round14『野良犬にさえなれない』

                         第三部

  俺の一日は女子高生に揺り起こされてはじまる。
 「起きてサトシ、もう午後六時だよ。出勤時間だから私そろそろ行くね。ご飯は用意してあ
 げられなかったけど、飢え死にしないでね」
  布団から這い出る元気のない俺は、適当に返事をしてそのうしろ姿を見送る。じゅうぶん
 睡眠はとれていたが、夜通しちびちびと酒を飲んでいたせいか、二日酔い特有の気だるさと
 偏頭痛があった。というわけで、二度寝。
  ようやく体調が回復したのが午後八時。社会人ならばぶつくさ言いながら時間外労働に従
 事している時間帯である。
  たたんだ掛け布団を部屋の隅に押しやり、冷蔵庫にあった適当な具材を寄せ集めてナシゴ
 レンを作った。同居人のヒカリが食事に気をつかわない性格のため、料理を含めた家事全般
 はもっぱら俺の仕事になっている。包丁の握り方から勉強し、今ではちょっとした料理なら
 お手のものだ。
  完成したナシゴレンは我ながらなかなかの出来映えだったが、アルコールに焼かれて舌の
 感覚が麻痺しているのか、実食しても特にうまいともまずいとも感じなかった。食後酒には
 ウイスキーのオン・ザ・ロックを飲んだ。
  食欲が満たされると、あとはもうなにもすることがなかった。最近は性欲に踊らされるこ
 ともなくなり、胃腸を痛めつけることだけが習慣化している。グラス片手に、ひたすらギコ
 ナビの新着レス表示をクリックしたり、暇つぶしに「十七歳貧乳jkと暮らしてるけどなに
 か質問ある?」系のスレッドを建てたりして時間を浪費した。ちなみにスレは証拠画像をう
 pすると三時間ほどで千レスを突破した。
  気分転換にテレビのチャンネルを回してみると、見覚えのある顔が映った。
 「六月に一般の女性と電撃結婚された渡貫社長ですが、最近は来年の参院選に向けて政界進
 出の噂も飛び交っています。ずばり、その胸中は?」
 「確かにそのような打診は受けましたが、今は日本全体の経済が弱っている時期ですから。
 まずは一企業人としての務めをきちんと果たし、出馬に関してはその上であらためて検討し
 たいと思っています。それに、当分は新婚生活をゆっくりと楽しみたいですしね」
 「なるほど、今は雌伏のときというわけですね!」
  胸糞悪い気分になり、すぐにテレビの電源を切った。
  そんなことをしているうちに、ヒカリがバイトを終えて帰宅した。時刻は午後十一時半を
 回ったところだ。
 むきだしの細い肩にエコバッグを提げたヒカリが、狭い内玄関から微笑みかけてくる。
 「ただいま。なにかいいお仕事は見つかりそう?」
  正直に首を横に振る。彼女がかき集めてくれた求人情報誌には触れてすらいない。
 「ごめんヒカリ。せっかく面倒見てもらってるのに、やっぱり俺、働けそうにないよ」
  冗談でごまかしたり虚勢を張ったりする気にもなれず、弱々しく苦笑する。
  心を隅から隅まで探しても、労働意欲はもとより、生きる理由さえ見当たらない。
  復讐が未完成のまま終わりを迎えた六月のあの日から、俺には前進も後退もない。
  誰もいない幽霊船で、孤独な死を待つ漂流者。
  ヒカリは沈痛な面持ちで下を向き、言いにくそうに床に視線をさまよわせた。
 「あのねサトシ……どうにか助けてあげたいけど、私はフリーターだから、そんな経済的な
 余裕はないんだ。それに今は大事な時期だから、自分のことで手いっぱいなの」
 「安心してくれ。これ以上きみに迷惑をかけるつもりはないから」
 「貯金が残ってるうちはいいけど、この調子でお酒ばっかり飲んでたら、すぐになくなっち
 ゃうよ。お金が底を突いたらどうするの? 働かないと、生きていけないよ……」
  じゃあ死のうかなと自嘲気味に笑ってみせると、彼女はそれ以上なにも言わなかった。
  こうして今日も一日が過ぎていく。
  どこまでも非生産的に、余生を送る老人さながらに酒に溺れる日々。
  一銭の稼ぎもないまま、ヒカリとの共同生活は三ヶ月目に突入しようとしていた。


