round19『甘美なる闘争と二人の女神』

  子どものころ、渡貫茂にとって最大の財産は家族だった。
  大手家電メーカーに勤める温厚な父と、通訳の仕事で世界中を飛び回る気丈な母。それさ
 えあれば、あとはなにもいらなかった。
  シゲルは生まれつき数字が得意で、運動神経や芸術的なセンスも同年代の友人よりはるか
 に優れていた。人心掌握術にも長けており、小学校ではどの学年でもクラスのまとめ役だっ
 た。人の心を操るのは、近所の捨て猫を飼い馴らすよりよっぽど簡単だった。
  大人たちが用意するハードルは、どれも低すぎて面白みがなかった。
  ――なろうと思えば、僕はなんにだってなれる。
  名門と名高い中高一貫校に進学するころには、その自信は確信に変わっていた。
  だが、なりたいものはひとつしかなかった。
  政治家だ。
  シゲルの父方の祖父は、警察庁長官からときの法務大臣にまで登りつめ、地元では名士と
 して知られていた。父親はその三男で、兄弟の中では政治の世界に身を置かないただ一人の
 人間だった。
  つまり、できそこないだった。
 「おまえは将来、政治家になって父さんの無念を晴らすんだ」
  それが父親の口癖だった。
  父親の都合で将来を設定されることを、シゲルは窮屈には感じなかった。ほかに夢や目標
 と呼べるものもなかったし、なにより彼は父親が好きだった。自分にその資質があるという
 のなら、それは父親の意志を引き継ぐために与えられたものに違いない。幼心にそう思って
 いた。
  転機が訪れたのは、彼が高等部に進学した年だった。
  前年から、母親の様子がおかしくなっていた。シゲルの目の前でたびたび夫を批判し、な
 にかと理由をつけて家事を放棄するようになった。仕事を理由に家に戻らない夜も増えてい
 た。母親は夏見英一と不倫していた。
  翌年、両親の協議離婚が成立した。
  さらに半年後、立てつづけに両親が自殺した。
  シゲルは父親に引き取られて暮らしていたので、母親の死を知ったのはその二日後だっ
 た。だが、父親の場合はそうではなかった。ある日、シゲルが学校から帰ってくると、胃潰
 瘍で休職中の父親が台所で倒れていた。ガスの元栓を開けっぱなしにして。
  その光景は、シゲルの心に一生塞がることのない巨大な空洞をつくりだした。
  父親がシゲルに遺した通帳の預金は八百万円。
  たったこれだけか、というのがシゲルの正直な感想だった。
  ――父さんが生きた証は、たったこれだけか。
  複数の親戚が引き取りを申し出たが、シゲルはそれらをすべて断った。
  相次ぐ両親の死により、彼の人生には新たな目標が設定されていた。

  夏見英一に復讐する。

  自分の人生を狂わせた男を――最大の財産を奪った男を地獄に突き落としてやる。そのた
 めには、血の繋がらないいつわりの家族など邪魔でしかなかった。
  シゲルは高校を卒業すると単身渡米し、現地の大学で経営と政治を学んだ。来る日も来る
 日も、夏見英一への復讐だけを夢見て。
  学業以外では株取引に明け暮れた。父親が生きた証が八百万円というのは、あまりにも少
 なすぎる。ならば自分が増やしてやればいい。際限なく、どこまでもどこまでもどこまで
 も、父親が生きた証を増やしつづけるのだ。そして彼には、その才覚があった。
  MBAを修得して帰国したシゲルは、すぐさま夏見英一の事務所にもぐり込んだ。下働き
 からはじめ、五年の歳月を費やしてマネジメント部門の最高責任者となった。素性を隠す必
 要はなかった。夏見英一は、シゲルの母親のことなどとうのむかしに忘れてしまっていたの
 だから。その事実が、シゲルの復讐心をいっそう強くした。
  シゲルは三十歳で独立し、経営コンサルタント会社を設立した。夏見英一の事務所の経営
 顧問をしていたことも手伝い、評判はまたたく間に業界の内外に広まった。それからわずか
 三年の間に会社は飛ぶ鳥を落とす勢いで成長し、次々と事業を拡大していった。水面下で
 は、夏見英一の資産を横領する計画が進んでいた。
  同時期に、シゲルは一人の少年と出会う。
  少年の名前は夏見智史。ほかならぬ夏見英一の実子である。
  出会いの場となったホームパーティーで、夏見智史はこんなことを言った。
 「俺も中学のときに母さんを亡くしてるんです。だからシゲルさんの気持ちはよくわかりま
 す。つらいですよね、家族を失うのって」
  シゲルは冷めた気分で彼の話に耳を傾けていた。
  父さんと母さんが死んだのは、いったい誰のせいだ?
  貴様の父親のせいじゃないか。
  夏見智史の表情や仕草、言動のひとつひとつが許せなかった。

