round4『Lost!』

  目覚めると、俺は真っ白な部屋の中にいた。
  パイプ椅子に薄型の液晶テレビ、無地のカーテン。調度品は乏しく、そのどれもが淡い色
 調で統一されていた。
  無音無臭の四角い室内は、どこか無機質な印象を受ける。誰かが定期的に掃除と換気をし
 ているのか、俺がいるベッドの上には埃ひとつ舞っていないが、それがかえって生活感のな
 さを際立てていた。窓から射す陽光で、かろうじてこの場所が世界と繋がっていることがわ
 かる。
 「ア……アイコピー、ユーコピー?」
  質問を投げかけてみても、返ってくる声はない。
  立ち上がり、自分が浴衣のような薄手のローブを着ているのを見て、はじめてここが病院
 の個室であることを理解した。なるほど、どうりで生活感がないわけだ。
  すると俺は病人、あるいは怪我人としてここに運びこまれたということになる。
  ――だが、どうして?
  平凡な朝と変わらない、穏やかな目覚め。しかしそこへと連続する最後の記憶が、なかな
 か呼び起こせない。まるで冷凍睡眠で長いときを越えてきたかのような感覚。
  俺が額に指を当てて状況を推理していると、ドアが横に開く音がした。
  そこには、胸もとに花瓶を抱えた、私服姿のカスミの姿があった。
  彼女はなぜか俺の姿を見て、大きく息をのんだ。そして、すぐに大輪の笑顔を咲かせた。
 「ご主人様!」
  花瓶を手に持っていることも忘れて、慌てて俺のもとへと駆け寄ってくるカスミ。こぼれ
 た水が、床の上でぱちゃぱちゃと音を立てた。
 「よかった、お目覚めになられたんですね!」
  カスミは飛びつかんばかりの勢いで、強く俺を抱きしめた。
 「ちょっ、ちょっと待て! いいいいきなりなにをする!」
  病衣の生地を通して、カスミの肌の温かさ、というか胸の感触が伝わってきた。彼女にこ
 んなふうにされるのははじめてで、不覚にも心臓が跳ね上がりそうになる。そもそも俺は、
 女に抱きつかれるのはあまり得意ではないのだ。
 「よかった、本当に……」
  カスミはようやく落ち着いてくれたようで、俺から離れて目もとの涙をぬぐった。
  奉仕をさせたあととは少し違うカスミの泣き顔を見ながら、俺は病衣の襟を直し、状況の
 説明を求めた。
  花瓶を窓辺に置いて、カスミは語りはじめる。
 「ご主人様は、トラックとの衝突事故を起こしてこの病院に運びこまれたんです」
 「事故だって……?」
 「そうです。大学の卒業パーティの夜に、お友だちを乗せて車を走らせていたときのことで
 す。意識不明の重体で集中治療室に入れられて、本当に大変だったんですから」
  それを聞いて、途切れていた記憶が一本の線に繋がった。
  トラックの銀色の車体と、宙に投げ出された俺の身体。後部座席で前のめりになったタケ
 シの姿までもが、つい数分まえのことのように鮮明に脳裏に映し出された。
  急に怖気が走り、額に汗が噴き出した。
 「俺のBMWは……!? い、いや、タケシとカンナはどうなったんだ!」
 「お二人とも命に別状はなかったそうで、もう退院されたと聞いていますが……」
 「そ、そうか! それはよかった!」
