round2『幸せってなんですか?』

  運命の最終ホール。
  俺は両目に全神経を集中させ、緑の芝生の上に逆転勝利へと繋がる軌跡を探していた。
  大きく深呼吸をして、精神を統一する。見えた。月の導き、シャイニングロードが。
  両手にかかる力を微調整し、緩やかなパッティング。俺が放ったボールは、風とのダンス
 を楽しむように静かに転がり、やがてホールの中へと吸い込まれていった。
  激戦の終止符とともに打ち上げられる無数の花火。七色で描かれたホールインの文字が空
 に浮かぶと、ディスプレイの中の俺は全身で喜びを表現した。
 「ふう、危ないところだったな」
  ようやく肩の力が抜けて、倒れるように背もたれに上体を沈ませる。RMTで得た最高ス
 ペックのパターがなければ、一打差の接戦を制することは難しかっただろう。
  緊張から解放され、俺は雌雄を争った相手と互いの健闘を讃え合った。

  satosixの発言:
  正直やばかった^^;まさかここまで追いこまれるとはwww
  hikashuの発言:
  途中で勝利を確信していた俺涙目wwwちょっと泣いてくるわ(^ω^;)
  satosixの発言:
  乙wあんまりトイレットペーパーの無駄使いすんなよ。
  hikashuの発言:
  スリーロールは行くわってやかましいわwwwじゃあなノシ

  俺が別れの挨拶をキーボードに打ち込むのと前後して、hikashuの操作キャラが画面上か
 ら消えた。もう少し彼との会話を楽しんでいたかったのだが、敗者は去るのみというやつ
 か。せっかちな男だ。
  熱戦を終えて、ほかのプレイヤーたちと今期の深夜アニメ談義をしていると、背後でドア
 をノックする音が聴こえた。
 「ご主人様、お父様がいらっしゃいました」
 「すぐ行くと伝えろ」
  遠ざかる専属メイドの足音。
  デスクトップに表示された時計は、ちょうど来客の予定時刻と同じ、午後二時を指してい
 る。
  俺はネット仲間に退席する旨を伝えて、パソコンの電源を落とした。

  リビングに出向くと、親父はカスミが淹れた紅茶でのどを潤しているところだった。黒の
 外套を脱ぎもせず、ソファの上で愛人の肩を抱いている。
 「ようサトシ。調子はどうよ? 人生楽しんでる?」
  相変わらずの、アメリカ映画に出てくる不良少年みたいな言葉づかい。
  ふたつも三つも指輪をはめた節くれだらけの手が差し出され、俺はそいつを握り返す。
 「ああ、おかげさまでね。毎日がお祭り騒ぎだ」
 「そりゃいい。グッドだ。若者はそうでないとな」
  純白の歯と漆黒のサングラスがきらりと光る。オールバックの長髪はいつの間にか白から
 灰色に変わっていたが、知らないやつが見れば異邦人かと思うようなオーラは顕在だ。もっ
 とも、この国に生まれて親父を知らないやつなんて、赤ん坊くらいなものだが。
  不世出の天才。日本ロック界永遠の番長。生きた伝説。ボス。E.NATSUMI。
  世間はありとあらゆる呼称で親父を評価する。七十年代中期から伝染病のように国内を席
 巻したロックスターは、第一線をしりぞいた今もなお、中年たちの崇拝の的だ。もっとも、
 演歌みたいな親父のヴォーカルのどこがいいのか、俺には理解できないが。
  それでもありがたいことだ。親父のおかげで、俺は生まれた時から、遊んで暮らせる人生
 を確約されていたのだから。
 「いつロスから帰国したの?」
  カスミからティーカップを受け取り、俺は空いたソファに腰を落ち着けた。
 「昨日の夜にな。今週は家電メーカーとCMの打ち合わせがある。一週間ほど滞在して、ひ
 さしぶりの東京をこいつと満喫するよ」
  そう言って、親父は女の腰に手を回す。女はシナを作って親父の太ももを撫でていた。
  その仕草に虫唾が走る。元レースクイーンだかなんだか知らないが、ババアのくせにひと
 むかしまえのボディコンみたいな格好しやがって。
  こいつが他界した母さんと入れ替わるように愛人の座についてひさしいが、俺はこいつが
 大嫌いだった。こいつは金と寝た女だ。甘い汁にむらがる、寄生虫め。
  親父は身を乗り出して言う。
 「それより、今日はお前の祝いだ」
 「祝い?」
 「ああ。大学卒業、もうすぐだろ?」
  そういえばそうだった。
  俺は四年まえに金とコネで入った大学で、四年間金とコネのみで単位を取得し続け、一週
 間後には晴れて学士となる。外は桜の季節だ。
 「少し早いが、前祝いってやつだ。受け取れ」
  親父が机の上に小箱を滑らす。中を開けてみると、光沢鮮やかな腕時計が鎮座していた。
  ペルレのトゥールビヨン。どこで買っても四百万円は下らない高級品だ。
 「あいにく仕事の都合で俺は行ってやれないが、卒業パーティには事務所を代表してシゲル
 を出席させる。かまわないだろ?」
 「もちろん! シゲルさんが来てくれるなら大歓迎だよ」
 「いい返事だ。これで来月からおまえも事務所の仲間ってわけだ。よろしく、マイサン」
  再び手が差し出されて、俺はそいつを力強く握り返した。
  取り巻きたちが額に汗して就職活動している時に俺が遊んでいられたのも、親父が事務所
 を持っているおかげ。
  大学の仲間たちは、やれ官僚だやれ日銀だと忙しそうに卒業後の人生設計をしているが、
 俺は出世街道に乗る必要がなかった。親父の事務所で莫大な資産の投機と管理をやっていれ
 ば、いずれはそれが俺の懐に入ってくるのだから。まったく、どこまでも父上様様だ。
 「ところで、三島のとこの娘はどんな調子よ? しっかり働いてる?」
  親父がそう訊ねたところで、キッチンのほうから陶器の割れる音が耳に飛びこんできた。
 「も、申し訳ございません!」
  というカスミの言葉に、俺と親父は顔を見合わせた。
 「……あんな調子か」

