round3『東京は夜の一時』

  真っ暗闇の中に、スポットライトが作る陽だまりがふたつ。
  その片側では、カンナが背筋をぴんと伸ばして椅子に腰かけている。
  彼女と向かい合うのは、親父の愛人。俺に心的外傷を植えつけた、あの忌々しいクソババ
 アだ。二人はともにスーツに身を包んでいて、さながら深夜の個人面接といった様相だ。
 「私、恋人に避けられている気がするんです」
  カンナは膝の上で両の拳をぎゅっと握り締め、険しい表情で語る。
 「というと?」
 「もう付き合って半年以上経つのに、彼は一度も私と寝ようとしないんです」
  四十絡みのクソババアは、口もとに手を添えて、カンナの告白に相槌を打つ。
  俺は少し離れた場所から、ソファに座ってその様子をながめていた。なぜこういう状況に
 なったのか、目の前で繰り広げる光景の意味すらわからずに。
 「彼はなにか、私に隠しごとをしているのではないでしょうか?」
  身を乗り出したカンナの質問に、クソババアは罪のない笑顔でこう答える。
 「では実際に確かめてみましょう」
  彼女がぱちんと指を鳴らすと、はるか頭上にある照明のスイッチが入り、たちどころに暗
 闇が消えた。
  そこから現れたのは、無数の美女。どれも見覚えのある顔ばかりだ。
  やばい空気を察知して、俺はその場から逃げようとする。だが、いつの間にか俺の四肢に
 は拘束具がつけられており、ソファの上で身動きが取れなくなっていた。
 「それでは元カノのみなさん、よろしくお願いしまーす」
  ババアが声を張り上げると、美女軍団がゾンビのようにわらわらと俺にむらがった。
 「やめろ、やめてくれ!」
  必死で抵抗をこころみるが、頑丈な拘束具はびくともしない。
  俺はあっという間に元カノたちに取り囲まれ、衣服を引き裂かれた。
  全裸に剥かれた俺の股間に、女たちの視線が突き刺さる。
 「あらあら、これは……」
  ヴェネチアの水先案内人みたいな微笑を浮かべるクソババア。
 「サトシくんが不自然なほどに情事を避けてきたのは、こういう理由だったんですね!」
  カンナはそっと俺の性器に手を伸ばしたが、そいつはぴくりとも反応しなかった。
  これまでひた隠しにしてきた秘密を暴かれて、こっちは泣きたい気分だ。
  小さく吹き出して、俺の目をまじまじとのぞき込むカンナ。
 「もしかしてサトシって……ED?」
  イーディー。それはエンディングの略じゃない。
  勃起機能障害。
  その発現方法は様々だが、俺の場合は、いざ性交という場面になると、この病気のスイッ
 チが入る。
  俺の顔と小さくうなだれた性器を交互に見比べて、やがてカンナは笑い声をあげた。
 「な〜んだ、じゃあサトシって、童貞だったんだ」
  その一言を皮切りに、耳をつんざくような爆笑が沸き起こった。
  交際期間中、一度も行為におよぶことのなかった女たちが、それぞれに俺をあざける。
 「えーマジ童貞!?」
 「キモーイ!」
 「童貞が許されるのは小学生までだよねー」
 「キャハハハハハハ」
  俺はもうやめてくれと叫んだが、その声は笑い声の渦にかき消されて、誰の耳にも届かな
 かった。
  秘密が露見し、文字どおり裸の王様となった俺は、生まれてはじめて地獄を体験したので
 あった……。

  そこで目が覚めた。
  フリーフォールで落下する瞬間のように全身が硬直したかと思うと、シミひとつない天井
 の白が、視界いっぱいに広がった。
  ここが見慣れたリビングであることを理解すると、安堵感からため息が出た。
  ソファから身を起こし、両手両足に拘束具がついていないことを確認する。手の甲で額を
 拭うと、汗がべったりと皮膚に貼りついていた。
  ……嫌な夢を見た。一年に一度あるかないかの悪夢だ。まさしく精神的ブラクラと呼ぶに
 ふさわしい。
 「おい、カスミ。カスミはいるか」
  大声で呼びつけると、洗濯物を運んでいたカスミが、ぱたぱたとスリッパのかかとを鳴ら
 してこっちにやってきた。今日もちゃんと俺が与えたメイド服に身を包んでいる。合格だ。
 「おしぼりと水を持ってこい」
  カスミに用意させたそれらで簡単に顔を洗いのどをうるおすと、まだわずかに残っていた
 眠気もじょじょに退いていった。
  まったくもって最悪の目覚めだ。
  その引き金となったのは、間違いなく、先日の意味深なカンナの言動だ。だが、俺はもっ
 と以前から、時折あの手の悪夢にうなされている。
  樹液にむらがる昆虫のように親父にくっついて離れない、あのクソババア。中学時代、あ
 いつに遊び半分でイタズラをされたのがそもそもの発端だ。あの一件がずるずると尾を引
 き、俺は今日にいたるまでEDと悪夢に悩まされ続けている。
  俺が腰を上げると、カスミは身をひるがえして、メイド服のすそをまくった。
 「すぐに朝食をご用意いたします」
 「待て」
  俺から離れようとする腕をつかみ、ぐっと引き寄せる。
 「そのまえに、前菜をいただこうか」
  カスミはきょとんとしていたが、俺の目を見て言葉の意味を悟ったのだろう。すぐに恥じ
 らいと絶望の入り混じった表情で視線を床に落とした。
  早朝、特に寝起き際にカスミに奉仕させることは珍しくなかったが、この日はいつもと少
 し事情が違っていた。
  俺の男性器がちゃんと機能するのか、確認しておきたかったのだ。