  過失致死罪という単語が頭をよぎったが、大事にはいたらずに済んだらしい。
  安心すると全身から力が抜けて、俺はベッドに腰を下ろした。
  自分の両手両足を見つめると、なにも変わっていないように見える。事故後どれくらいの
 時間が経過したのかは知らないが、傷はすっかり完治したらしい。脳の機能も正常に働いて
 おり、最後に見た深夜アニメの内容まで克明に思い出すことができた。どうやら目立った後
 遺症もなさそうだ。
 「それで? 俺は何日くらい寝ていたんだ?」
  カスミは両手の指を一本ずつ折って、日数を確かめていた。計六本。
 「六週間もか」
 「いえ、六ヶ月です」
 「六ヶ月……だと……!?」
  唖然とする。エスパーダ内での序列がトップだと思っていた相手が実は四番だったくらい
 の衝撃だ。
  六ヶ月といえば半年間。子供にもわかる算数だ。春と夏が終わり、一クールの深夜アニメ
 が二度入れ替わる。その間に政権が交代していてもなんら不思議ではない。それほどの時間
 を、俺はひたすら寝ながら過ごしたというのか。
  卒倒しそうになるのをどうにか抑えつつ、カスミに向き直る。
 「ほかには? ほかに俺が知っておくべきことは!?」
 「えっと、そうですね……なにせ半年間ですから、ご主人様を取り巻く状況もずいぶんと変
 化しました。ただ、私のほうからは、どう申し上げればいいのか……」
  伏し目がちに言葉を濁すカスミ。
  なにやら口にするのがためらわれる不幸な出来事があったようだが、俺にしてみればこの
 状況がすでに不幸だ。膨大な時間を無駄に過ごした身としては、焦りが募るばかりだ。
 「どうした、言ってみろ」
 「あの……そのことについては、口下手な私が説明するより、ご自分の目でお確かめになっ
 たほうがよろしいかと」
  そう言ってカスミは、俺の視線を背の低い棚に誘導した。
  先ほどは気がつかなかったが、そこには付箋が貼られた新聞紙が山と積もっている。俺が
 起こした事故に関する記事のみをすぐに読めるようにとの配慮だろう。
 「ふん、おまえにしては気がきくじゃないか。では、さっそく見せてもらうとするか」
  俺がベッドから腰を上げると、カスミはわざとらしく手を打ってみせた。
 「そ、そうだ! 私、ご主人様が目を覚ましたときのために、看護師さんに着替えをあずけ
 ていたんです。それに、ご主人様の持ち物も。ちょっと取って来ますね!」
  両目を泳がせて、逃げるように部屋を出ていくカスミ。
  その挙動は気になったが、今はそれどころではない。自分が引き起こした事故の顛末を、
 早くこの目で確かめなくては。
  崩れ落ちそうな新聞紙の山からもっとも日付が古い記事を抜き取り、その中身をあらため
 る。
  だが、そこに書かれていたのは、東京の片隅で起こった小さな事故のことではなかった。
 「どういうことだ、これは……」
  我が目を疑い、次の一枚を抜き取る。その拍子に山が崩れて、全国紙からスポーツ新聞ま
 で、色とりどりの新聞紙が床に散らばった。
  俺は床に膝をつき、付箋によって強調された見出しに次々と目を通していった。
  にわかには信じられない言葉の数々が、俺の目の前に並べられていた。