  その夜、俺は恋人のカンナを連れて、自慢のBMWで中野へと足を伸ばした。
  貴族階級の俺がこんな薄汚れた中産階級の街を訪れるのには、理由がある。表通りから外
 れた雑居ビル、その一階に俺の隠れ家があるからだ。
  木製の扉を開くと、鈴の音が俺たちを歓迎してくれた。奥行きばかりで幅のない店内に客
 は見当たらず、薄暗いカウンターの奥では店主の大木戸さんが退屈そうに読書をしていた。
 「やぁ大木戸さん。しばらくぶりだね」
 「誰かと思えばサトシくんか。いらっしゃい」
 「景気はどう?」
 「見てわからない? 閑古鳥すら来やしない。やってらんねぇよ、ちくしょう」
  大木戸さんは海藻みたいな天然パーマをかきむしると、大きくため息をついてだらしなく
 開けていたベストの前を直した。
  街の表情とは不釣り合いなこのオーセンティックバー『マサラ』の経営者、大木戸さんと
 は、もう長い付き合いになる。
  二十歳の誕生日に、親父が顔のきくホテルのバーに俺を連れて行ってくれた。そのときそ
 こでシェイカーを振っていたのが、のちに独立して個人経営者となる大木戸勝だ。
  開店したバーはホテルのバーと比べるとはるかにグレードが低く、客足も順調とは言えな
 さそうだったが、俺はしばしそこに足を運ぶようになった。俺は大木戸さんが出す酒が好き
 だったし、彼の人柄も気に入っていた。それが俺たちの親交のはじまりだ。
 「定期的に顔を出してくれるサトシくんは、うちにとっちゃ上客だよ。なににする?」
  食前酒を注文すると、カンナも「じゃあ私もそれで〜」と俺にならった。どうせこの女は
 酒の良し悪しなどわかっていないのだ。水道水でもすすっていればいいと思った。
  とはいえ、今日は彼女との交際半年の記念にかこつけてここに来たのだ。恋人を気持ちよ
 く酔わせてやるのも、男の務めだ。
  カクテルが運ばれてきてから、俺とカンナは実に多くのことを語り合った。彼女の誕生日
 に行った店のこと、大学院に進むゼミ仲間のこと、来週に迫った卒業式、ひいてはその当日
 に俺が主催する予定の、船上パーティのこと。
  その間、大木戸さんは聞き手に回るでも傍観者を気取るでもなく、ただひたすら読書に熱
 中していた。
 