  さかのぼること二ヶ月まえ。
  吉祥寺のケロロ軍曹の看板の下で、俺ははじめてヒカリと顔を合わせた。
 「しつこいようだけどさ、本当にきみがあのhikashuなのか?」
 「やだなぁ、さっきからそう言ってるじゃないですか」
  緑の木々が立ち並ぶ井の頭通りを歩く道中、俺たちは何度も同じ問答を繰り返した。
  再三再四確認をしても、長年積み重ねたhikashuのイメージととなりを歩く小柄な少女が
 結びつかなかった。言葉には確かにhikashuの面影があるものの、実際の容姿はネット上の
 アバターのそれとはおよそかけ離れている。差し出された事実をすんなりと受け入れてコペ
 ルニクス的転換を実行するには、俺の頭は凝り固まり過ぎていた。
  昼食がてら入った喫茶店で、彼女はこのように事情を説明した。
 「以前、ネットで知り合った男性にしつこくつきまとわれたことがあるんです。それ以来、
 オンラインでは性別を隠すようにしてるの。騙すような形になってしまってごめんなさい」
  その説明は納得するに足るものであったが、度重なる裏切りによって懐疑にとらわれた俺
 の思考回路はしぶとかった。記憶の底から動かぬ証拠を引っ張り出してきて、地球は回って
 いないと悪あがきをする。
 「でも待てよ……? 確か俺たち、何回かスカイプで喋ったことがあるよな。そのとき聞い
 たhikashuの声は、女の声じゃなかったぞ」
 「ああ、あのときはえっと」
  この声だったかな、と彼女は言った。聞き覚えのある、変声期を終えたばかりの聖歌隊員
 の少年のような声色で。
  開いた口が塞がらない俺の前で、彼女は気恥かしそうに頬を赤らめていた。
 「子どものころから声優になるのが夢なんです、私」
  驚異的な声質の変化を目の当たりにして、ようやく得心がいった。
  この美しい小柄な少女こそ、俺のたった一人の親友――hikashu本人なのだと。
  疑惑が晴れると、俺たちはあっという間に打ち解けた。
  昼食を食べたあとは、昼下がりの井の頭公園を散歩しながら身の上話に花を咲かせた。
  オフラインでは初対面であるにも関わらず、ヒカリはプライベートな話題も包み隠さず打
 ち明けてくれた。高校には一応籍を置いているもののほとんど通っておらず、現在はアルバ
 イトをしながら麻布のマンションで一人暮らしをしていること。尊敬する声優は平野綾で、
 声優の養成学校には週に二日通っていること(そういえば胸のサイズもどことなくアヤスタ
 イルに似ているようだったが、そのことについては黙っておいた)。
  彼女の父親は佐賀県の名士の家系で、都内で製菓会社を営んでのだそうだ。また、母親は
 オーストラリアの出身で、一風変わったミドルネームは現地の学校に通っていた時期に授け
 られたものらしい。
  早い話が、彼女はハーフの帰国子女というわけだ。
 「でもね、両親とはあんまりうまくいってないの。私、勘当されちゃってるから」
  茶葉の色に染まった湖をのぞむブリッジで、ヒカリは一瞬だけ寂しそうな表情を見せた。
  俺たちは券売機で六百円を支払って、二人乗りのボートで湖に出た。
  力仕事は男の領分ということで俺がオールをあやつる係を受け持ったのだが、ボートを漕
 ぐ作業は存外に骨が折れた。ペダル式のスワンボートがすいすいと近くを横切るたびに、見
 栄を張らずにあっちにしておけばよかったと後悔が押し寄せた。
 「知ってる? 井の頭公園でボートに乗ったカップルは結ばれないっていう言い伝えがある
 の。公園に祀られてる神様が嫉妬して、二人の仲を裂こうとするんだって」
 「へぇ、そうなのか。詳しいんだな」
 「日本に帰ってきたばかりのころに、いろいろ勉強したからね」
  額に汗してボートを漕ぐ俺の正面で、ヒカリは気持ちよさそうに湖を縁取る木々を眺めて
 いた。そよ風に吹かれて、金髪のツインテールがふんわりと揺れる。前日に玉砕覚悟で結婚
 式を襲撃したことも忘れてしまいそうな、のどかな光景だった。
 「ねぇ、サトシには誰か好きな人はいるの?」
  突飛な質問にどう返事をしたものかと迷ったが、結局苦笑いすることしかできなかった。
 「彼女は昨日、ほかの男と結婚してしまった。きっともう取り戻せない」
 「そっか、そうだったね……ごめん」
 「いいんだ。これから別の誰かを好きになることも、多分ないと思う」
  それは本心から出た言葉だった。
  シゲルにカスミを奪い去られてからの俺は、まるで心がまっぷたつに割れてしまったかの
 ようだった。傷口からとめどなく沸き出してくる喪失感が、常に全身を満たしている。