  ≪ロック界の大御所・夏見英一に五十億円の借金 海外の土地資産運用に失敗か≫
  ≪お騒がせロックスター またも借金発覚 虚像の栄光、次々と明らかに≫
  ≪ボスに破滅へのカウントダウン! ロスの自宅売却 著作権使用料も差し押さえ≫
  ≪ずさんな事務所会計 もはや言い逃れできず オーストラリア問題八月公判≫
  ≪東京地裁 夏見英一氏の自己破産認める 没落した時代の寵児≫

 「嘘だ、そんなの……」
  一度には処理しきれない情報の波が、俺の脳を強く揺さぶる。
  各新聞紙がこぞって報じているのは、親父の事業失敗とその後だった。
  親父は数年まえ、四ブロックの土地を買収して、オーストラリアに二十五階立てのビルを
 建てた。詳しい経緯は聞いていないが、いくつかの部屋をテナントとして貸し出して収益を
 はかり、そのビルを音楽活動の拠点にするつもりだったらしい。
  シゲルさんからは、経営は順風満帆だと聞いていた。あれは俺を安心させるための、罪の
 ない嘘だったのだろうか? 銀行への借金返済が追いつかなくなるほど親父の生活が困窮し
 ていたなんて、一言も聞いていない。
  おまけに問題はそれだけではなかった。長年にわたる興行赤字と散財で、借金総額は積も
 り積もって七十億。報道が真実なら、親父はとっくのむかしにパンクしていてもおかしく
 ない。
  最新の記事の日付は九月十八日。俺は半年間意識不明だったらしいので、つい最近という
 ことになる。場所はどこかの空港だろうか。公判を終えたばかりの親父が、カメラに向かっ
 てVサインをする姿が、スポーツ新聞の一面を飾っている。黄色いロゴででかでかと書かれ
 たせりふは、「ゼロからの再出発。これからのNATSUMIをヨロシク、ベイベー」だった。
 「は、はは……なにがヨロシク、だよ」
  散らばった新聞紙が急に憎く思えてきて、力任せに引き裂いた。
 「こんなの全部、嘘に決まっている! あることないこと、適当に並べやがって!」

  ある朝、目を覚ますと天と地が逆転していた。
  ある朝、目を覚ますと無一文の無職になっていた。

  グレゴール・ザムザじゃあるまいし、そんな不条理、はいそうですかと受け入れられるわ
 けがない。荒唐無稽で、まるで現実味が感じられないのだ。
  これはきっと、悪い冗談だ。そうでなければ、手の込んだドッキリに違いない。
  嘘八百を書き連ねた新聞紙を破っては投げていると、カスミが部屋に戻ってきた。その腕
 には、ユニクロの紙袋が抱えられている。
 「ご、ご主人様。これはいったい、どういう……?」
 「貸せ!」
  俺はカスミの手から装備一式を奪い取り、病衣を脱ぎ捨てた。きゃっ、と小さな悲鳴をあ
 げて背中を向けるカスミを尻目に、その場で新品の上下にそでを通す。
  安っぽいイラストがプリントされた白のTシャツと、無地のジーンズ。スニーカーはスー
 パーのワゴンで売っていそうなトレーニングシューズ。貧乏人のカスミがコーディネイトし
 ただけあって、センスのかけらも感じられない。
  こんな貧乏じみた格好は俺には似つかわしくないが、今はそうも言っていられない。
  財布と携帯電話にキーケース、それから卒業祝いに親父から贈られたペルレの腕時計は、
 どれも無事なようだった。不幸中の幸いというやつか。
  着替えを済ませると、俺は今しがたカスミが入ってきたドアに手をかけた。
 「あっ、ちょっと! どこに行くんですか、ご主人様!」
 「決まっている。マスコミの連中が書き立てた嘘を、暴いてやるんだよ!」
  そうだ。下種なやつらが好き勝手に書いた記事なんて、簡単に信じてなるものか。
  一刻も早く、この目で真実を確かめなければ。


  真っ先に向かったのは、目黒の自宅だった。
  駆け足で山手線に乗り、シャツのそでで額に噴く汗をぬぐった。
  電車を利用するのはひさしぶりだ。免許を取得してからというもの、「十メートル先の煙
 草屋にもBMWで行って、マルボロ一箱をぴゅっと買えるくらいの男になれ」という親父の
 教育方針もあり、移動はほとんど車だった。
  マンションにたどり着くと、俺はすぐに外に設置された郵便受けに目を走らせた。だが、
 あるべき場所に俺のネームプレートが存在しない。それどころか、ネームプレートはすでに
 新しい入居者のものに差し替えられていた。
  部屋を購入した際、契約書にサインをしたのは親父だ。俺の住居と家財一式は、親父の財
 産として処分されてしまったのかもしれない。
  ためしにエントランスへと通じる操作盤にキーをかざしてみた。
  しかし何度挑戦しても、エラー音が俺の侵入を拒むばかりだった。
 「くそっ、ふざけやがって!」
  俺はすでに自分の居場所ではなくなったマンションに向けてつばを吐き、目黒をあとにし
 た。