  朝食を済ませると、俺は外出の支度をはじめた。
  ヘアスタイルを入念に確認し、親父にもらった時計を身につける。まだべそをかいている
 カスミに手伝わせ、オーダーメイドのスーツに袖を通す。
  姿見の前に立ってネクタイの位置を何度も確認しながら、カスミに告げる。
 「わかっているだろうが、帰りは明日になるからな」
  ――なにせ今日は、大学生活最後の一日。人生最後の、卒業式だ。


  大学の体育館で卒業式と立食パーティを終え、仲間とともに外を散策していたとき。
  街頭で、拡声器とプラカードを手に持つ中年の一団と遭遇した。
 「不当解雇を許すな! 労働者の権利を守ろう!」
  声高らかに叫ぶ彼らは、みなおしなべて薄汚れたジャンパーを着ており、ブルーカラーこ
 こに極まれりといった風貌をしていた。
  行き交う人々も俺たちも、汚いものでも見るような目で、失業者のデモを避けて歩いた。
 「なにあれ。ちょっとは人の迷惑考えろって感じ」
  終わってるよね、と言って俺のとなりで眉をひそめるカンナ。
  それについては俺も同感だ。がなりたてる暇があるのなら、空き缶でも拾っていればい
 い。
  こちらの心証など知らぬデモ隊員の一人が、ビラを片手に駆け寄ってきた。
 「学生さん、不当解雇反対の署名に、ご協力お願いします」
  みすぼらしい笑顔で、紙とボールペンを差し出される。
  俺はそれらを払いのけ、拒絶の意を示してやった。
 「きみ、なんてことをするんだ!」
  無数のビラが風に舞い、路上を蝶のように飛んでいく。
  なりゆきを見守っている仲間たちの手前、ここは少々高圧的に出てやることにした。
 「汚い手で俺に触ろうとするな。いいか? 使えない人間が切り捨てられるのは当然だ。国
 や企業が死ぬまで自分を守ってくれるとでも思っていたのか?ぬるい考えでいつまでもなに
 かにすがっているから、こういうことになるんだよ」
  ――おまえらは俺とは、違うんだからな。
  俺は精一杯の皮肉をこめて、惨めな中年に言ってやった。
 「狼は生きろ。豚は死ね、だ」 

 「それではみなさん、お手もとのグラスを取っていただいて」
  すっかり馴染みの顔となった司会役の下級生がクルーザーのデッキに集った六十名の出席
 者に呼びかけると、夜の街明かりをバックに、人数分のワイングラスが天高く掲げられた。
 「ルネッサーンス!」
  それがパーティのはじまりを告げる合図となり、ベイエリアの上空には俺たちの輝かしい
 前途を祝福する花火が打ち上げられた。
  今日一日、大学卒業を記念して行われた様々な催し。その最後を飾るのは、二時間半にお
 よぶ東京湾のナイトクルージングだ。
  企画したのはもちろんこの俺。参加したのはカンナやタケシをはじめとし、総勢三十名か
 らなるゼミの同窓生とOB、それにお世話になった講師陣とその他もろもろ。中には参加し
 た卒業生とゆかりのある一流企業や政財界関係者の姿もあり、なかなかどうして豪華な顔ぶ
 れとなっている。
 「さすがサトシくん。きみは最後まで、みんなのリーダーだったな」
  カンナたちとテーブルを囲んで談笑していると、ゼミを主宰していた初老の教授に肩を叩
 かれた。
 「そんなことないですよ。俺一人の力じゃ、みんなをまとめ上げることはできませんでし
 た。ここまで来れたのは、理解ある仲間と先生がたのご指導のおかげです」
 「はっはっは。相変わらず優等生だな、きみは。卒業論文も素晴らしかったよ」
  それだけ言うと、教授はほかの生徒たちに声をかけて回った。
  権威への執着もなければ、指導者としての強い意識もない。あとは退職して余生の楽しみ
 方を考えるだけのつまらないジジイは、最後まで扱いやすかった。
  ちなみに、卒業論文は代行業者に上限を倍上回る額を支払って、珠玉の内容に仕上げた。

