round15『スーサイダル・ミステリー・ツアー』

  踏切がカンカンカンと警報機を鳴らし、おなじみのアナウンスが駅のホームに響き渡る。
  三番ホームを電車が通過いたします。危険ですので黄色い線の内側までお下がりくださ
 い。
  俺とヒカリは電車を待つ人の列の先頭に立って、黄色い線の外側に一歩踏み込む。
 「いいか、せーので飛び込むんだからな」
 「せーので飛び込めばいいのね」
  今になって膝ががくがくと震えだしたが、繋いだ手を強く握りしめると迷いは消えた。
  視界の隅がシャッターを切ったように小さく光り、鼓膜が破れそうなほどの警笛ととも
 に、オレンジ色のムカデが時速九十五キロで線路を走ってくる。
  タイミングは心得ている。市営体育館のプールで飛び込みの練習をした成果を、今こそ発
 揮するときだ。
  快速電車が停留所に侵入してきたのを見定めて、俺はうしろ足に力をこめる。
 「せーの!」
  と言って跳躍しかけた刹那、何者かによって強引に背後へと身体を引っ張られた。
  体勢を崩して尻もちをつく俺とヒカリの目の前で、快速電車が駅を通過してゆく。
  臀部をさすりながら首をうしろに回すと、紺色の制服が視界を覆った。
  俺たちの首根っこをつかんだまま、筋骨隆々とした中央線の駅員はにっこりと笑う。
 「職業柄、自殺志願者のお客様を見分けるすべには長けておりますので」
  周囲からおー、と賞賛の拍手があがる。不満を訴えたのは俺とヒカリだけだ。
 「ふざけんな! せっかく人が死のうとしてんのに、邪魔しやがって!」
 「そうよ! 私たちがこの日のためにどれだけ練習を重ねてきたと思ってんのよ!」
 「はいはい、事情は安全な場所でゆっくりとお聞きしますので」
  逆上して駄々っ子のように暴れる俺たちを、駅員はよっこらせと言って慣れた様子で駅舎
 へと引きずっていった。一週間におよぶ入念な下準備のもとで決行した飛び込み自殺は、抜
 け目ない駅員の活躍によって、あと一歩のところで阻止されてしまった。
  こうして俺たちのヴァージンスーサイドは未遂に終わった。

 「また一から計画練り直しだね」
  深夜、ベッドに横たわる俺にまたがって、裸のヒカリがそう言った。
  あのあと俺たちは駅舎で担当の職員にみっちり絞られ、再発防止のため警察に引き渡され
 そうになった。さいわい身分証を持っていなかったので適当な住所と名前を教えて急場をし
 のいだが、人生の終着駅に中央線の駅を指定するのはもうやめておいたほうがよさそうだ。
  夜が明けたら、また新たな死に場所を探さなくてはいけない。
 「本当に死ねるのかな、私たち」
  俺に馬乗りになったヒカリが、かんなで木を削るようにゆっくりと腰を動かしながら、意
 思確認ともひとりごとともつかない声を発した。
  不安がよぎるのも当然だ。みずから死を選ぶのは、無様に生き永らえるよりよっぽど難し
 い。すんなり腹をくくれたならば、飛び込み自殺の下準備に一週間もかかることはなかった
 だろう。
  死は、負け犬同然に生きてきた俺たちが越えなくてはならない、人生最後のハードルだ。
  その高さを考えるとうんざりするが、かといって引き返す道もない。
 「明日からまた頑張ればいいさ」
 「そうだよね。二人いっしょなら、きっと死ねるよね」
  ポジティブなのかネガティブなのかわからなくて、自分でも笑ってしまいそうだった。
  射精の瞬間が近づき頭がぼんやりするにつれ、やがて死への恐怖は薄らいでいった。