  俺はもう、カスミ以外の女性を愛することはない。

  俺の中で彼女の存在は、いつの間にかそれほどまでに大きくなっていた。
  ヒカリは失言に気づいて急速にしゅんとなってしまい、俺もまたどんな顔をしていいのか
 わからなかった。暖かな日射しに祝福された湖の中心にあって、俺たちの頭上だけ暗い雲に
 覆われているみたいだった。
  ボートを降りてからも気まずい雰囲気は続いた。木陰のベンチで読書に勤しむ老紳士や縄
 跳びの練習をする子どもたちを横目に、俺たちは無言で園内を歩いていた。
 「ねぇサトシ。行くところがないんだったら、しばらくウチに泊まれば?」
  先ほどの失言を帳消しにするためか、ヒカリはなんの脈絡もなくそんな提案をしてきた。
 「行く場所がなくて困ってるんでしょ? 私は気ままな一人暮らしだから、食費と家賃さえ
 入れてくれればいつまででもいてくれていいから」
  それはいささか唐突ではあったが、ネットカフェ難民の俺にはありがたい申し出だった。
  とはいえ、乗るかどうかは別の話だ。俺たちがいっしょに暮らすのには、現実的にはさま
 ざまな問題がある。結婚式を襲撃したことで、俺は銃刀法違反の容疑で指名手配される可能
 性が高い。俺をかくまえば、ヒカリまで共犯になってしまう。彼女を事件に巻き込みたくな
 い。それに第一、俺たちは男と女だ。俺には勃起障害という防波堤があるものの、なにかの
 拍子にそれが崩れたらことだ。
  だから俺は、彼女の申し出を断るつもりでいた。
 「いくらなんでも、初対面の相手にそんなこと頼めるわけないだろう」
 「よそよそしいこと言わないでよ。オンラインで苦楽をともにしてきた仲じゃない」
 「だが……本当にいいのか?」
 「いいのいいの。ちょうど私も、退屈な一人暮らしに飽き飽きしてたんだ」
  なおも腕組をして返答をしぶる俺に、彼女は人差し指を立ててダメ押しをしてきた。
 「じゃあこうしようよ。とりあえず一週間だけ。仕事が見つかったら、好きなときに出てい
 ってくれていいからさ。それならいいでしょ?」
  澄んだ瞳の少女に有能なセールスレディのような口調で詰め寄られ、俺は悩み抜いたすえ
 に申し出を受けた。彼女の強引な態度はやや気がかりではあったが、潜伏場所を探さなくて
 はならない状況に変わりはなかったのだ。
  こうして俺は、半分押し切られるような形でヒカリと二人で暮らすことになった。
  彼女に迷惑をかける気はなかった。俺の身に危険が迫れば、すぐにでも彼女を置いて部屋
 を飛び出すつもりでいた。
  まさかそのまま二ヶ月もずるずると共同生活が続こうとは、思ってもみなかった。