  この世には、無意識に他人の不幸を糧にして、のうのうと生きている人間がいる。

  それがたまらなく不愉快だった。
 「なんか俺、兄貴ができたみたいで嬉しいです」
  無知な少年と握手をしながら、シゲルは決意をあらたにした。
  ――夏見英一を破滅させるときは、この息子も道連れにしてやる。
  やがて復讐はシゲルの人生そのものとなり、その矛先は夏見英一ではなく夏見智史に向け
 られるようになる。彼はのちに三島香澄を妻に迎えるが、それすらも復讐の材料に過ぎなか
 った。
  自分の財産を奪った者たちから、財産という財産を奪い尽くす。
  それこそが彼の人生における唯一の目的であり、最上の理念となった。
  他人の不幸を糧にして生きるのは快感だった。夏見智史の絶望した顔を見る度、両親の死
 が報われた気がした。人の心を捨てれば捨てるほど、シゲルは甘い感情に支配された。
  あとは政治家になって父親の無念を晴らしさえすれば、思い残すことはなにもない。
  脳の異常が発見されたのは、そう思いはじめた直後だった。


  カスミが語ったシゲルの半生は、俺を落ち着かない気分にさせた。
  ――殺したいくらい憎んでいた男が、病に倒れようとしている。
  そのショックがまだ尾を引いていた。
 「もう一度お願いします。シゲルさんから手を引いてください」
  額とテーブルがくっつきそうなほど深く頭を下げ、カスミは俺に嘆願した。復讐を成し遂
 げ政治家になるというシゲルの夢を叶えてやりたいのだと。やつには時間がない。そこへ来
 て、俺が悲願を果たそうとするやつの障害になっているというのだ。
  すっかり冷めてしまったコーヒーに口をつけ、答えを出すのに必要な時間を稼ぐ。
 「病気はどれくらい進行しているんだ?」
 「今のところ日常生活に支障はありません。ただ、お医者さんはあの人の発症リスクは通常
 の患者よりもはるかに高いと……」
  尻切れトンボになって消えてゆくカスミの声。
  俺はカルテの写しを手に取り、医師の所見に目を通した。
  シゲルにはすでに不眠や体調不全といったパーキンソン病の初期症状が現れており、じゅ
 うぶんな経過観察と薬物投与による継続的な治療が必要だと書かれている。
 「あの人にこれ以上ストレスを与えてほしくないんです。身体に障ります」
 「だからって、この勝負を降りるわけには……」
  顔をしかめる俺に、カスミはテーブルから身を乗り出して反抗した。
 「勝負ってなんですか!? そんなくだらないことのために、あの人からお金と時間を奪う
 つもりですか? 復讐なんて、今すぐにやめてください!」
 「悪い。いくらおまえの頼みでも、それだけは聞けない」
  たとえシゲルの身にどんな不幸が降りかかろうとも。
  俺は信念を曲げるつもりはない。
  シゲルの人生が復讐そのものであるように、俺の人生も復讐そのものなのだ。
  これは失ったものを取り戻す戦いであると同時に、人生に意味を与える戦いでもある。
  決着をつけるその日まで、この舞台から降りるわけにはいかない。
 「俺はシゲルにたくさんのものを奪われた。敵に情けはかけられない」
  取り戻したいものは山ほどある。
  ――カスミ、おまえもその中のひとつだ。
 「……そろそろ行きます。早くしないと、あの人が帰ってきますので」
  交渉決裂と見るや、カスミはX線写真とカルテの写しをアタッシュケースに戻して席を立
 った。俺に軽く会釈して、せかせかと玄関を出る。
  俺は彼女がいなくなった部屋でしばし思い悩んだのち、矢も盾もたまらずあとを追った。
 「カスミ!」
  マンションの前の公園で彼女を呼び止めた。
  月明かりを浴びて彼女は振り返る。
 「最後にひとつだけ聞かせてくれ」
  渡貫邸の空中庭園で、俺は彼女に訊ねた。
  こんな場所に閉じ込められて、飼い犬同然にあつかわれて、それで幸せなのかと。
  その答えを、まだ聞いていない。
 「おまえは本当にシゲルを愛しているのか? やつに同情しているだけなんじゃないのか」
  もしかするとそれは、そうであってほしいという俺の願望なのかもしれない。
  だが、俺にはとても信じられないのだ。
  笑顔を忘れてしまった彼女が、今の暮らしに幸福を感じているとは。
 「……ごめんなさい」
  カスミは俺と目を合わせずに、憂いを帯びた声で答えた。