  中央線での自殺未遂から数日後、俺たちは玉川上水で二度目の自殺をこころみた。
  玉川上水といえば、自殺が趣味だった昭和初期の文豪が愛人とヒューマンロストしたこと
 で有名な上水道だが、その地形は俺たちが想像していたのとはかなり違っていた。取水施設
 に架けられた橋は夏休みの中学生が遊びで飛び込むくらいの高さしかなく、自殺志願者には
 少し物足りない土地構造だ。それなりに水位はあるのだが、意外と人通りが多いので身を投
 げても溺死するまえに助け出されるのがオチだろうと俺たちは判断した。
 「これじゃ死ねないよね」
 「しかたない、今日は観光でもして帰るか」
  結局その日は、多摩川近辺を二人で散歩しただけで終わってしまった。
  土地構造が問題なら断崖絶壁からダイブしてみてはどうかということで、さらに数日後、
 俺たちは電車を乗り継いで福井県は東尋坊へと足を向けた。
  三度目の正直とでも言うべきだろうか。実際に火サス御用達の崖の先端部に立って海面を
 覗きこむと、ここなら確実に死ねると思った。海面衝突で気を失い、荒い波にさらわれてむ
 きだしの岩肌に打ちつけられて、やがて海の藻屑と消える。そんな自分の姿がありありと想
 像できた。
  この高度なら、万が一身投げの現場を誰かに目撃されても救出は困難だろう。
  ついに生の苦しみから解放されるのだと思うと、感動のあまり涙が出た。
  しかしどうしたことか、ヒカリは崖の中央付近にしゃがみこみ、そこを動こうとしない。
  腹でも壊したのかと心配して近寄ってみると、彼女は蒼白い顔をして力なく笑った。
 「忘れてた……私、高所恐怖症なんだった」
  んなアホな。
  ヒカリは身寄りのない老婆のように俺の脚にすがりついて離れず、俺は途方に暮れてしま
 った。先端部まで連れていこうにも、彼女を抱え上げるには俺の腕はあまりにも細すぎる。
  俺たちはやむをえず東尋坊での心中を断念し、旅館で一泊して次なる自殺スポットを探す
 ことにした。
  相談の結果、今度は玉川上水と東尋坊での反省を活かし、首吊り自殺にチャレンジしよう
 というところで意見がまとまった。眼球が飛び出し汚物にまみれるグロテスクな死に様は推
 理小説でおなじみだが、楽に死ねるのはたしかだ。入念な下準備をする必要がなく、ロープ
 さえあればこと足りるのも魅力的だった。
  で、遠路はるばるやってきたのが、山梨県は青木ヶ原――富士の樹海だ。
  観光客が立ち入らない広大な森の奥地であれば、誰かに発見されるおそれはない。また、
 高さ太さともに申しぶんない木の枝がそこら中に突き出しているため、ロープを吊るす梁を
 探す手間もはぶけて一石二鳥だ。人知れずやすらかに息を引き取るには、富士の樹海はまさ
 にうってつけの場所だった。
  ロープと脚立を肩にかつぎ、なだらかな斜面を目的地もなく奥へ奥へと進んでゆく。
  緑のカーテンで空を覆う樹海の景観は美しく、俺はときおり足を止めては三百六十度に広
 がる絵画のような自然に目を奪われた。森林浴の名所というならまだしも、とてもここが全
 国各地から自殺志願者が集まる自殺の名所とは信じられなかった。
  三十分ほど歩いたところで、ヒカリがだしぬけにこんなことを言った。
 「あ、あのさ……殺人鬼とかって、出ないよね?」
  殺人鬼? と俺が問い返すと、彼女は俺の背中にひっついて心細そうに目を泳がせた。
 「むかしオカルト好きの友だちから聞いた話なんだけど、富士の樹海には殺人鬼が住んでる
 んだって。私たちみたいな自殺志願者や、道に迷って帰れなくなった観光客を殺して食べち
 ゃうの……」
 「まさか。都市伝説だろ」
  鼻で笑ってはみたものの、背筋は寒くなっていた。この世とお別れするつもりでここまで
 来たが、得体の知れないカニバリストの食料になるのはごめんだ。
  それからしばらく、俺たちの足取りは慎重になった。
  すぐ近くに殺人鬼がいるのではないかと思うと、美しいはずの樹海の景観が急におどろお
 どろしく感じられ、これまで目に入らなかったものが見えてきた。
  脱ぎ捨てられた作業着に、表紙が古ぼけた週刊誌、それからテントの残骸。樹海の奥地に
 は、草木に隠れて地面のあちこちに用途不明のごみが転がっている。それらは人生の最後に
 この場所を訪れた者たちの遺品なのかもしれないし、ひょっとしてひょっとすると、この森
 に住むという殺人鬼が不要になった所持品で縄張りにマーキングしているのかもしれない。
  気味が悪くなってきたのか、ヒカリはしきりに俺のそでを引っ張った。
 「ねぇ、やっぱり引き返さない? ここ絶対なんかいるって」
 「馬鹿言うなよ。さっきから言っているが、そんなのいるわけ――」
  ないと言おうとした矢先、俺たちの行く手にある木のかげからがさごそと物音がした。
  ヒカリと身を寄せ合い、息を殺して注意深く音の発信源を観察する。
  するとそこから現れたのは、全身をブルーのレインコートで覆い隠した人影だった。
  影の手には、鋭く光を反射する金属製の得物が握られている。
 「ぎゃああああああああああああああああああああ!!!!」
  俺たちは叫び声をあげ、正体不明のシルエットに背を向けて一目散に逃げ出した。
  一心不乱にもと来た道を引き返し、気がつくと俺たちは樹海の外に戻ってきていた。
 「じ、自殺はまた今度にしよ……」
  ぜいぜいとあえぎながらヒカリが出した提案に、俺は一も二もなく同意した。
  あとになって知ったことだが、富士の樹海ではマナーの悪い観光客や産業廃棄物を不法投
 棄する業者があとを絶たないため、定期的に地域のボランティアによる清掃活動がおこなわ
 れているらしい。
  清掃活動といえばブルーのレインコートに金属製のトングが定番のスタイルだが、俺たち
 が遭遇したシルエットが彼らだったのか、それとも殺人鬼だったのか、その点は定かではな
 い。


  その後も死ぬに死ねない日々が続いた。
  自殺を決意しては未遂に終わる。そんなことを繰り返しているうちに十月が過ぎ、いっこ
 うに人生の出口を見つけられないまま、俺は二十四歳になった。
  この天国に行くまでの猶予期間に、俺とヒカリは日夜セックスに明け暮れた。
  どうせ死ぬのなら、最後にいい思い出を残しておきたい。最初の一夜以来、俺たちはそん
 な名目で、いつ終わるともしれない思い出づくりを続けている。
  セックスの最中は嫌なこともすべて忘れられた。
  死への恐怖も、果たせなかった復讐も、愛した人がいたことさえも。
  なにもかも忘れて、精子の海をただよう微生物と化す。
  ヒカリもまたそれを望んでいた。快楽に身をゆだねる以外、俺たちには進退きわまった現
 実から目をそむける手段がなかった。
  だけどひとたび朝陽が昇れば、死ねずに迎えた今日≠ェ肩に重くのしかかる。
  十一月のある夜、やはり俺たちは自殺に失敗して、マンションで身体を重ねた。
  行為が終わって数時間後、俺は気持ちよさそうに眠っているヒカリをベッドに残して、シ
 ョットグラスを片手にベランダに出た。
  空がゆっくりと明るく染まってゆく。死を誓い合ってから二十数回目の夜明けだ。
  ――あと何回この景色を見れば、俺は死ねるのだろう。
  自作のカクテルをあおる俺のとなりには、ヒカリが育てている観葉植物の鉢植えがある。
  この鉢植えの底に、未使用の拳銃と六発の弾丸が眠っている。ヒカリの目を盗んで、こっ
 そり駅のコインロッカーから移し替えたものだ。
  土を掘り返せば、簡単に人の命を奪える道具がそこにある。
  死のうと思えば、俺はいつでも死ねる。なのに俺は、それがパンドラの箱であるかのごと
 く、鉢植えに触れようとしない。
  シゲルとカスミの結婚式を襲撃したあの日、俺は二人を殺して自決するつもりでいた。あ
 りあまる憎悪と甘美なる復讐心に脳髄を浸して、みずから命を絶つ決断にいささかのためら
 いもなかった。いつでも引き金を引けると思っていた。
  だが今の俺はどうだ。
  生に未練がないと言い切れるだろうか。
  ヒカリと身体を重ねれば重ねるほど、俺は未練がましくなっていくような気がした。


