくりと灰になっていく。
 「……つまんない男だな、俺は」
  俺は心のどこかで自分が働けないこともシゲルのせいにしている。あいつさえいなければ
 こんなことにならなかったと、根本論で自分を正当化しようとしている。自分の意思で職場
 から逃げ出したはずなのに、自分の中にいる弱虫を認めたくなかった。

  働きたくない。働くのが怖い。

  職場がブラックかどうかなんて関係なかったのだと、うすうす気づいてはいる。きっと俺
 はどこに行ってもあんなふうだ。どこに行っても使えない、つまんない男。
 「こんなんじゃ、復讐なんてできやしないな……」
  やがてシゲルの顔をすべて真っ黒に焦がし、火は小さくなっていく。
  二ヶ月まえ、俺は身命を賭してシゲルに復讐すると誓った。たとえどれだけつまずこうと
 も、必ずやもとの華やかな暮らしを取り戻してみせると、再起を誓った。
  それなのに、もう、俺の火は消えてしまいそうだ。

  こうしている間にも、シゲルは次なる高みへと昇っていく。
  俺は地面に這いつくばったまま、やつを見上げることしかできずにいる。
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