  次に俺は、親父のオフィスを探した。
  親父は新宿のビルに個人事務所をかまえ、芸能活動に関するいっさいをそこで管理してい
 た。最盛期には二十人からなるスタッフが、そこでレコード会社や地方のコンサート会場と
 忙しく電話のやりとりをしていたものだ。
  かつてはシゲルさんもその一員だった。俺は大学生になって以来事務所に足を踏み入れて
 いないが、カレンダーやタオルなど、親父の顔や名前が入ったグッズが所狭しと並ぶ部屋の
 模様を、今でもはっきりと覚えている。
  その賑やかな部屋は、もぬけの殻になっていた。
 「そんな馬鹿な……」
  窓にポスターはなく、書類の山がひしめいていた事務机も、きれいさっぱり消えてしまっ
 ている。床にはガムテープと、置き去りにされた段ボールが転がるのみだった。
 「まだだ……まだ、望みはある」
  俺は自分にそう言い聞かせて、俺にとってのエルサレムを目指す決心をした。

  中二の夏に母さんがこの世を去るまで、夏休みは家族三人で軽井沢の別荘で過ごすのが、
 毎年の恒例行事だった。
  母さんは病気がちだったし、親父はいつも仕事と称して国内外を飛び回っていた。緑に囲
 まれた避暑地で、朝から晩まで誰にも邪魔されずに親子水入らずで過ごす時間は、当時の俺
 には宝物にも等しかった。
  目に映るものすべてが透明だったあのころ。思い出がぎっしりと詰まったその土地に、俺
 は一縷の望みを託した。
  なだらかな丘の上に立ち、別荘があるはずの懐かしい場所を見下ろす。
  その瞬間に、淡い期待はものの見事に打ち砕かれた。
 「はは……悪い冗談だ……」
  眼下では、騒音とともにブルドーザーが整地を進め、別荘は跡形もなく破壊されていた。
  そのとき、俺はすべてを理解した。
  ――もはやこの両手には、なにも残されていないのだと。


  夜になり、俺は茫然自失のまま病院に戻った。
  外出許可を取らずに消灯時間近くまで出歩いていたことで看護師からお叱りを受けたが、
 相槌を打つのが精いっぱいで、弁解する気力は残されていなかった。
  トンネルみたいな薄暗い廊下を渡りながら、もはや目を背けることのできない現実を噛み
 しめる。
  親父が自己破産したということは、もう夏見家には守るべき財産が存在しないということ
 だ。土地も、家も、車も……文字どおり、なにもかもだ。
  長い間寝ていたせいで、栄華を極めた日々がつい昨日のことのように感じられる。

  たった一度の事故、たった六ヶ月の空白期間に、俺はすべてを失ってしまった。

  ふらつく足取りで、与えられた病室の前に立つ。
  ドアの隙間からわずかに光が漏れ、人の気配をのぞかせていた。
  こんな時間に来客があるとも思えないので、おそらくカスミだろう。そうあたりをつけて
 扉を横に開くと、部屋の中心に立っていたのは、全身に理知的なオーラをまとったスーツ姿
 の男性だった。
  彼は俺に気づくと、床に散らばった新聞紙を拾う作業を中断して、柔和な笑みで俺を迎え
 てくれた。
 「やぁ、サトシくん。遅いお戻りだね」
 「シゲルさん! どうしてここに!?」
  暗闇に射す、一筋の光明。兄と慕う男の顔を見ると、俺は疲労も失望も忘れて、彼のもと
 へと駆け出していた。
 「出張中にきみが意識を取り戻したと病院から連絡が入ってね。仕事をキャンセルして、慌
 てて飛んできたんだ。それなのに、来てみれば今度は失踪したと聞かされてね。途方に暮れ
 ていたところさ。だけど、会えてよかった」
 「ごめん。俺、親父が自己破産したって知って、いてもたってもいられなくなって……」
 「無理もないさ。目覚めたばかりのきみに、この現実はあまりに酷だ」
  メガネの奥の穏やかな瞳が、優しく語りかける。
  シゲルさんは、俺が尊敬し信頼できる唯一の人間だ。
  この人なら、俺をこの窮地から救ってくれるかもしれない。そんな予感に、胸が震えた。
 「それにしても、ずいぶんと荒れたね」
  ふと、足もとに視線を落とすシゲルさん。そこには、俺が破り捨てた新聞紙が、コラージ
 ュのように幾重にも折り重なって、床を覆っている。
  あらためて見ると、我ながら狂気の沙汰としか思えない。親父に関する一連の報道は、目
 覚ましとしては少々インパクトが強すぎた。
 「こんなことになってしまうなんて、心中お察しするよ。それだけに……」
  蛍光灯の明かりが作る陰影が、うつむいたシゲルさんの表情を隠す。
  その肩は小刻みに震え、家族同然の付き合いをしてきた俺に寄せる、彼の無念が伝わって
 くるかのようだった。
  いかな不幸に見舞われようと、絶対にこの人が助けてくれる。シゲルさんは俺の味方だ。
  そう確信した、直後だった。