 「ねぇ、このあとどうするの?」
  四杯目のカクテルを飲み干して、カンナはカウンターの上に頬杖をついた。口には出さな
 いが、目もとに期待の色が滲んでいる。
  どきりとする。
  艶めかしく微笑むカンナとは対照的に、禁忌に触れられて俺の表情は硬くなった。
 「ど、どうって、ちゃんと家まで送るよ」
 「それだけ? 私の部屋に上がりたかったら、上がっていってもいいんだよ」
  緊張が胸に込み上げてくる。弱点を突かれて、心臓が危険信号を発している。
  俺は内心の動揺を悟られないように、笑ってその場をごまかすことにした。
 「悪いけど、今日はそういう気分じゃないんだ。また今度にしよう」
  俺の返答にがっかりしたのか、カンナはわざとらしくため息をついてみせた。
 「サトシって、そういうとこあるよね」
 「え……?」
 「半年付き合って一回もエッチしないなんて、普通じゃないよ」
  普段の馬鹿っぽさとはうって変わって、鋭く冷たい言葉。言外に、本当に私のこと好きな
 の? と問われているような気がした。
 「ちょっとトイレ」
  カンナは俺をカウンターに残して席を立つ。
  彼女がドアの奥に消えるのを確認してから、俺はそっと胸を撫で下ろした。危険信号が解
 除され、冷静さを取り戻す。
  ――そろそろ切りどきかもしれない。カンナは俺に疑念を抱き始めている。
  チェイサーで乾いたのどをうるおしていると、となりの椅子から短いバイブレーションの
 音が聴こえてきた。カンナの携帯電話だ。
  持ち主の不在をいいことに、こっそりディスプレイをのぞき見る。そこに表示されていた
 のは、タケシの名前だった。
  なぜこんな時間に、タケシがカンナに電話を寄越してくる?
  それは先ほどの挑発的な言葉と併せて、俺の不快感を強く煽った。
  昼間マンションに来た親父の愛人を思い出す。どいつもこいつも、中身は娼婦のせくに、
 いっちょ前に着飾りやがって。
 「ちっ、売女どもが……」
  俺は誰にも聞こえないように吐き捨てて、一気にチェイサーを飲み干した。