 「自分でも、よくわからないんです」

  失礼しますと言って、未練を振り切るように足早に立ち去ってゆくカスミ。
  俺はその背中を見つめながら、しばらく月明かりの下にたたずんでいた。


  慣れた手つきでカクテルをステアし、大木戸さんがカウンター越しに問いかけてくる。
 「いい仕事は見つかったかい?」
 「目下就職活動中。大木戸さんは? いいお嫁さんは見つかった?」
 「目下婚活中だよ」
  独身男性の悲哀がにじんだ顔でグラスを滑らせる大木戸さん。察するに、またお見合いに
 失敗したのだろう。
 「三十過ぎた女はみんな安定志向。収入が不安定なバーテンダーはお呼びじゃないとさ」
 「仕事に精を出せっていう神様のお告げだよ、きっと」
 「神様のほうこそ仕事しろって話だよ。こんな紳士が良縁に恵まれず嘆いてるってのに」
  不惑の歳が近づいて思うところがあったのか、大木戸さんはこの夏、いよいよ念願の二号
 店を銀座にオープンさせるそうだ。新店舗の経営が軌道に乗れば、こうしてまったりとぼや
 きを聞く機会も減ってしまうだろう。
 「ところでさっきから気になってたんだけど、なに読んでんの?」
  訊ねられ、俺は図書館で借りてきた本の背表紙を大木戸さんに見せた。
 「医学書? お医者さんでも目指すつもりかい?」
 「ちょっと調べたいことがあってさ。でも、それもいいかもしれないな」
  顔をしかめる大木戸さんを無視して、パーキンソン病についての勉強に戻る。
  脳内のドーパミン不足によって発症するパーキンソン病は、患者に身体の震えや姿勢異
 常、自律神経障害などの諸症状を引き起こす。病気が進行すると歩行が困難になり、極めて
 高い確率で認知症を合併する。
  現時点では、シゲルの病状は日常生活に支障をきたすレベルには達していない。だが、カ
 スミが言っていたように、症状ごとの対症療法こそあれ、現在の医学ではパーキンソン病を
 完全に克服するのは不可能に近い。
  シゲルには時間がない――カスミの言葉が心に重くのしかかる。
  発症リスクが通常の患者よりも高いという彼女の言葉が本当ならば、いずれシゲルはまと
 もな社会生活を営めなくなる。少なくとも、これまでどおり会社運営と復讐対決を続けるの
 は難しいだろう。
  そのとき俺は、どんな顔をしてやつと向き合えばいいのだろう。
  これが報いだと言って、病の床に臥しているやつを笑えばいいのだろうか。
  仇敵を襲った突然の不幸にも、俺は素直に喜べずにいた。
 「浪子ちゃん、今ごろどうしてんのかなぁ」
  ナイーブなため息をついて、大木戸さんがスポーツ新聞を広げる。
  ちらりと目をやると、そこにはこんな記事が出ていた。

  ≪カリスマ経営者ご乱心? 強引な企業買収に同業者からは批判の声も≫

  見出しの横には、シゲルの顔写真が掲載されていた。


  発端となったのは、榊さんの会社をめぐる先の買収劇。
  シゲルはこの件について、公には企業価値を高める目的での買収だと説明していた。だ
 が、それに納得しない関係者も少なくなかった。一部の報道機関が業界の慣例を無視した横
 暴だとしてシゲルをバッシングすると、週刊誌やスポーツ新聞がこれに追随した。手のひら
 返しがはじまったのだ。
  今のところ、シゲルへの批判はボヤ程度に収まっている。
  しかし、このボヤはいつか大きな山火事を生む。俺にはそんな気がしてならなかった。