  例の悪夢を見たのは、練炭自殺に失敗した日の夜だった。
 「なんだ、先輩まだ生きてたんスか」
  クルーザーの甲板に膝を抱えて座る俺に、スネ夫の形をした氷の彫像が冷笑を浴びせる。
 「さっさと死ねば楽になれるのに。往生際が悪いったらないわね」
  カンナの彫像に小馬鹿にされても、反抗する気は起きなかった。
  この悪夢とも、もう長い付き合いだ。はじめのころは氷の彫像たちに言葉の刃を向けられ
 るたびにもがき苦しんでいた俺だが、最近ではすっかりそれを受け入れてしまっている。
  彼らの悪態に動じない図太い神経を身につけたというのならまだいいが、そうではない。
  反抗しても意味はないと悟っただけのことだ。
  氷の彫像たちの言葉に耳を貸そうと貸すまいと、どのみち俺は死ぬのだから。
 「だったらなぜおまえは生きている? 自殺するチャンスはいくらでもあったはずだぞ」
  タケシの彫像が俺の心を読んだかのような物言いをしたが、それも不思議ではない。
  彼らが投げかける一言一言は、俺の心の声。出口のない真っ暗な鍾乳洞も、凍てついた川
 に乗り上げて動けなくなったクルーザーも、俺の心そのものだからだ。
 「死のうとしても、なかなか死ねないんだよ」
  自嘲的に笑ってみせても、タケシの彫像は笑ってはくれなかった。
 「違うな。死ねないんじゃない、死なないんだ。おまえもあの女子高生も、完全には生への
 欲求を捨てきれていないんだよ。本当はわかっているんだろう? あの女子高生は高所恐怖
 症なんかじゃないってことくらい。線路に飛び込もうとしたときだって、おまえは近くに駅
 員がいることを知っていたはずだ。結局おまえたちは、決断を先延ばしにして死から逃げ回
 っているだけなんだよ」
  氷の世界でのタケシは、やけに断定的で手厳しかった。
  現実の世界でもこんなふうに腹を割って話をしていれば、ハリボテだった俺たちの友情
 も、ちょっとはマシなものになっていたのかもしれない。
 「まだ逃げ続けるつもりかい? そろそろ逃走資金も尽きてきたんじゃないのか?」
  そう言ったのは榊さんの彫像だった。人手不足を補うための手ごろな駒として、俺をブラ
 ック企業に誘った男。
  彼の指摘は正しかった。死に場所を求めて長々とさまよっているうちに、貯金はとうとう
 残り三万円まで減ってしまった。
  金がなくなれば行き倒れだ。俺とヒカリの逃避行は、もう限界に達しつつある。
  決断を後押ししてくれたのは、カンナの彫像が発した一言だった。
 「腹をくくるときが来たんじゃない? 最後くらい男らしく死んでみなさいよ」
  そうだな、と言って俺は重い腰を上げる。
  これ以上自殺を先延ばしにしても、未練が募るだけだ。
  逃げては身体をすり減らす日々の繰り返しで、俺もヒカリも疲れ果てている。
  堕落しきったロスタイムはそれなりに楽しかったが、それももう終わりにしよう。
  俺を取り囲む氷の彫像たちをぐるっと見渡して、口を曲げて笑ってみせた。
 「長いこと付き合わせてしまって悪かったな。明日死ぬよ」
  決意を汲み取ってくれたのか、いつもは口さがない裏切り者たちも、このときばかりはな
 ぜか俺をなじろうとはしなかった。
  ただただ、残念そうな顔をしていた。

  翌朝の目覚めは心地よいものだった。
  悪夢を見てうなされなかったのはこれがはじめてだ。そして最後になる。
  ヒカリが起きてくるまでの間に朝食の支度をした。トーストで済ませてもよかったのだ
 が、気分がよかったので存分に腕をふるった。
  料理が完成すると、未成年のヒカリはまだ酒の味を知らないだろうと思い、秘蔵のムー
 トン・ロートシルトを開けた。最後くらい、こんな贅沢もいいだろう。
  午前九時に目を覚ましたヒカリは食卓に並んだフルコースに目を丸くしていたが、すぐ
 にその意味を理解して粛々とテーブルについた。
 「これが俺たちの、人生最後の朝食になる」
  俺がグラスを掲げると、意志が固まっていることを示すように小さくうなずいて、彼女も
 それにならった。
  言葉にせずとも通じ合う。逃げ回るのに疲れたのは、俺も彼女も同じだ。
 「乾杯」
  カチンと音がして、人生最後の一日は静かに幕を開けた。