  クルージングも中盤にさしかかると、参加者のほとんどは船内のメインサロンに移動し、
 そこでグラス片手にやかましく歓談していた。これを機にコネクションを広げようという連
 中が、ビンゴゲームそっちのけで持ち上げたり持ち上げられたりと大忙しだ。
  俺はというと、目ぼしい人物との面通しはあらかた済ませ、バーカウンターで注文したカ
 クテルを待ちながらその様子を傍観していた。
  俺がこのパーティをセッティングしなければ、こうして無数の名刺が行き交うこともな
 かった。社会に出るまえの土台作りを、俺がお膳立てしてやったわけだ。彼らはきっと、俺
 に感謝してもし切れないだろう。
  ふと抜けてきたテーブルに目をやると、ショッピングセンターの半額セールで陳列されて
 いるような安っぽいスーツに身を包んだタケシに、下級生とおぼしき女たちが詰め寄ってい
 た。
 「タケシ先輩、いっしょに写真撮ってくださーい!」
 「えっ、いいの? 俺なんかで」
 「いいに決まってるじゃないですか! さ、早く早く」
  左右から腕を引っ張られ、顔を真っ赤にしてカメラの前に立つタケシ。
  ふん、あんな貧乏人のどこがいいというのだ。下賤の女は趣味が理解できん。
  なんとなく夜風にあたりたくなり、俺はバーテンダーが差し出したカクテルグラスを片手
 に、デッキへと続く階段を上った。

  客が船内に引っ込み、がら空きの甲板。
  俺は鉄柵に両腕を乗せ、黒地の布に宝石を散りばめたようなお台場の夜景を眺めていた。
  ここを折り返し地点としてクルージングは後半戦に突入する。さしずめ今はハーフタイム
 といったところか。
  夜風にまじり、かすかな潮のかおりが鼻をくすぐる。こうしてぼうっとしているだけで、
 アルコールで火照った身体が冷却されていくようだった。
  そのまましばらく雲の速度で過ぎてゆく風景を楽しんでいると、どこからともなく俺を呼
 ぶ声が聞こえてきた。
 「こんなところにいたのか、サトシくん」
  振り向くと、グレーのスーツを身にまとった長身の男が、昇降口の前にたたずんでいた。
  その甘いマスクが見覚えのあるものだと気づくと、俺の心は一気に躍った。
 「シゲルさん!」
  一流企業の若き社長は、確かな足取りでデッキの上を進むと、懐かしい笑みとともに俺に
 右手を差し出した。
 「ひさしぶりだね、サトシくん。こうして直接言葉を交わすのは、きみの二十歳の誕生日以
 来かな」
 
 「シゲルさんがわざわざこんな場所に足を運んでくれるなんて! でも、いつの間に?」
 「少し仕事が長引いてしまってね。パーティの開始に間に合わなかったから、さっきお台場
 沖に船が停泊していた時に、途中乗船させてもらったんだ」
  そこまでして俺の卒業パーティに駆けつけてくれたのかと思うと、感慨もひとしおだ。
  渡貫茂は二十代の前半に米国でMBAを取得し、数年まえに経営コンサルティング会社を
 設立した。業績は急速な勢いで右肩上がり。その知的な観察眼と甘いルックスで、エコノミ
 ストたちからは将来の日本のトップリーダーと目されている。
  起業する以前は親父の下で働いていたこともあり、事務所の資産運用や親父がオーストラ
 リアに建設したビルの管理は、どれもこれもシゲルさんに一任している。俺自身も、彼を兄
 のように慕っている。
 「女の子相手なら怒られて当然の大遅刻だね。非礼を詫びるよ」
 「そんな。シゲルさんが多忙の合間を縫って来てくれたってだけで、俺は嬉しいよ」
  それから俺たちは、東京の夜空の下、空白期間を埋めるように長く話しこんだ。
  シゲルさんの起業家としての日常から、親父の事務所の財政状況まで。
  彼の語り口は軽妙洒脱で、厭味なく聞く者の心をとらえる。起業家としてのプレゼンテー
 ション能力の高さがうかがえしきりに感心させられた。
  レインボーブリッジが頭上に迫るころ、シゲルさんは言った。
 「人生は、社会に出てからが本番だ」
  メガネ越しの瞳は、遠く離れたビル群に向けられていた。
 「この船も、あのビルも。望むものなら、天高くそびえるあの鉄塔さえも……成功を収めれ
 ば、きみに買えないものはない。やり方次第で、きみの人生はもっともっとよくなる」
  彼は俺の肩を叩き、柔和に微笑む。
 「卒業おめでとう。きみのこれからを、楽しみにしているよ」
  最後に俺の野心に火をつけて、シゲルさんは船内に戻っていった。
  独り占めのデッキで、俺は鉄柵のむこうにそっと手を伸ばす。
  親父の通帳には、毎年億単位の金が振りこまれる。歌唱印税や放送権料だけではない。親
 父はプロモーターに頼らず自分で興行をしきり、肖像権まで事務所で管理している。並のミ
 ュージシャンじゃない。まさに既得権益のかたまりだ。
  そして俺は、そんな親父の一人息子としてこの世に生を受けた。いうなれば、俺の人生は
 はじめから強くてニューゲーム¥態なのだった。
  この世には、平民の想像もおよばないような破格の金持ちが、確実に存在する。そこに名
 を連ねヒエラルキーの頂点に立つことも、俺には難しくない。
  陸の上に立ち並ぶビルの群れ。今はまだ遠く離れているが、いつかは手中に収めてやる。
  昼間に見た失業者たちとは違い、俺にはそれができるのだから。