  三月のある朝、俺はかねてから準備していた計画を実行に移した。
 「本当に行っちゃうの……?」
 「ああ。いつまでも厄介になっているわけにはいかないからな」
  マンションの玄関で俺と向かい合い、名残惜しそうに下を向くヒカリ。
  そんな反応をされると、決意が揺らぎそうになる。
  榊さんの会社に就職が決まったときから、金が貯まったらヒカリと離れて暮らそうと決め
 ていた。もともと彼女との共同生活は俺が仕事を見つけるまでという期限つきだったのだか
 ら、俺が働く意志を取り戻した今、こうするのはごく自然なことだ。
  それに、傷を舐め合ってばかりいては前に進めない。
  この別れは、俺たちが自力で道を切り拓くために必要なステップなのだ。
 「エッチしたくなったら、いつでも好きなときに遊びに来て」
 「テレビに出られるような声優になって親父さんを見返すんだろ。自分を安売りするなよ」
  俺はヒカリの頬にそっと触れ、それから朝露に光る草原のような美しい金髪を撫でた。
 「それに、心配しなくても俺は一生おまえの味方だ。エッチなんかしなくたってな」
 「……うん」
  そろそろ行かなくては、引っ越し先に業者が来てしまう。
 「オーディションに合格したら教えてくれよな」
 「必ず連絡する。サトシも頑張ってビッグな男になってね」
  俺たちは拳を突き合わせて誓いを立てる。親父が俺にそうしてくれたみたいに。
 「あ、そうだサトシ!」
  手を振って別れようとした矢先、ヒカリが思い出したように俺を呼び止めた。
  開けっぱなしのドアの横で立ち止まった俺の背に、小さな額がくっつけられる。
 「もう誰かを好きになることはないなんて言わないで。そんな生きかた、寂しいよ」
  ヒカリの言葉が、頭の隅で埃を被っていた記憶を呼び覚ました。
  初めて彼女と会ったその日、二人で訪れた井の頭公園で、俺はたしかにそんなことを言っ
 た。一番大切な財産だと思っていたカスミをシゲルに奪われ、自暴自棄になっていた。
  カスミに心を縛りつけられていた。
  多分、今でも。
 「生きていれば、きっとまた誰かを好きになれるんだから。私が保証する!」
 「はは、努力するよ」
  つるぺったんな胸を反らせて、頼もしげに叩いてみせるヒカリ。彼女が元気になってくれ
 て、本当によかった。
  俺たちの間に愛はなかったかもしれない。
  だけど、俺たちは人生でもっとも苦しい時期をともに過ごした仲間だ。
  たとえ離れていようと、これからもそれは変わらない。
  ありあまる想いをありがとうの一言に変えて、今度こそヒカリと別れた。
  気が遠くなるほどいろいろなことがあった停留所を出て、俺は新たな一歩を踏み出す。
  さしあたって入り用なのは仕事と住居だ。仕事のほうは榊さんの会社をクビになって以来
 ありつけずにいるが、住居のほうは中野区にいい物件が見つかり、すでに入居の手続きも済
 ませていた。
 「まさかここに戻ってくるなんてな……」
  不動産屋にもらった鍵で新居となるボロアパートに上がりこむと、六畳一間の部屋には懐
 かしいイグサのにおいが立ち込めていた。油汚れがこびりついたキッチンコンロも、黄ばん
 だ壁紙も、ところどころ編み目の破けた畳も、なにひとつあのころと変わっていない。
  これ以上俺の新たな門出にふさわしい場所はないだろう。
  中野区一丁目、花田荘二○二号室。
  今日からここが、俺の新居だ。


  その後の一年間で、俺は二度の就職と解雇を経験した。
  また一から就職活動をするにあたって、俺が目をつけたのはIT関連企業だった。たった
 の半年ではあるが、俺は業界大手の榊さんの会社に勤めていた。そこで得たノウハウは同業
 他社への再就職に有利に働くのではと考えたのだ。
  しかし、俺はシゲルを見くびっていた。
  なぜかどの企業でも、面接を受けるまえに門前ばらいを食らう。不審に思ってある企業の
 人事に詰め寄ると、業界内に出回るブラックリストに俺の名前が載っているのだと判明し
 た。
  間違いない。シゲルの仕業だ。そうなると、放送業界や金融機関もすでにやつの手の内と
 考えたほうがいいだろう。
  そこで俺は方針を転換し、シゲルの息がかかっていない業界に的を絞って就職活動を進め
 ることにした。いかにやつの威光がすさまじかろうと、日本中の企業がやつの味方というわ
 けではない。根気よく探せば、仕事はいくらでも見つかる。
  たとえば、俗に言う3K。
  もちろん3Kとは三者連続三振のことではない。キツい、汚い、危険の三拍子がそろった
 仕事のことだ。二十五歳の春から秋にかけて、俺は契約社員として都内の清掃業者に勤め
 た。ビッグな男になるには、ブラック企業は嫌だなんて贅沢は言っていられない。
  大手食品メーカーの物産展の会場を掃除したときには、予期せぬ再会があった。
 「あれ? あんた、どっかで会わなかったか?」
 「ひ、人違いでしょう。あっしはただのしがない清掃員でさぁ」
 「おかしいな。いっしょに面接を受けた気がするんだが……」
 「おや、あんなところに未回収のゴミが!」
  俺はゴミを拾いに行くフリをして、そそくさと細マユのもとを離れた。勝ち負けの差がこ
 うもはっきりしていると、ともに就職活動をしていた身としては、とても素直に再会を喜び
 合う気にはなれない。
  この清掃業者の仕事は、二十六歳の誕生日を迎える直前にクビになった。
  またもやシゲルだ。どこから嗅ぎつけたのか、やつは俺が清掃業者で働いていることを知
 り、榊さんの会社のときと同じように強引な企業買収によって俺を追い出した。どうやら金
 にモノを言わせて俺との勝負に勝つつもりらしい。
  上等だ。そっちがその気なら、消耗戦でもなんでも付き合ってやろうではないか。
  ――あんたの金が尽きるまで、とことん働き続けてやる。
  清掃業者をクビになって間もなく、俺は新天地を求めて農家に就職した。
  農家は農家でも、年寄りの夫婦が田舎の土地を借りてやっているような農家ではない。デ
 パ地下やプライベートブランドをあつかうショッピングセンターに販路を持つ、会社化され
 た農家だ。オフィスも東京のど真ん中にある。俺は研修生としてそこに就職し、毎朝始発の
 電車に乗って埼玉にある農地におもむいてレタスや白菜を育てた。
  研修生のほとんどはIターン転職者の若者で、将来地元に帰って農地を経営することを目
 標にしていた。
  しかし、みんながみんなそうというわけではない。
 「おまえ、大学に進学したんじゃなかったのか」
 「休学中です。父さんが若いうちにいろいろ経験しとけって」
  池袋警察署の署長を父に持つ青年は、軍手で土のついた鼻の頭をかき、気恥かしそうに笑
 ってみせた。小型カメラを携帯してカスミを尾け回していたころと比べると、ずいぶんと好
 青年になった。農作業が彼を成長させたのだろう。
  細マユに元ストーカーの青年。職を転々とする中で再会した彼らが、俺に教えてくれる。
  俺だけじゃない。