  十三階建てのビルの屋上に立ち、俺たちは手を繋いで下界を見下ろす。
  ビルの真下にはすでに人だかりができていた。帰宅途中のサラリーマンに、スーパーの買
 い物袋を持った主婦。中には携帯電話のカメラで俺たちを撮影している学生もいた。
  馬鹿な真似はよせ、と声をかけてくる者はいなかった。紐なしのバンジージャンプは、家
 に帰って食卓で披露する話題にはもってこいのショーだろう。大都市東京は、暇な連中で溢
 れ返っている。
  かまうものか。目にものを見せてやる。
  数分後におまえらが目撃するのは、踏み潰されてぺしゃんこになった二匹のカエル。
  ゲコリとも鳴かずに、ビルの谷間を絶叫がこだまする惨劇の場に変えてやる。
 「どっちが先に行く?」
 「じゃあ私が先攻で」
  俺は空いたほうの手で、事前にホームセンターで購入した拡声器をヒカリに譲った。
  拡声器のスイッチを入れると、ヒカリは強風になびく前髪を払いのけて、眼下にむらがる
 野次馬どもに向けて叫びはじめた。
 「みなさん、私は今から自殺します! みずからに罰を下すのです! 罪状は児童買春禁止
 法違反です!」
  小さな身体に秘めた想いを、ありのまま大声で曝け出すヒカリ。
  その声に誘われ、ビルの真下に雨後のタケノコのように続々と野次馬が集まってくる。
 「私は一年まえから、毎日のように年上の男性相手に援助交際をしていました。でもそれは
 しかたのないことでした。言っても理解してもらえないと思いますが、両親に勘当されて家
 を飛び出した私には、それしか生きていく方法がなかったんです。でももう限界です。だか
 ら死ぬのです!」
  両親のもとを離れて声優になりたいと願った少女の、魂の叫びだった。
  おかしなことに、俺たちの死を看取りに来たはずの野次馬たちから、ちらほらと拍手が起
 こっていた。これをなにかのデモンストレーションと勘違いしているのだろうか。
  思いの丈をすべてぶちまけると、ヒカリはすっきりしたと言って、俺に拡声器を渡した。
  今度は俺の番だ。
  最高の負け犬の遠吠えを聞かせてやる。
  大きく息を吸い込んで、腐りきった身体の内側からすべてを吐き出す。
 「俺は金持ちの一人息子としてこの世に生を受け、大学を卒業するまでなに不自由なく育て
 られてきた。はっきり言って、金のない連中を見下していたね。俺は汗水たらして働かなく
 ては食っていけない労働者階級とは根本的に違う人間なんだと、本気で信じていたんだ」
  交通事故を起こしてからの数々の出来事が、走馬灯のように思い出された。
  悲しいことや苦しいこと。
  今まで背負ってきた負債も、死んでしまえば帳消しだ。
 「ところがどうだ。親父は自己破産して行方をくらまし、残された俺は気づけばニートだ。
 働こうともしてみたが、無理だった。みんなが当たり前にやっていることが、俺にはどうし
 てもできないんだ。おまけに信頼していた男にも、人生でたった一人の愛した女にも裏切ら
 れる。働けない俺には、ちっぽけな幸せさえ手に入らない。だから死ぬんだ!」
  通行人たちがあとからあとからやってきて、野次馬の群れはどんどん大きくなってゆく。
  東京のど真ん中で大観衆に見守られて死ねるのなら、ラストシーンとしては悪くない。
  気持ちがたかぶり、もっとオーディエンスを煽ってやろうと思った。
  ――この世でもっとも情けない男の死に際を、しかとその目に焼きつけろ。
 「おまえらの中には、働かないのは甘えだと思う者もいるだろう。だが、思い出してみてく
 れ。運動会のリレーでは毎年最下位で、体育の成績は常に一。おまえらの学校にも、そんな
 やつらがいたはずだ。そいつらは、ただ運動が苦手だっただけじゃない。絶望的に運動が苦
 手だったんだ! 他人の倍以上の努力をしても、人並以下の結果しか出せない。俺たちニー
 トも、そいつらの仲間だ! 働くことが絶望的に苦手なんだ!」
 「そうだ!」
 「よく言った!」
  眼下から、拍手とともに俺に同調する野次馬の声が聞こえてきた。
  俺は十一月の寒空を引き裂かんばかりに吠える。
 「評論家や政治家気取りのコメディアンは、つべこべ言わずに働けと言う。まったく冗談じ
 ゃない! 働けたら、最初からニートになんかなってないんだよ!」
  声を張り上げれば張り上げるほど、野次馬たちは大きな拍手と声援を俺に送った。
  ……なにかがおかしい。上着のボタンをかけ違えたような違和感があった。
  目の前で人が死のうとしているのに、野次馬たちはそれを止めようとするどころか、手を
 叩いて賞賛している。この勇ましくも情けない告白に、共感を示している。
  やはりなにかがおかしい。
  これではまるで、俺たちが弱者の心の声を代弁する運動家みたいではないか。
  気勢を削がれて目をぱちくりさせていると、不意に背後から肩を叩かれた。
  びくりとした。興奮のあまり、足音にまったく気がつかなかった。
  振り返ると、そこに立っていたのは、ひょろりとした体格の三十代くらいの男性だった。
  警戒を解こうとするように、その男性はやや疲れた表情でやんわりと微笑んだ。
 「安心してくれ。自殺を止めに来たわけじゃない」
  このビルの屋上は、非常階段で地上と繋がっている。警察が止めに来たらすぐにでも飛び
 降りてやろうと思っていたが、男性にそれらしい気配はない。
  男性は俺のとなりに並び、拡声器を貸してくれと言った。
  わけもわからぬまま拡声器を手渡すと、彼はいきなり大声で叫びはじめた。