 「しかしまぁ、メイドさんの次は現役女子高生と同居とはね。捨てる女神あれば拾う女神あ
 り、とでもいうのかな。うらやましいかぎりだよ、チクショウ」
  俺の近況報告を聞いた大木戸さんは、グラスの水を切りながら哀愁たっぷりにそう言っ
 た。独身で四十路手前ともなると、年中人肌が恋しく感じられるのだろう。
 「とにかく、元気そうでなによりだ。その髪型を見たときは、てっきり失恋でもしたのかと
 思ったけどね」
 「過渡期なんだよ。大木戸さんと違って、俺はまだ毛が生え変わるのが早いから」
 「サトシくん、あんまり減らず口を叩くと毒盛るよ」
  八月某日。ヒカリが不在の合間に、俺はひさしぶりに新宿のバー・マサラを訪れていた。
  こうして堂々と外出できるのは、俺がまだ指名手配を受けていない証拠だ。
  結婚式の襲撃からすでに二ヶ月以上が経過しているが、事件はまだ明るみに出ていない。
 警察が身元の割れている犯罪者を野放しにしておくとは思えないので、おそらくシゲルが目
 撃者たちに緘口令を敷いたのだろう。どういう風の吹きまわしかは知らないが、やつは当面
 この馬鹿げた復讐対決にチェックをかけるつもりはないらしい。駅のコインロッカーに隠し
 た拳銃も、発見されることなく眠ったままだ。
  不ぞろいではあるが、髪型もじょじょにモヒカンからもとの状態に戻りつつある。
  回天に搭乗する特攻隊員の覚悟で挑んだ襲撃から、もうそれほどの月日が流れていた。
  愛する人を失い、働く気力もない。
  復讐が未完成のまま終わってからというもの、俺は死んだように生きている。
 「ところでサトシくん。あの探偵の女の子は、最近どうしているのかな?」
  物思いに耽っていると、大木戸さんが咳払いをしつつそんなことを訊ねてきた。
  目を丸くした俺に、カウンター越しにちらちらと含みありげな視線が送られてくる。
 「大木戸さん、あんたまさか……」
 「いやぁ、店の経営も順調に軌道に乗っていることだし、そろそろ所帯を持つのも悪くない
 かなと思ってね。都会で働く男には、止まり木が必要だろう? 別にお見合いに失敗したと
 か焦りが出てきたとか、全然そんなんじゃないから。いや本当に」
 「やめといたほうがいいって。あいつと付き合ったら絶対苦労するよ」
  そこをなんとか、と言って手を合わせる大木戸さんを尻目に、俺は浪子のことを考えた。
  夜逃げ同然に事務所を引き払ったあいつは、今ごろどこでどうしているのだろう。書き置
 きの手紙にはラスベガスで一攫千金を狙うとかなんとか書いてあったが、子どもがそのまま
 大人になったようなあの女に、そんな才覚があるとは思えない。小銭を稼いでハリウッドス
 ターの尻を追いかけまわすのがせいぜいだろう。
  仲間だと思っていた女は行方をくらまし、愛した女には裏切られる。こうなると、ヒカリ
 が俺を居候させるのにもなにか裏があるのではないかと思えてくる。
  だとしても、それがどうしたというのだ。
  働く意思も才能もない以上、貯金が底をつけばどのみち俺はのたれ死ぬ。
  夢も希望も、もうとっくに捨ててしまった。
 「浪子のことは考えとくよ。それよりテキーラをもう一杯。ストレートで」
  俺が注文を催促すると、大木戸さんは見かねた様子で短く息をついた。
 「おいおい、もう十杯目だぞ。手持ちはちゃんと残ってるんだろうね?」
 「心配ないよ。ほかに金の使い道もないんだ」
 「それはいいけど、身体壊してもおじさん知らないからな」
  ショットグラスにテキーラをそそぐ大木戸さんを注視しながら、それもいいかもしれない
 なと思った。身体を壊して死んでしまえば、楽になれるかもしれない。
  酒に溺れて死ねるのなら、それはそれで味のある最期だ。
  炎のようなアルコールで舌を焼きながら、ふと思った。
  ――最近俺は、死ぬことばかり考えている。