  みんな戦っているんだ。それぞれの戦場で。

 「そういえばカスミちゃんはどうしてます? いっしょに暮らしてるんですよね?」
  元ストーカーの青年が何気なく口にした質問に、俺は答えることができなかった。
  カスミは今ごろどうしているのだろう?
  空中庭園に軟禁されて、愛しているのかもわからない夫の帰りを待っているのだろうか。
  戦うことを忘れてしまった彼女を想う度、俺はやりきれない気分になる。


  そして現在。
  入社十ヶ月目にしてついに農家を解雇され、俺は住み慣れた中野の街を散歩している。
  突然の解雇通告も、三度目ともなるとさほど驚きはない。コツコツと積み上げてきた実績
 が水泡に帰すのかと思うと無念ではあったが、もとよりいつまでもシゲルから逃げのびられ
 るとは期待していなかった。
  それよりも重要なのは、いかにして次の仕事を見つけるかだ。職歴がほぼないに等しい現
 状では、おのずと就職できる業界が制限されてしまう。輸入ワインを配送ルート別に仕分け
 するアルバイトの合間を縫ってシスアド、英検、日商簿記などの資格修得に向けた勉強をし
 てはいるが、成果を出すにはまだまだ時間がかかる。
  なにか妙案はないだろうかと街に出てみたものの、そんなものが都合よく道端に落ちてい
 るわけもなかった。夏の終わりの日射しに体力を吸い取られるばかりだ。
  新井薬師公園を北上し、中野通りをまたぐ歩道橋を渡る。
  公園内に拳銃の密売を仲介していたホームレスの男性の姿は見当たらなかった。それもそ
 のはずだ。あれからもう、三年以上もの月日が流れたのだから。
  歩道橋を降りると、道路に面して小さな釣り堀がある。俺はそこで釣り人たちと肩を並べ
 て、今後の就職活動について考えた。
  就職活動に行き詰まっているのは俺一人ではない。
  先日、新宿のハローワークを訪れたときのことだ。
 「どうしてあなたがここにいるのよ」
 「どうしておまえがここにいるんだよ」
  求人票を見に来たハルカと、窓口でばったりでくわした。
  ハルカとは半年に一度のペースで電話で近況を報告し合っていたが、直接顔を合わせたの
 は、シゲルに再戦を申し込んだあの日以来、実に二年半ぶりだった。
  最後に電話をしたとき、彼女は某自動車メーカーの社長秘書として立派に働いていた。そ
 れがハローワークなんかにいるということは、おおかた社長にセクハラでもされて一本背負
 いを食らわせてしまったのだろう。
  冗談半分で予想を披露してみせたところ、彼女は驚いたように目をぱちくりさせた。
 「なんでわかったの!?」
 「マジかこいつ……」
  そんなわけで、ハルカも目下就職活動中だ。
  また、ヒカリからもいいアルバイトがあれば紹介してほしいと頼まれていた。端役ではあ
 るがプロの声優として深夜アニメやラジオドラマに出演するようになり、現在のバイト先と
 勤務時間の折り合いがつかなくなっているとのことだった。夢に苦労はつきものとはいえ、
 収入が不安定なうちは声優もなにかと大変だ。
  となりに座る釣り人が、がさがさと音をたててスポーツ新聞をめくる。さりげなく誌面を
 覗きこむと、今日もシゲルを中傷する記事が出ていた。
  度重なる目的不明の企業買収により、この一年間で世間のシゲルへの反発はますます強く
 なった。政界との繋がりも明るみに出て、渡貫茂はこの国を乗っ取るつもりだ、などと大真
 面目に声を張り上げる評論家まで現れる始末だ。
  もっとも、シゲル本人はあくまで強気の姿勢を貫いている。難病を患っていることもまだ
 公表されていない。同情を買って地位を固めるのは、やつの趣味ではないらしい。
  ――シゲルは文字どおり、この復讐対決に命を賭けている。
  資産家としても、一人の人間としても。
  本当にこのままでいいのだろうか。
  カスミが言ったように、俺はシゲルから手を引き、やつを病気療養に専念させるべきなの
 ではないだろうか。憎き仇敵が不治の病にかかっているという事実が、いまだに自分の中で
 うまく消化できない。
  いずれにせよ、早く次の仕事を見つけなくてはならない状況に変わりはない。
  そろそろ散歩も切り上げどきかと腰を浮かしかけて、俺はとなりに座る釣り人の顔に見覚
 えがあることに思いいたった。
 「ん? あんたたしか……」
  気になって話しかけてみる。
  何日も手入れをサボっているような脂っぽい金髪に、顔の下半分を点々と覆う無精ひげ。
  やっぱりそうだ。間違いない。
 「あんた、メイド喫茶・涅槃の店長だよな?」
  一見世捨て人風のその男――加藤航平は、今にもショットガン自殺しそうな覇気のない顔
 でこくりとうなずいた。