 「僕は愉快で愉快で、たまらない」

  光の下にさらされたシゲルさんの顔には、ゆがんだ笑みが貼りついていた。
 「え……?」
  目と耳を疑う。シゲルさんの表情に滲む悪意の意味を理解できずに、俺は言葉を失ってし
 まった。自分でもそれとわかるほど、はっきりと思考停止していた。
  阿呆みたいに立ち尽くす俺を尻目に、シゲルさんは優雅な足取りで、部屋の中を歩きはじ
 める。
 「まったく、計画が順調すぎて笑いが止まらないよ。今晩はいい酒が飲めそうだ」
  フリーズしてしまった俺の脳に、静かな部屋によく響く皮靴の音と、唄うような朗らかな
 声だけが、次から次へと流れ込んでくる。
 「人を騙すというのは愉快だね。中間搾取、横領、私文書偽造に公文書偽造。どれも綱渡り
 をしているみたいで、なかなかスリリングな体験だったよ」
  シゲルさんの突然の豹変に、脳の復旧作業が追いつかない。突然宇宙に放り出されたよう
 な、現実とは遊離した奇妙な感覚だけが、全身を支配していた。
  俺の目の前で歩みを止めたシゲルさんは、爽やかな笑みとともに告白を続ける。
 「ワケがわからない、って顔をしているね。いいだろう。この際だから、きみにも理解でき
 るように説明してあげよう。きみのお父さんは、会社の口座の出来状況を、定期的にオース
 トラリアの銀行からファックスで報告させていたね。あれはすべて偽物だよ。事務所の経理
 担当と僕が組んで、電話のレターヘッドと支店長のサインを偽造した報告書を、現地事務所
 から送りつけていたのさ。きみのお父さんの支払い額と、事業に関わった僕らが実際に銀行
 に返済した額は大きく異なる。いわゆる横領ってやつだよ。要するに、僕はきみのお父さん
 から、まるまる五十億騙し取ったってことさ。いや、違うな。全国のプロモーターからふん
 だくったぶんも含めれば、ざっと五十三億ってところか。ま、誤差の範囲内だね」
  動作不良を起こした頭の中で、最後の言葉だけは、しっかりと脳の中枢にまで届いてい
 た。
  シゲルさんと過ごした日々の記憶がスライドフィルムのように再生され、音を立てて崩れ
 てゆく。
  再び皮靴の音が室内に響いて、今度は俺の周囲を回りはじめる。
 「きみのお父さんは、実に騙しやすかったよ。登記簿のチェックも明細書の確認も、難しい
 ことは全部他人任せだ。おかげで滞りなく計画を進めることができた。その間きみのお父さ
 んがなにをしていたかというと、女とのん気に世界中を飛び回っていたんだから、傑作だ
 よ」
  咄嗟に親父の顔が浮かんだ。
  背中を刺されても、あっけらかんと笑っていそうな親父。スポーツ新聞の一面でピースサ
 インをしていた親父は、シゲルさんに騙されたことに気づいているのだろうか。
 「おまけに馬鹿な一人息子は、父親がどんな状況に置かれているかも知らず、事故を起こし
 て意識不明の重体だ。運が味方したとでも言うのかな? 目が覚めたら、すべてを失ってい
 た。最高の演出じゃないか」
 「どうして……どうして、そんなことを……?」
  やっとの思いでひねり出した一言がそれだった。
  俺が兄と慕った男は、面白くてしかたがないといった笑い声のあとに、こう答えた。
 「どうして? 決まっている。きみたち親子を、天国から地獄へと引きずり降ろすためさ」
  シゲルさんのかかとの音が鳴りやみ、続けざまに、鋭い言葉が俺の耳を刺す。
 「この世に恨みを買わない金持ちがいると思うか? おまえらは神に選ばれたんじゃない。
 僕という悪魔に選ばれたんだよ」
  急に両脚の力が抜けて、俺はその場に膝をついた。
  俺たちが、シゲルさんの恨みを買っていた――?
  中学生のころ、なんの経歴も持たずに親父の事務所の門を叩いた若い男を、幼心にかっこ
 いいと思った。それから俺は、彼に経営のノウハウから学生時代の遊びまで、様々なことを
 教わってきた。
  あれらは全部、嘘だったというのか。
 「じゃあ、最初から……?」
 「その通り。僕はきみたち親子を破滅に導くために事務所に入り、信用を得た。長い時間を
 かけて、ようやくそのときがめぐってきたのさ」
  シゲルさんが膝を折って、俺の目の高さに降りてくる。大きな手のひらが俺の髪の毛をつ
 かみ、氷のように冷たく研ぎ澄まされた瞳が、眼前に迫る。
 「おまえらに二度と幸福は与えない。金を求めて、せいぜい這いずり回れ」
  そして、俺からすべてを奪った男は、低く、それでいてよく通る無機質な声で告げた。