 「僕も今から、彼らとともに死ぬ!」

  仰天する俺とヒカリには目もくれず、男性は野次馬に向かって矢継ぎ早に叫んだ。
 「僕は数年まえに胃潰瘍になり、勤めていた会社に休職願いを出した。上司は嫌そうな顔を
 していたが、そうするしかなかった。僕への風当たりが強くなったのは、二週間の病気療養
 を経て職場に復帰してからだ。ズルして会社を休みやがって、おまえのせいで仕事が遅れて
 いるんだぞ。みんなそんな目で僕を見るんだ。それ以来僕は会社を辞め、今じゃ立派なニー 
 トさ! 働こうにも、三十歳になってからはまともな仕事の口がない。だから死ぬんだ!」
  野次馬たちは、この男性の叫びにも盛大な拍手と声援を送った。
  男性は俺にありがとうと言って、やけにすっきりした表情で拡声器のスイッチを切った。
  なにがどうなっているやら、さっぱり状況がつかめない。
  俺は困惑しながらも場を仕切りなおそうとしたが、そのとき、またしても屋上に闖入者が
 現れた。今度は渋谷あたりをほっつき歩いていそうな若い女性だ。
 「ちょっとそれ貸して!」
  彼女はずかずかとヒカリのとなりにやってきて、俺からおもむろに拡声器を奪い取った。
 「私もこの子たちといっしょに死ぬわ!」
  どよめく野次馬たちに、彼女は怒りをぶつけるかのごとく叫んだ。
 「私は三年まえまでOLとしてバリバリ働いていたわ。母親の介護のために、泣く泣く会社
 を辞めたの。高齢出産で私を産んで、女手ひとつで育ててくれた自慢の母親よ。だけど彼女
 が亡くなって介護から解放されたとき、私はもうな〜んにもやる気がなくなっちゃったの!
 自由の身になれたのが嬉しくて、仕事はおろか家事もほったらかしよ。で、今じゃキャバ嬢
 ってわけ。こんなんじゃ生きてる意味なんてないと思わない? だから死ぬの私は!」
  彼女もまた、野次馬たちに温かく受け入れられて拡声器のスイッチを切った。
  突然名乗り出てきた死出の旅の同行者たちに、俺もヒカリも戸惑っていた。
  引き止めなくてはいけない気がして、俺は二人の自殺志願者に訊ねた。
 「あの、本気で俺たちと心中するつもりなんですか?」
 「そうだけど? 二人よりも三人、三人よりも四人のほうが心強いでしょ?」
  なにか問題でも? とでも言いたげな顔の女性に、俺はなおも食い下がる。
 「しかしですね、見たところお二人ともまだ若いようだし、人生のやり直しなんていくらで
 もきくんじゃ……」
  するとその女性は、今にも屋上から転落しそうな勢いで腹を抱えて笑い、こう答えた。
 「馬鹿ね。いくらでもやり直しがきくのは、あなたたちも同じじゃない」
  予想もしていないせりふだった。
  心に風穴が開き、新鮮な風が流れ込んでくるのを感じた。
  その後も次々と屋上に人が集まってきて、野次馬たちに向けて自殺を宣言した。
  年齢も性別もばらばらな人間が一列に並び、めいめいの境遇をビルの谷間にぶちまけた。
  夢でも見ているのかと我が目を疑った。ビルの屋上は、いつの間にか自殺志願者たちの大
 演説会場になっていた。その真下は、ひっきりなしにやってくる野次馬たちで、熱狂の渦と
 化している。
  異様としか言い表しようのない光景の中で、俺は思った。
  なんだ。
  本当はみんな、働くのが嫌なんだ。

  結果から言うと、俺とヒカリはまたしても自殺に失敗した。
  俺たちがもたもたしている間に、騒ぎを聞きつけた警察がビルの谷間に巨大な網を敷い
 た。自殺志願者の集団を率いて非常階段から脱出しようとしたところで、あっさりつかまっ
 てしまった。これだけの騒ぎを起こしたのだ。補導されて当たり前だ。
  パトカーに連行される途中で、俺は警官を突き飛ばし、ヒカリの手を握って逃げ出した。
  自分でも、どうしてそんなことをしたのかよくわからない。人生を捨てたはずの人間が警
 察ごときから逃げようとするなんておかしな話だが、とにかく俺は走った。
  逃走は容易だった。野次馬たちが俺とヒカリの進む道を開け、追ってくる警官から守って
 くれたからだ。民衆はいつだって、ボニーとクライドのような逃走劇が大好物だ。
  ビルとビルに挟まれた隘路に逃げ込む直前まで、彼らは俺たちを応援してくれていた。
  ――逃げろと背中を押す声が、俺には「生きろ」と言っているように聞こえた。