  しこたま酒を飲んだせいか、その夜俺は悪夢にうなされた。
  無明の鍾乳洞と、スケートリンクのように氷が張った川に乗り上げたクルーザー。俺はそ
 の甲板に立ち、無数の氷の彫像に四方を囲まれている。
  氷の彫像はどれも見覚えのある姿形をしている。タケシにカンナにスネ夫、大学の卒業記
 念パーティに出席した同級生たち。俺を裏切った者たち。
  出口のない氷の牢獄で、彼らは口々にささやく。
  働くことすらままならないおまえには、誰かを愛する権利も、愛される権利もない。
  カスミがおまえから離れていくのは、社会のせいでも、ましてやシゲルのせいでもない。
  おまえ自身のせいだ。
  ――働くことができないかぎり、おまえの望むものはなにひとつ手に入らない。
  俺は両耳を塞ぎ大声で喚き散らして、呪詛にも似た言葉の数々から自分を守ろうとする。
  それでも氷の彫像たちは、俺が現実から目を背けることを許さない。
  やつらはアイスピックのように研ぎ澄まされた言葉を、俺の心に突き立てる。
  かつて俺の恋人だったカンナの彫像が、俺を見下ろして冷笑する。
 「どうせこんな生活長続きしないんだからさ。働けないなら、いっそのこと」
  死んじゃえば?

  俺は悲鳴をあげて掛け布団を身体から剥ぎ取った。
  割れそうな頭を抱えて水玉模様のカーペットの上をのたうちまわり、肘や肩をテーブルの
 角にしたたかに打ちつける。不規則にしか息を継げず、脱水症状にでも見舞われたかのよう
 に全身から汗が噴き出していた。
 「しっかりしてサトシ! ここは夢の中じゃない、現実よ!」
  おずおずと声がしたほうを振り向くと、ヒカリが心配そうに俺の背中をさすっていた。
  びっしょりと汗に濡れたシャツの上から、小さな手のひらの感触が伝わってくる。
  悪夢は終わったのだ。
  ヒカリが冷蔵庫から取ってきたコントレックスでのどの渇きを癒すと、ようやく本来の落
 ち着きを取り戻すことができた。
 「ごめん、こんな夜中に起こしてしまって……」
 「気にしないで。また例の悪夢を見たの? すごくうなされてた」
  空になったペットボトルを床に置いて、小さくうなずき返す。
  三月に花田荘ではじめて見て以来、俺はしばしばあの悪夢に悩まされている。
  氷の彫像たちが口にするせりふはその都度違うが、夢の結末は毎回同じだ。俺がやつらの
 精神攻撃に耐えきれなくなると、テレビのコンセントを抜いたみたいにたちまち現実に引き
 戻される。悪夢にハッピーエンドが訪れることはない。
  あの悪夢が俺の心象風景だというのなら、俺の心は出口のない暗闇だ。
  氷の世界にひとり閉じ込められて、俺はどこにも行けない。
 「かわいそうなサトシ……」
  背中から枯れ枝のように細いヒカリの腕が伸びてきて、俺を包みこむ。
  彼女の指は俺の腹のあたりを這い、ゆっくりとシャツを脱がせようとする。
  俺は愛情とも同情ともつかない甘い吐息を首筋に感じながら、やめてくれと言った。