 「カスミちゃんが辞めたのが運の尽きだったのさ」
  俺の奢りで入った喫茶店で、加藤はいきなりそう切り出した。
  よれよれのダニエル・ジョンストンのTシャツの前でアイスコーヒーをかきまぜ、皮肉っ
 ぽく口もとをゆがめる。
 「ブームが去って店の売り上げは急落。おまけにゆとり世代の新人はちょっと嫌なことがあ
 るとすぐに辞めちまう。最近じゃ平日は開店休業状態で、従業員の給料を払うのも一苦労だ
 よ」
 「それで平日の昼間に釣りなんかしてたんだな」
 「ほかにやることもないしね。拡声器を持ってお客さんを並ばせていたころが懐かしいよ」
  なにもかも手遅れなのさ、と言ってお手上げのポーズを取る加藤。借金もかさみ、涅槃の
 経営状態の悪化はもはやドラッガ―のマネジメントを読んでどうにかなるレベルではなくな
 っているらしい。中野の女神と呼ばれたカスミの存在は、それほど大きかったのだ。
 「葵ちゃんも寿退職しちゃったし、夜逃げするなら今のうちかな」
  冗談めいた口調ではあったが、ほうっておけば加藤は本当に夜逃げしそうに見えた。
  こうして会ったのもなにかの縁だ。できることならなんとかしてやりたい。
  しかし、起死回生のアイディアなど二人で頭をひねってもそう簡単に閃くものではない。
 「ちくしょう、せめて活きのいい新人が三人、いや二人でも入れば……」
  ところが加藤のこの一言がスイッチとなり、俺の頭上に黄色いランプが光った。
  あるではないか、起死回生の一手が。
  それも加藤の悩みだけではなく、俺の悩みもまとめて解決に導いてくれるアイディアが。
  俺は勢い勇んでテーブルに身を乗り出した。
 「おい加藤、まだ夜逃げするには早いぞ!」
 「は? なんだよいきなり」
 「またむかしみたいに店を繁盛させたいんだろ? 俺がとっておきの秘策を授けてやるよ」
  聞きたいかと訊ねると、加藤は素早く二度首を縦に振った。