  どうにか逃げおおせてヒカリのマンションに帰ったころには、外はもう真っ暗だった。
  今朝出たときには、二度と戻ってくることはないと思っていた場所だ。本来なら、俺たち
 はビルの真下でぺしゃんこになり、今ごろは天国で再開しているはずだった。ところが不測
 の事態の連続で、なぜか俺たちは住み慣れたこの部屋に戻ってきてしまった。
  まるで魔法にかけられたかのようだった。死を決意した今朝の自分と、今ここにいる自分
 が結びつかない。
 「とりあえず、お風呂沸かすね」
  ヒカリも状況の整理がつかないようだった。さっきから口数が極端に減っている。
  俺たちはテーブルについて風呂が沸くのを待ったが、会話の糸口がつかめず、しばらく別
 れ話をした直後のカップルのように黙り込んでいた。
  掛け時計の針がカチコチと音を立てて進み、生きている俺たちを明日へと運んでいく。
  わざと発泡酒に似せて作ったような味の缶ビールを半分ほど飲んだところで、ようやく考
 えがまとまりはじめた。
 「なぁ、ヒカリ」
 「うん?」
 「やっぱり死ぬの、やめにしないか」
  それについて、ヒカリはなにも答えなかった。
  しかし俺の中には、先ほどの騒ぎを通して、これまでとは違う感情が芽生えつつあった。
  まだはっきりとは形になっていないが、その感情は死を否定していた。
  俺たちと同じように、まともに働けない自分に嫌気がさして自殺したいと願う人々。
  彼らを応援する、いつも心のどこかでは働きたくないと思っている人々。
  あの屋上での出会いは、俺になにかを教えてくれようとしている。
  そんな気がしてならなかった。
  俺がそう言うと、ヒカリは急に険しい表情になった。
 「なによそれ……」
  憎々しげにつぶやいた次の瞬間には、彼女はテーブルを強く叩いて立ち上がっていた。
 「似たような思いをしている人たちを見て、今さら気が変わったっていうの? ふざけない
 でよ! 生きたって、このまま働けなかったらなにも変わらないじゃない! そんなの全然
 解決になってない!」
  我を失って激昂するヒカリに、どう返事をしていいのかわからなかった。
  彼女の指摘は正しい。働けないという根本的な問題は、まるで解決していない。
  だが、あと少しで突破口が開けるような予感がするのだ。
  その予感をうまく言葉にして説明できないのが歯がゆかった。
 「……もういい。生きたいなら勝手に生きなよ。私は自殺するから」
 「おい、どこに行くんだ」
 「お風呂!」
  ヒカリは完全にへそを曲げてしまい、叩きつけるようにドアを閉めて部屋を出ていった。
 その態度は、自殺する考えをあらためるつもりはないという意思表示にも見えた。
  やれやれだ。五ヶ月も共同生活をしていて、まさかこんな形で喧嘩になるとは。
  部屋に取り残された俺は、缶ビールの残りを飲み干してヒカリの境遇に思いを馳せた。
  彼女はまだ十七歳だ。両親と別れてからは、声優になる夢だけを支えにして、毎日孤独と
 戦っていたのだろう。身体を売らなければ養成学校のレッスン代はおろか、生活費すらまか
 なえない。そんな自分に嫌気がさして自殺したいと思うのも、無理はなかった。
  だとすれば、俺は彼女のためになにができるだろう。
  いっしょに死んでやることだろうか?
  そうではない。
  人生の先輩として、一人の親友として、俺は彼女に見せてやらなくてはならない。
  地べたに這いつくばっていた負け犬が、必死に社会にしがみつく姿を。
  弱く不器用でも、自分の力で生き抜く姿を。
  それまでぼんやりとしたものでしかなかった新しい感情が、像を結びはじめた手ごたえが
 あった。ヒカリが風呂から出てきたら、もう一度説得してみよう。
  そう思った直後に、はっと気がついた。
  ――風呂場からまったく物音が聴こえてこない。
  ヒカリが入浴したのは二十分近くまえだ。それなのに、俺はその間、彼女がお湯を浴びて
 いる音を一度も耳にしていない。
  悪い予感がした。部屋の壁は隣人のくしゃみの音さえ聴こえてくるほどに薄い。ヒカリが
 身体を洗っていれば、その音がしないはずがない。
  考えるよりも先に身体が動いた。椅子を倒して部屋を飛び出す。
 「ヒカリ、そこにいるのか!? 返事をしてくれ!」
  備えつけの流し台を背にして、廊下から浴室にいるはずのヒカリに呼びかける。
  しかし返事はない。何度扉を叩いても、返ってくるのは沈黙ばかりだった。
  悪い予感がどんどんふくらんでゆく。
  焦燥感に打ち勝てず、俺はとうとう浴室の扉を開け放った。
  途端に室内に充満していた湯気が、視界を覆い隠す。
  もうもうと湯気が立ちこめる浴室で、最初に知覚したのは巨大な鉄の塊のような臭いだ。
  湯気が室外に逃げると、次にバスタブに広がる鮮烈な赤が目に飛び込んできた。
 
  それはヒカリが流した血だった。
  彼女は身体の内側から抜き出した血の海に肩まで浸かり、眠るように意識を失っていた。
  心臓が暴れ出す。頭の中が真っ白になる。
  ――ヒカリは浴槽で自殺していた。