  翌日はヒカリの部屋から一歩も出ずに過ごした。
  大木戸さんの見よう見真似でカクテルを作っては飲み、いくつかの酒瓶を空にした。国外
 逃亡した親父が今の俺を見たら、息子が立派な酒好きになったと言って喜んだに違いない。
  酒をあおりながらヒカリの帰りを待っていると、昨晩の悪夢がしきりに思い出された。
  まどろんだ意識の中で、俺は考える。氷の彫像たちの指摘は正しいと。
  働くことができないかぎり、望むものはなにひとつ手に入らないのだとやつらは言った。
 それは小学生でもわかる簡単な理屈だ。資本主義社会においては、貨幣と交換することでし
 か商品は得られない。そして貨幣は、労働と交換することでしか得られない。
  愛もまた、それに同じ。たとえ無償の愛なるものが実在したとしても、そいつにだって維
 持費はかかるだろう。俺のようなゴミのために維持費を支払う人間はいない。俺には誰かを
 愛する権利も、愛される権利もない。まったくもって、やつらの言うとおりだ。
  世の中には、金では買えないものもたくさんある。
  だが、金がなくても買えるものはどこにもない。
  現時点で銀行の預金残高は二十万円と少し。このまま収入が得られなければ、いずれは地
 位や名誉や愛はおろか、寝床も食料も確保できない日がやってくるだろう。
  こうして酒を飲んでいる今も、俺は着実に破滅へと向かっている。
  にも関わらず、働こうという気にはなれなかった。働ける気がしなかった。
 「いっそのこと死んじゃえば、か……」
  それもまた、やつらの言うとおりかもしれない。