 「これは、おまえら親子への復讐だ」

 

  その言葉の意味を推し量る余裕もなく、俺の頭をつかんでいた手が、乱暴に振り払われ
 る。シゲルさんは立ち上がったようだったが、俺は顔を上げる気力も失くしていた。
  頭上から降り注ぐ落ち着き払った声にも、ぼんやりと耳を傾けることしかできなかった。
 「きみのお父さんからいただいた五十億は、事業のために有効に使わせてもらうよ。ああ、
 そうそう。冥途の土産にいいことを教えてあげよう。きみが起こした事故の処理は僕が済ま
 せておいた。ゼロからの再出発、気兼ねなく楽しんでくれたまえ」
  ドアが開く音がして、ひんやりとした空気がシャツの表面を撫でる。
  最後に、痛烈な皮肉をこめた言葉が、俺の背中に浴びせられた。
 「きみのこれからに、期待しているよ」
  それは卒業式の夜にシゲルさんが俺に授けた言葉。だけど、その意味はあの時とは正反対
 に感じられた。
  シゲルさんが去り、俺は散らかった病室に一人取り残された。
  しんと静まり返った部屋の中、暴風雨のように俺を襲った数々の出来事を思い返す。
  親父は自己破産して、どこか異国の地にトンズラしてしまった。財産という財産を失い、
 帰るべき場所もない。一番信頼していた人は、親父から五十三億もの大金を盗んで俺の前か
 ら消えた。
  自由に描けるはずだった未来図が、今はこの新聞紙と同じ。
  紙クズ同然に破り捨てられ、輝ける未来は閉ざされてしまった。
  額を床につけ、髪の毛をかきむしる。
 「うっ」
  抑えきれない感情が、音となってのどからあふれ出る。
  次の瞬間、自分のものとは思えない絶叫が、静寂を切り裂いた。

  やがて叫び声を聞きつけた病院の人間が部屋に駆けつけ、俺を羽交い絞めにした。その腕
 の中でも俺はもがき、叫び続けた。
  発狂寸前の頭の中に、もはや疑いようのない事実が焼きつけられる。
  ――ある朝、目が覚めると、俺はすべてを失っていた。
  これから先も、人生は続いていくのに。
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