 「俺のせいだ……俺があんなことを言ったから……」
  深夜十時。俺は固く冷たい病院のベンチで頭を抱えた。
  目の前の集中治療室のドアの向こうでは、当直の医師が大わらわでヒカリの救命処置に追
 われている。
  二時間まえ、俺は浴室で倒れているヒカリを発見してすぐに救急車を呼んだ。彼女は急患
 としてこの緊急指定病院に運び込まれ、現在輸液と外傷の縫合手術を受けている。どうにか
 一命はとりとめたものの、病院に搬送された段階で彼女は全体の三分の一近い血液を失って
 おり、一時は出血多量で生死の境をさまよっていた。
  容体が安定している今も、彼女は意識を取り戻さない。医師の説明によれば、術後も運が
 悪ければ脳神経に障害が残る可能性もあるという。
  無力な俺には、無事を祈ることしかできない。
  いっしょに死のうと誓い合ったのに、俺はこんなにも彼女の身を案じている。
  ヒカリを助け出したとき、血まみれの浴槽には剃刀の刃が浮かんでいた。彼女は手首を切
 って自殺しようとしたのだ。
  傷が動脈まで達していなかったため急激な失血死こそまぬがれたが、俺が風呂場に駆けつ
 けたとき、すでに彼女は循環性ショックで意識を失っていた。あと一歩発見が遅ければ、今
 ごろは帰らぬ人となっていただろう。
  せっかく生きる道が見つかりかけていたのに、どうしてこんなことになってしまうんだ。
  気絶したヒカリを発見してからずっと、心が休まることのない状態が続いている。
  頭の中がぐちゃぐちゃだった。深夜の病院の静けさが心細さを増幅させ、床を伝う冷気が
 身体を芯まで震わせた。じっとしていると、廊下の先から暗闇が押し寄せてきて、俺をまる
 ごと飲み込んでしまいそうだった。
  そのとき、俺の祈りが通じたかのように、革靴がこつこつと床を叩く音が聴こえてきた。
  目をこすって立ち上がる。
 「娘が倒れたと報せてくれたのはきみか」
  暗闇の中から現れたのは、恰幅のいい初老の男性――ヒカリの父親だった。番号を調べて
 伊万里製菓の本社に電話をしたのは、どうやら正解だったようだ。
  一目で厳格な性格の持ち主だとわかった。深く刻まれたしわの間から俺を見据える目つき
 に、権謀術数を駆使して財を成した者特有の冷徹さがある。背広の上に羽織った毛皮のコー
 トと上品に整えられた白髪からは、人の上に立つ男の威厳が感じられた。
 「娘の容体はどうだ」
 「命に別状はないそうです。ただ、場合によっては後遺症が……」
  ヒカリの父親は俺の素性を聞こうとしなかった。
  俺のほうは言ってやりたいことが山ほどある。だが、ひとまずそれらはあと回しだ。
  今はヒカリが置かれている状況を説明するのが先決だ。
 「ヒカリはみずから命を絶とうとして病院に運ばれたんです。医師の話では、社会保険が適
 用されない。このままでは、彼女は助かっても高額な治療費を負担するはめになる」
 「それがどうした。自業自得だ」
  まるで感情がこもっていない言いかたに、はらわたが煮えくり返る思いだった。
  だが俺はぎゅっと唇を結んで怒りを押し殺す。
 「こんなこと頼める立場じゃないのは承知しています。あなたと彼女が親子の縁を切ってい
 ることも。ですが今、彼女を助けてやれるのはあなたしかいない」
  悔しいが、俺ではヒカリの力になれない。俺にはもう、金がない。
  この男に頭を下げるしかなかった。
 「お願いです。彼女を助けてやってください」
  すがるような思いだった。たとえ離れて暮らしていても、二人は血を分けた親子だ。
  そう信じたかった。
  しかし非情にも、ヒカリの父親は顔色ひとつ変えずに俺を突き放した。
 「断る。私たちはもう親子ではない。赤の他人に金を出してやる義理はない」
  俺はついかっとなって、目の前の男に食ってかかった。
 「赤の他人ってなんだよ!? あんたたち、実の親子なんだろ? 娘が借金を背負わされそ
 うになっているのに、どうして助けてやらないんだ! あんたに見放されてから、ヒカリが
 どれだけつらい思いをしてきたか、わかってんのかよ!」
  静かな病院の廊下に、俺の声が響き渡る。
  ヒカリの父親は、胸ぐらをつかまれても微動だにしなかった。
  岩肌を削り取ったかのような大きな手で俺の手を払いのけ、ネクタイの位置を直す。
 「家を飛び出していったのは娘のほうだ。それに私たちは実の親子ではない。妻が秘書との
 間に勝手につくった子どもを、十六年間面倒見てやっただけの話だ」
 「そんな……」
  手からするすると力が抜けていった。ヒカリはその事実を知っているのだろうか。
  俺は今まで、彼女は家業を継がせようとする両親と対立して家出したのだと思っていた。
 そんな複雑な事情があったなんて、一言も聞いていない。
  死にたい、と言ったときの彼女の表情が脳裏をかすめた。
 「言いたいことはそれだけか。ならば私はこれで失礼させてもらう」
  力なく立ち尽くす俺に背を向けて、ヒカリの父親はもと来た方向へと廊下を引き返した。
 「仕事の帰りにつまらん寄り道をしたな。また気が向いたら見舞いくらいはしよう」
  俺は引き止める言葉も見当たらぬまま、呆然と暗闇に消えるうしろ姿を見つめていた。
  信じられない出来事が次々と起こる。
  俺はもう、どうしていいのかわからなくなっていた。
 「くそっ!」
  苛立ちに任せて壁を殴りつけ、泣きつくように額をもたせかけた。
  考えるべきことが多すぎる。神経がたかぶって、脳がまともに機能しなくなっている。
  早急に手を打たなくてはいけないのは、ヒカリの治療費の問題だ。手術費用に継続的な診
 察料が加われば、低く見積もっても五十万円はかかる。生活費のことも考えると七十万円は
 欲しい。
  だが、そんな金がいったいどこにあるというのだ。俺もヒカリも、銀行の預金は片手で数
 えられるほどしか残っていない。
  ヒカリは人生に絶望している。借金を抱えることになれば、意識を取り戻してもすぐにま
 た自殺しようとするだろう。それだけはなんとしても阻止しなくてはならない。
  だが、どうやって?
  答えはわかりきっている。
  ――俺がなんとかするしかない。
 ヒカリの父親をあてにできない以上、彼女を助けてやれるのは俺だけだ。
  「できるのか、俺に……」
  今まで何度も働こうとして挫折した俺が、働ける場所なんてあるのか。
  俺を働かせてくれるやつなんているのか。
  不安になって、自分の小さな手を見つめる。節くれだらけだったヒカリの父親の手とは大
 きさがまるで違う。細くやわらかい、苦労を知らない手。労働を知らない手だ。
  その手を強く握りしめ、俺は集中治療室の前を離れた。
  とにかくじっとしていられなかった。迷うのはあとでかまわない。
  外の空気を吸うため、救命病棟を抜けて外来受付のある一階エントランスホールに出る。
  吹き抜けになっているエントランスホールは、この時間ともなるとまったく人気がなく、
 閉鎖されたショッピングセンターのように閑散としている。省エネのために照明は落とされ
 ているが、天井一面のガラス窓から月明かりが射し込み、広大な空間に神秘的な雰囲気を与
 えていた。
  俺はそこで思わぬ人物と出くわした。
  その男は肩手にブリーフケースを提げ、今しがた院内で夜勤の仕事を終えたばかりといっ
 た歩調で正面玄関に向かって歩いていた。
  ゆえに、外に出ようとしていた俺とやつの視線が交錯するのは必然だった。
 「シゲル……」
  俺から財産と愛する女を奪った男との、五ヶ月ぶりの対峙だった。
  どうやら俺たちは、よくよく再会する運命にあるらしい。エントランスホールの中心に立
 ち、目つきで懐を探り合う。
 「夏見の息子か。貴様がこんなところになんの用だ」
 「どうだっていいだろ、そんなこと。そっちこそ、ここになにをしに来た」
  商談だよ、とシゲルは答えた。こんな時間までご苦労なことだ。おおかたブリーフケース
 の中には契約書がぎっしり詰まっているのだろう。
  シゲルは以前とは違い、安易に俺を挑発しようとはしなかった。俺が服の下から拳銃を取
 り出さないかと警戒しているのかもしれない。獲物の隙をうかがう豹のように、慎重に俺の
 動向を探っていた。
  しばらく敵意がぶつかり合う沈黙が続いたあと、シゲルは俺から興味を失ったように携帯
 電話を取り出してそっぽを向いた。
 「話がないならここでお別れだ。家でカスミが待っているのでね」
  俺は忸怩たる思いでやつの背中を見送った。
  ここでやつに話すことはなにもない。
  そう思いかけていたとき、俺の脳を閃光が貫いた。
 「待ってくれ!」
  左右に割れた正面玄関のドアの前で、シゲルがぴたりと足を止める。
  身体の中でくすぶっている復讐心の残り火に蓋をして、俺は恥とプライドを捨てた。
 「あんたに頼みがある」
 「……聞こうか」
  シゲルが表情を変えずに振り返る。
  俺は屈辱に耐えきれず、地面に向かって話しかけた。
 「どうしても助けたいやつがいる。そいつを助けるために、金が必要なんだ」
  シゲルは手にした商品の価値を鑑定するようにしばし考え込み、言った。
 「いくらだ」
 「七十万。今すぐじゃなくてもいい。どんなことをしてでも、必ず金は返す」
 「話にならないな。拳銃を持って結婚式に押しかけてくるような男に、そんな大金が払える
 と思うか?」
 「あんたが俺の親父から騙し取った額に比べればはした金だ。俺にとっては大金でも、あん
 たにとっては小銭のはずだ。もう二度とあんたの邪魔はしない。だから、俺に力を……金を
 貸してくれ!」
  とてもそれが自分の口から出た言葉とは思えなかった。よりによってシゲルに頭を下げる
 なんて、今の俺はどうかしている。
  だが、もはや手段を選んでいる場合ではない。
  なんとしてでもヒカリを助ける。そのためなら、悪魔に魂を売ったって惜しくはない。
  俺は床に頭をこすりつけ、自尊心をかなぐり捨てて憎むべき敵に乞う。