  自宅に戻ってからも腹の虫は収まらなかった。
  キッチンテーブルで家計簿をつけていたカスミに乱暴にコートを投げつけて、ソファの上
 に腰を落ち着ける。
  テレビのチャンネルを回して気分を変えようとしたが、低能どもが互いの無知を慰め合う
 クイズ番組ばかりで、余計に苛立ちが募った。
 「くそ、カンナのやつ……いったいどういうつもりだ」
  マサラを出てからというもの、俺は同じ疑問を執拗に繰り返していた。飲酒運転上等で深
 夜の道路をかっ飛ばしている間も、ずっとだ。
  三高の要素をすべて満たしたこの俺と、オグリッシュも驚きの貧乏男子であるタケシ。魅
 力の差は確定的に明らかだ。浮気をする理由なんて、どこにも見当たらない。
  疑惑はそれだけではない。カンナの言葉も気がかりだ。あの女は、俺の股間に隠された秘
 密に気づきはじめているのかもしれない。だとしたら、彼女がほかの男になびくのも納得で
 きる。
  気がつくと、俺は痙攣したように膝を上下させていた。
  我ながらみっともない真似だ。貧乏ゆすりなんて、セレブがすることじゃない。
  ……少し精神状態をリラックスさせる必要があるようだ。
 「おい、カスミ。こっちへ来て座れ」
  呼びつけると、カスミは電卓を打つ手を止めて、メイド服のフリルをはためかせながら駆
 け寄ってきた。
 「なんでしょう、ご主人様」
  そのままソファに尻を乗せようとするので、少し厳しく注意してやる。
 「違う、そこじゃない。おまえが座るのはこっちだ」
  俺が開いた両脚を指で示してやると、カスミは途端に表情を曇らせた。
  まるで俺の奴隷となることを望んでいないかのようなその反応が、苛立ちに拍車をかけ
 る。
 「どうした、早く俺のもとに跪け。今日の俺は気が立ってるんだ」
  カスミは苦々しく目を伏せて、蚊のような細い声で答えた。
 「……できません」
 「なんだと? おい、もういっぺん言ってみろ」
 「お願いです。もうこれ以上、エッチなことは……」
  その瞬間、苛立ちが頂点に達し、俺は無意識のうちに立ち上がっていた。特盛りの胸ぐら
 をつかみ、感情の赴くままに声を荒げる。
 「貴様! 立場をわきまえてものを言え!」
  だがカスミの意思は強固だった。彼女は肩を小刻みに震わせながらも、顔を背けて絞り出
 すように言う。
 「わっ、私の契約内容は、ご主人様の身の周りのお世話だけですからっ!」
  俺はいよいよ我慢できなくなって、彼女を突き離してリビングを出た。
  リビングに戻ったとき、俺は金庫から取ってきた札束を、放り捨てるようにカスミの足も
 とに投げつけてやった。床の上に、カラスの羽のように散乱する諭吉の顔。
 「この先半年ぶんの給料だ。そいつが欲しけりゃ、しっかり下の世話もしろ」
  それだけ言って再びソファに座る。
  カスミは困惑した表情で、札束の上にうろうろと視線をさまよわせていた。
  今、彼女の頭の中では、安いプライドと目の前の札束が秤にかけられているに違いない。
  だが、プライドの重さとは関係なく、彼女には俺の命令を拒めない事情がある。
  俺はいつもの余裕を取り戻して、その場にふんぞり返る。
 「それが嫌だっていうなら、クビにしてもいいんだぞ? 代わりはいくらでもいるんだから
 な。もっとも、おまえがクビになったら、借金を抱えたおまえの父親は路頭に迷うことにな
 るだろうがな」
  カスミは双眸に涙を溜め、俺は勝利の笑みを浮かべる。
  これで茶番劇は終わりだ。しょせん貧乏人は、金の前では屈伏するしかないのだ。
 「さぁ、選択しろ。自分の運命と、父親の運命を」
  健気なメイドはそっと俺の眼下に跪くと、震える手で俺のズボンのチャックを下げた。
  そうだ、それでいい。金の前ではすべてが無力だ。
  こうしていれば、チンケな苛立ちなんて、すぐに忘れられる。
  金さえあれば、俺はいつまでも、どこまでも幸せでいられるんだ。

  カスミの奉仕ですっかりリフレッシュした俺は、仮想現実の仲間たちに会うべく、自室に
 こもることにした。
  廊下を渡ろうとすると、洗面所のほうからカスミのむせび泣く声が聞こえてきた。俺はな
 んとなく足を止めて、鏡台の前で丸まった背中を見ていた。
  のどに精液がからんで気持ち悪いのだろう。カスミは悪酔いしたみたいに、咳き込んでは
 水道水を口に含んでいる。
  鏡に映る俺の姿を確認すると、哀れな奴隷はびしょ濡れの顔で振り向いた。
 「ご主人様……」
 「どうした、一家言あるって顔をしているじゃないか」
  ためらいがちにうつむいて、カスミは語りはじめる。
 「自殺した母は、貧しくても幸せな暮らしがあるのだと、私に教えてくれました」
  俺は腕を組み、黙って彼女の言葉に耳を傾ける。
 「でも現実は違いました。ご主人様が放り捨てたお金を拾わないと、私も父も生きていけな
 い。その結果幸福になるのは、私でも父でもない。サトシさんです。きっと清貧なんて言
 葉、嘘ですよね」
  そして、弱者は濡れた瞳で俺に問いかける。

 「教えてください。幸せって、なんですか?」

  俺はしばらく考えたが、哲学をするような気分じゃなかった。人間に動物の気持ちが理解
 できないのと同じで、俺も貧乏人の苦労なんて知ったこっちゃない。
 「……知るか。自分で考えろ」
  だから俺は、そう答えることしかできなかった。

  ネットに接続してみたはいいが、ゲーム仲間はそろいもそろってオフライン表示だった。
  しばらくお気に入りのサイトを巡回して時間を潰したが、どうも気が乗らない。
  ――瞼の裏には、雨に打たれた子犬のようなカスミの表情が焼きついていた。
  幸せの意味、か。そんなこと、これまで考えもしなかった。考える必要がなかったから。
  消えかけていた苛立ちが、またひょっこりと顔を出す。
 「なんだってんだ、どいつもこいつも……」
  俺はパソコンの電源を落とすと、そのままベッドに飛びこんだ。
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