  十月のある日、俺はふと思い立ってヒカリを尾行することにした。
  ちょうど一年まえ、声優になりたい一心で実家を飛び出したヒカリは、不動産屋を営む親
 戚の紹介でこの自由が丘の街にやってきた。彼女はあまり家庭の事情を話したがらなかった
 し、俺も特に詮索はしなかったが、どうやら両親とは絶縁状態にあるらしく、生活資金の援
 助は望むべくもないという。
  そうなると、一人暮らしをする上で必要な資金は、当然自分の手で工面しなくてはならな
 い。そのような経緯があり、彼女は声優の養成学校でレッスンを受ける週末をのぞけば、ほ
 とんど毎晩アルバイトに精を出している。
 毎日夕刻に出勤して夜中に帰宅する彼女だが、どんな仕事をしているのかと訊ねると、な
 ぜかいつも口をつぐんでしまう。勤務時間が多少気がかりではあったが、彼女がちゃんとし
 た接客業だと言い張るので、ここでもそれ以上は詮索しなかった。
  とはいえ、女子高生が毎晩日付が変わろうか変わるまいかという時間まで外を出歩くの
 は、やはり褒められたことではない。警察官に補導されることだってあるかもしれないし、
 あるいはもっと危険な目に遭うかもしれない。もし彼女がアルバイトの勤務を終えても街を 
 ぶらついているようなら、それとなく注意してやろう――それくらいの軽い気持ちで、俺は
 彼女のあとを尾けてみることにした。
  午後六時。ヒカリがいつものように俺を起こしてマンションを出ていく。
  俺は光の速さで野球帽を目深に被り、サングラスと新聞紙で私立探偵ルックに変身完了。
  時間と距離を置いて、尾行を開始する。
  ヒカリは商売道具のようなものはいっさい携帯せず、買い物用のエコバッグのみを肩から
 提げて、十歩ごとに居酒屋の看板が目につく坂道を駅に向かって歩いた。
  一年まえにも、こんなふうに尾行をしたことがある。そのときはメイド喫茶で働くカスミ
 の姿に勇気づけられたものだが、まさかヒカリまでメイド喫茶で働いているということはあ
 るまい。彼女がどんな仕事をしているのか、授業参観に出席する父親のような好奇心が俺の
 背中を押していた。
  彼女は駅に着くと慣れた手つきで改札口にICカードをかざし、大井町線のホームに消え
 ていった。俺も大急ぎで適当な金額の切符を購入して、電車を待つ人の列に紛れ込む。
  電車を乗り継いでたどり着いた先は、繁華街とビジネス街、二つの顔を持つ街、五反田。
  ヒカリは山脈にできた巨大なクレーターのようなロータリーを素通りして、街を一直線に
 貫く桜田通りを南下していった。
  彼女がようやく長い歩みを止めたのは、目黒川をまたぐ橋の上だった。
 「こんな街のど真ん中で、いったいなにをはじめようっていうんだ……?」
  日雇いで交通量調査のバイトでもしているのかと思ったが、ヒカリはそんな気配はおくび
 にも出さない。橋のへりに背中をあずけて、計数機の代わりに携帯電話をいじっている。
  十分ほどヒカリに動きはなかったが、やがて通行人の一人が足を止めて彼女に声をかけ
 た。薄毛と腹のたるみが目立つ、どこにでもいる中年のサラリーマンだ。
  男性とヒカリは軽く会釈を交わすと、並んで繁華街へと移動しはじめた。
  腕を組んで親しげに歩く二人のうしろ姿は、見ようによっては仲のいい親子に見えなくも
 なかったが、ヒカリは両親とは不仲のはずだ。怪しくなる雲行きを肌で感じつつ、俺は会社
 帰りのサラリーマンでできた雑踏の中、尾行を続けた。
  山手線の高架を抜けた二人は、東五反田のお好み焼屋で夕食をともにした。
  俺は偶然通りかかった客を装ってカウンターに陣取り、二人の会話に聞き耳を立てた。
 「おじさんは普段、どんなお仕事をしているの?」
 「ゲートキーパーと言ってね。ネット上で自社製品への風評被害を未然に防ぐお仕事だよ」
 「へぇ、なんだかかっこいいね」
  鉄板が焦げる音に紛れて、そんな会話が聞こえてきた。どうやらこの二人は初対面のよう
 だ。ますます雲行きが怪しくなってくる。
  勘定を済ませると、二人は再びきらびやかなネオンに彩られた繁華街へと繰り出した。
  奥まった路地を進み、どんどん駅から離れて人影まばらな夜の世界へと踏み込んでゆく。
  このまま尾行を続けたら、俺はきっと幻滅することになる。
  そんな予感がしたが、不思議な磁力に引っ張られて、身体が勝手に前へと進んだ。
  サラリーマンの男性は猫一匹出ないような路地裏で足を止め、きょろきょろとあたりをう
 かがった。表通りからはずれた路地で視線を気にするのは、すねに傷を持つ人間だけだ。
  慌てて電柱の陰に首をひっこめたため尾行に気づかれることはなかったが、ひょっとする
 と俺は判断を誤ったのかもしれない。二人の前に飛び出して、すべてを白状した上でこれか
 ら行われようとしているヒカリのアルバイト≠止めるべきだったのかもしれない。
  たった一人の俺の親友を、連れ戻すべきだったのかもしれない。
  物陰で戸惑う男のことなどつゆ知らず、サラリーマンの男性は彼女の細い肩に手を回す。
 「じゃ、行こうか」
 
  待ってくれと叫ぼうとしたが、声が出なかった。のどに綿でも詰め込まれたみたいに。
  ヒカリは笑って親子ほども年齢の差がある男性に寄りかかり、そして。
  二人はラブホテルの中へと消えていった。

  俺は廃棄されたマネキンみたいに、一時間も二時間も電柱のそばに立ち尽くしていた。
  このまま帰って、なにも見なかったふりをして、ヒカリとこれまでどおりの共同生活を続
 ける。そういう選択肢もあったが、希望を捨てきれない心が足を地面に縛りつけた。
  俺が追っていたヒカリは幻で、何時間待っても彼女はホテルから出てこない。
  ヒカリは清掃業のアルバイトをしていて、同僚の男性とホテルに派遣されたに過ぎない。
  都合のいい解釈をあれこれと並べ立て、そのいずれかが真実であってほしいと願った。
  だけどホテルから出てきたとき、電柱のそばに俺の姿を発見した彼女は、とても複雑な表
 情でこう言ったのだ。
 「なんでサトシがこんなところにいるの……?」
  知られてはいけない秘密を知られて、彼女は今にも泣き出しそうに肩を震わせた。
  地面に落ちたエコバッグから、何枚かの素っ裸の紙幣が顔を覗かせている。
  やっぱり、尾行なんてするんじゃなかった。