  船上パーティを終えたあとは、いつものように親しい者だけを集めて二次会へと繰り出し
 た。
  たまたま同じ大学の同じゼミに入っただけの連中も、これで顔を見ることもなくなると思
 うと一抹の名残惜しさを感じた。
  貴族の俺と中産階級の彼らの人生が今後どこかで交わるとは思えないが、せめて餞別代わ
 りの酒くらいは盛大に振る舞ってやることにした。
  俺もしこたまピンドンを飲み、三次会の会場であるマサラに移動するころには自分でもそ
 れとわかるほど顔が火照っていた。
 「サトシ、今日はもうこのへんで解散しよう」
  二次会の店を出た直後。下級生に持ってこさせた自慢のBMWに乗りこもうとする俺の肩
 を、タケシが強く揺すった。
 「なに言ってんだよ。まだ午前一時だ。夜ははじまったばかりだろう?」
 「そうじゃない。おまえ、自分の顔見てわからないのか。相当酔ってるぞ」
 「心配するなって。俺は飲酒運転の常習者だが、事故を起こしたことは一度もない」
  先週カンナとマサラに顔を出した帰りも俺は飲んでいたが、身体にも免許証にも傷ひとつ
 ついていない。それに、大木戸さんには店を貸し切りにして待ってもらっている。
  俺は不安がるタケシを無理やり後部座席に押しこみ、車にキーを挿した。
  助手席にはカンナ、背後には浮気相手の嫌疑がかかるタケシ。おかしな組み合わせだが、
 それもいいだろう。
  カンナはそろそろ切りどきだし、貧乏人のタケシは引き立て役として欠かせない。こんな
 冴えない男に友情など感じていないが、路傍の石と並べてこそ、ダイヤモンドは輝くという
 ものだ。
  サイドブレーキを引き、夜の街へと発進する。
 「おい、せめてシートベルトぐらいしろって」
 「うるさいな。いちいち心配しすぎなんだよ、おまえは」
  アクセルペダルを強く踏みつけてやると、弱気なタケシは女みたいな声をあげた。その様
 子をカンナと二人で笑いながら、街の灯を横切っていく。車の速度を上げると、それに呼応
 して気持ちが昂っていく。
  中野に向けて車の波をかき分ける道すがら、俺はシゲルさんの言葉を、頭の中で何度とな
 く反すうしていた。
  俺の人生は、ここからが本番だ。将来設計の図面はまだまだ白紙だが、どこから手をつけ
 るか考えただけで、自然と口もとが緩くなる。
  期待に胸をふくらませていた、その時だった。
 「サトシ、危ない!」
  背後でタケシの絶叫が聞こえて、催眠術が解けるように、はっと我に帰る。

  ――車は大きな交差点を渡ろうとしているが、直前の信号を見た記憶がない。

  左手から迫るトラック。その銀色の車体が視界をさえぎる。
  俺は慌ててハンドルを切ろうとしたが、遅かった。
  耳をつんざく轟音とともにボンネットが押し潰され、衝撃でフロントガラスにひびが入
 る。声をあげる間もなく、俺は運転席から放り出された。
  どれもこれも、一瞬の出来事だった。
  裏返った世界の中で俺の目が最後にとらえたのは、後部座席で前のめりになったタケシの
 姿だった。

  そこで俺の意識は途絶えた。テレビを消すように、ぷっつりと。
≪prev round                                            next round≫

≪top≫
inserted by FC2 system