  この加藤との出会いが、俺ののちの人生を大きく変えることになる。
  妙案は道端に落ちてなどいない。
  積み重ねてきた自分の歴史の上にあるのだ。


  季節は移り変わり、再び春。
  俺の職場には今日も大勢の客が詰めかけ、従業員たちは嬉しい悲鳴をあげている。
  今は昼下がりの来客ラッシュがようやく一段落ついたところだ。
  だが、休んでいる暇はない。
 「おいハルカ、ご主人様がお帰りだ。ぼさっとしてないでさっさと案内しろよ」
 「うるさいわね! 言われなくてもすぐ行くわよ!」
 「すぐ行きます、だろ?」
 「くっ……」
  テーブルのあと片づけを一時中断し、厨房にいる俺を不服そうに睨みつけて店の入り口へ
 と走るハルカ。この店に勤めて半年以上になるというのに、いっこうに上司に対する口のき 
 きかたが直らない女だ。一度真剣に減給を検討したほうがいいかもしれない。
 「お帰りなさいませ、ご主人――」
 「ずいぶんと派手な格好だな、白河くん」
  客の案内に出向いたハルカが、硬い表情で凍りつく。接客業にあるまじき態度だ。
  厨房から覗いてみると、案の定その客は俺もよく知る男だった。
  そろそろ来るころだと思っていた。
  店長の加藤に緊急事態だと告げて食器洗いを任せ、急いでハルカのもとに駆けつける。
 「いかがなさいましたか? お客様」
 「この店員さんが中に通してくれなくてね」
 「それはそれは失礼いたしました。あとでよく注意しておきますので」
  営業スマイルでハルカを脇へ押しやり、俺はおよそ三年ぶりにシゲルと対面した。
  心なしか、少しやつれたようだ。血色もよくない。落ち窪んだ眼窩は不眠症の現れだろ
 う。涼しい顔をしていても、やつの健康状態が悪化しているのは明らかだ。
  ほかの人間にはわからずとも、俺にはわかる。
  ――パーキンソン病は、じわじわと、だが確実にシゲルの身体を蝕んでいる。
  それには加熱する一方のマスコミによるバッシングも無関係ではないだろう。世間の冷や
 やかな視線がやつに与える心労は、想像するに難くない。
  あれって渡貫茂じゃないか? どうしてあんな有名人がここに? 店内の客たちが声をひ
 そめてこちらを注視する様子が、壁面に取りつけられたガラス窓に映っていた。
 「チーフ、もしかして問題発生ですか?」
  勘のいいヒカリが、俺の背中からひょっこりと顔を出す。彼女は今や、押しも押されぬこ
 の店のナンバーワンだ。
 「若い女性に囲まれて、なかなか楽しそうな職場じゃないか」
 「ああ。おかげさまで大繁盛だよ」
 「まさかこんなところに隠れていたとはね。してやられたよ」
 「あんたの情報網も、さすがにブロードウェイの中までは届かなかったみたいだな」
  シゲルはメガネのブリッジに手をかけて、さほど悔しくもなさそうにうっすらと笑った。
  半年まえ、俺はメイド喫茶・涅槃の経営難に喘いでいた加藤に、当時仕事を探していたハ
 ルカとヒカリを紹介した。ただし、俺を従業員として雇い、事務と経理を一任するという条
 件つきでだ。要するに、美女二人を餌に職を釣ったのだ。
  結果、もとがいいハルカと声優を兼業しているヒカリはたちまち人気者となり、涅槃の売
 り上げは急速にV字回復。中野に新たな女神が誕生したと評判が評判を呼び、この半年間、
 涅槃は毎月最高益を更新している。
  最近は店だけではなく、俺にもフリーペーパーやミニコミ誌からの取材の申し込みがあと
 を絶たない。つい先日も経営再建の手腕を買われ、ビッグ・イシューで特集を組まれたばか
 りだ。ニートから一躍ときの人へ、というわかりやすいサクセスストーリーは、大衆ウケが
 いいのだろう。
  まだビッグな男にはほど遠いが、着実に俺の名前は世間に広まりつつある。
 「経営のイロハは誰に教わった?」
 「答えてやる義理はないね」
 「……ふん、まぁいいだろう」
  俺はインタビューで同じ質問をされたとき、いつもこう答えるようにしている。
  経営の基礎も展開も、すべて兄のように慕っていたある人物≠ゥら教わったのだと。
  ――シゲル、あんたが俺に道を示してくれたんだ。
 「悪いが、このあとも取材が一件入っているんでね。冷やかしならとっとと帰ってくれ」
 「生意気な口を。名前が売れてテングにでもなったか?」
 「テングになったんじゃない。経営者になったんだよ」
  俺は必ず、この中野ブロードウェイから成り上がってみせる。
  復讐を完成させ、人生に意味を与えるために。
  ハルカとヒカリ――涅槃のツートップを両脇に従えて、俺はシゲルを挑発する。
 「あんたにこの快進撃が止められるかな?」
 