 「頼む、俺を働かせてくれ!」

  生まれてはじめての土下座に、さして抵抗はなかった。負け犬にはお似合いの姿だろう。
  笑いたければ笑えばいい。今の俺には、おそれるものはなにもない。
  数秒間の沈黙ののち、シゲルはゆっくりと地べたに這いつくばる俺に近づいてきた。
 「どんなことでもすると言ったな」
  そしてサッカーボールを足の甲に乗せるように、俺のあごを革靴の先で持ち上げる。
 「舐めろ」
  見上げると、月明かりが逆光となって、やつの残酷な表情が黒く塗りつぶされていた。
 「この靴を舐めて忠誠を誓えば、貴様を七十万円で雇ってやる。それができなければこの話
 はなしだ。ふたつにひとつ、好きなほうを選べ」
  四角く尖った革靴を鼻先に突きつけられ、胸の内にわずかな迷いが生じる。
  だが、悠長なことは言っていられない。ヒカリを助けると決めたのだ。
  ――大切な人を守るために、俺は働く。
  そのためならプライドだってなんだって、喜んで捧げてやる。
  俺が舌でぺろぺろと革靴を舐めると、シゲルは満足したように薄笑いを浮かべた。
  やつの口調にいつもの余裕が戻る。
 「いいだろう。今日からきみは僕の奴隷だ。金額ぶん、しっかりと働いてくれたまえ」
 「……恩に着ます」
  こうして俺は、復讐を誓ったはずの相手に魂を売り飛ばした。
  俺一人の力ではどうしても手に入らない、たった七十万の金と引き換えに。


  十二月現在。
  俺は渡貫茂の自宅で、家政夫として働いている。
 「今日は政界の連中との会食で帰りが遅くなる。それまでに庭の手入れをしておけ」
 「かしこまりました、ご主人様」
  朝、シートを敷けば露店が開けそうな幅の広い玄関で、俺はシゲルに深々と頭を下げる。
  シゲルはそんな俺を蔑むようにふんと鼻で笑い、俺のとなりに立つカスミの額に口づけを
 した。そしてこれみよがしに肩を抱き寄せて彼女に耳打ちする。
 「僕が帰ってくるまで、この男を好きに使うといい。こいつは我が家の奴隷だからな」
 「はい、そうさせてもらいます」
  カスミはにっこりと笑って、俺とともにシゲルを職場に送り出す。
  玄関の扉が閉まり二人きりになると、彼女は無邪気に俺に微笑みかけた。
 「さて、今日はどんな命令を聞いてもらいましょうかねぇ」
  俺はかつてメイドとしてこき使い、誰よりも愛していた女に一礼する。
 「なんなりとお申しつけください、奥様」
  屈辱だとは思わなかった。
  なぜなら俺たちは、主従の関係。
  ご主人様と召し使い。マスター&サーヴァントだからだ。
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