  表情には出さずとも、シゲルの闘争心に火がついたのがはっきりとわかった。
 「僕をあなどるなよ。威勢がいいのも今のうちだ。こんな店、すぐに潰してやる」
 「はっ、やれるもんならやってみな」
 「次に会うときが楽しみだ」
  肩越しに温度が感じられない眼光を走らせ、シゲルは涅槃をあとにした。
  ヒカリが業務用の袋に入った塩を撒き、「二度と帰ってくるな、ご主人様」と言って舌を
 出す。しばらく考えこむような顔でシゲルの背中を見つめていたハルカも、やがて気を取り
 直してテーブルのあと片づけを再開した。
  俺も厨房に戻ろうと入り口の扉を閉めかけたそのとき、店の外で何本もの鉄骨が崩れ落ち
 たような大きな物音がした。
  もしやと思って店を飛び出すと、やはりシゲルが廊下の先で倒れていた。とっさに近くの
 雑貨屋が軒先に出していたスチールラックに寄りかかったらしく、展示品がおもちゃ箱を引
 っくり返したように床に散乱している。
  病気が進行すると歩行が困難になる――医学書に書かれていたパーキンソン病の症状を思
 い出す。
  駆け寄ろうとする俺に、シゲルの口から鼓膜が震えるような怒号が飛んできた。
 「来るな、ただの立ちくらみだ!」
  そのシゲルらしからぬ荒々しさに気圧されて、俺は思わず足を止めた。
 「敵に情けをかけられる覚えはない。カスミになにを吹きこまれたか知らないが、くだらな
 い感情は捨てろ。僕を地獄に突き落とすと言ったのを忘れたのか!」
  シゲルはよろめきながらも自力で立ち上がり、メモ帳に連絡先を書いて女性店員に渡し
 た。損害賠償を支払う約束をして、彼女を店内に引っこませる。
  スーツについた埃を掃いネクタイを締め直したシゲルと、あらためて向かい合う。
 「いいか、僕に復讐したいのなら非情になれ。遠慮は無用だ。全力でかかってこい」
 「シゲル……」
 「そのうえで僕はきみに勝つ。勝って、永遠に泥水をすする暮らしをさせてやる」
 「なるほど、あんたらしいな」
  不治の病に命を削り取られている男を前にして、俺は不思議とほっとしていた。
  これで心おきなく戦える。
  シゲルがなぜそこまでこの復讐対決に固執するのか、他人には到底理解できないだろう。
  だが、俺にはわかる。

  復讐しかないんだ、俺たちには。

  そして一度復讐の味を知ってしまったら、ほかの生きかたは選べなくなる。
  持てる熱情のすべてを傾けて、自分だけの誇り高き勝利をもぎ取りたくなるのだ。
  少しでもシゲルの容体を気にしていた自分が馬鹿みたいに思えてきた。
  やつの言うとおり、憎悪と憎悪のぶつけ合いに、遠慮は無用だ。
 「お望みとあらばそうしてやるよ。あんたが病気だろうがマスコミの集中砲火を浴びよう
 が、俺は絶対にビッグな男になってやる」
 「そう来なくては面白くない。それでこそ叩き潰す甲斐があるというものだ」
 「そのかわり、あんたも全力でぶつかってこい。命を惜しんで手を抜いたら承知しねぇぞ」
 「言われずとも、もとよりそのつもりだ」
  シゲルが約束を違えれば、あのICレコーダーにものを言わせるまでだ。
  ――このゲームの親は俺だということを、ゆめゆめ忘れるな。
  俺の意志を確認して満足したのか、シゲルは小さく笑ったかと思うと、別れの言葉もなく
 背広をひるがえした。一歩一歩足もとをたしかめるように、慎重に廊下を進んでゆく。
  このとき、遠ざかる仇敵の背中を見つめながら、俺の頭にはあるアイディアが浮かんでい
 た。シゲルとの長き因縁に決着をつける、最良のアイディアが。
  復讐対決の勝敗がどうあれ、シゲルは残りの人生を闘病に費やすことになる。
  だが、健常者並みに生きられたとしても、病気を完全に克服するのは不可能だ。身体の内
 側にひそむ病魔を見て見ぬふりし、騙し騙し生きていくしかない。
  ならば、いっそこの手で……。
 「あんたにひとつ忠告しておくことがある」
 「なんだ、まだなにか用か」
  エスカレーターの手前で振り返ったシゲルに、拳銃を撃つ真似をしてみせる。

 「よく覚えておけ。俺の復讐は、甘いんだ」

  結婚式を襲撃したときに使い損ねた拳銃は、今も花田荘に眠っている。
  ――お楽しみは、最後の最後に取っておいてやるよ。
 「わけのわからないことを。まぁいい。覚えておいてやる」
  シゲルがエスカレーターの手すりをつかみ、ゆっくりと視界の底に沈んでゆく。
  ほどなくして、いつまでサボっているつもりだと俺を呼ぶ加藤の声が聞こえてきた。すぐ
 に戻ると返事をして、うしろ髪引かれつつ廊下を引き返す。
  シゲルはおそらく、ありとあらゆる手を尽くして涅槃を潰しに来るだろう。念入りに迎え
 撃つ準備をしなくてはならない。ここからが正念場だ。
  この世でもっとも甘美な感情が、俺の闘志を刺激する。
 「さぁ、面白くなってきやがった!」

  こうして俺は、今日もメイドたちに囲まれて、新たなるご主人様のお帰りを待つ。
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