  帰り道、俺たちは一言も口をきかなかった。
  感情をうまく言葉に翻訳することができなかった。目を合わせたらなにか言わなくてはい
 けない気がして、それも極端に避けた。ヒカリも同じ気持ちだったに違いない。
  ヒカリはマンションに戻るなり化粧ポーチを引っ張り出してきて、中身を床に広げた。
  異なる名前が書かれた名刺が、トレーディングカードのように何枚も積み重なっていた。
 「これ全部、ヒカリを買ったやつらの名刺なのか」
 「そう」
 「一年まえから、ずっとこんなことを?」
 「そう」
  やっとのことで生まれた会話がそれで、俺はどんな顔をしていいのかわからなかった。
  俺たちは名刺の山を挟んで、向かい合って腰を下ろした。
  本来ならば、こういう場面では叱るか嘆くかするのが筋なのだろう。だが、俺は彼女の血
 縁者でも、担任の教師でも、ましてや恋人でもない。彼女の厚意に甘えてずるずると共同生
 活を引き伸ばしているだけの居候に、道徳を説く権利はないように思えた。
 「今まで黙っていてごめんなさい。騙すつもりはなかったの」
 「でも、どうして援助交際なんか……」
  返事を聞くまえから、理由ははっきりしていた。
  資本主義社会においては、労働と交換することでしか貨幣は得られない。俺自身も何度と
 なくぶつかってきた壁だ。
  問題はその奥にある。
  彼女はなぜ、まっとうな手段で金を稼ぐことを選ばなかったのか。選べなかったのか。
  俺はそれが知りたかった。
 「働けなかったの」
  重い病気を打ち明けるように、ヒカリは言った。
 「声優になるって決めて家を飛び出したとき、生活費を稼ぐために生まれてはじめてアルバ
 イトをしたの。援助交際じゃない、ちゃんとしたアルバイト。でも職場の人たちとそりが合
 わなくて、すぐに辞めちゃったんだ。その後もいくつかのバイトを転々としたけど、どれも
 長続きしなかった」
  情けないよね、と笑うヒカリの表情はどこか悲しげだった。
  黙って彼女の告白に耳を傾けていると、鏡に映る自分の声を聞いているような錯覚を覚え
 た。働いても働いても失敗ばかり繰り返してしまうつらさは、俺も重々承知している。
 「私は働けない人間なんだって思い知らされた。だけど両親の手を借りることはできない。
 そんなとき、街中で中年の男の人に声をかけられたの。カラオケに行って、スカートのすそ
 をまくりあげるだけでお金がもらえたわ。電話番号を教えられて、次に会ったときは学校の
 制服の上から胸を触らせるだけでお金がもらえた。そこからはとんとん拍子だった」
 「そんなことを続けていて、怖いとは思わなかったのか」
 「怖かったよ。お尻に変な薬を塗られたこともある。同時に三人の相手をさせられたことも
 ある。今だって怖いよ。でもしょうがないじゃない……お金を稼がないと、生きていけない
 んだもん! 働けないんだもん!」
  水玉模様のカーペットの上にぽろぽろとこぼれ落ちる涙を見て、俺は思った。

  この娘は、俺だ。

  裕福な家庭に育ち、なんの訓練も受けずにある日突然社会に放り出された仔犬。
  誰かの飼い犬になる根性もなく、野良犬として生きようにも、一匹で生き抜く牙がない。
  俺とヒカリはまったく同じ境遇にいた。
  自力で餌場を見つけることのできない俺たちは、野良犬にさえなれない。
 「だから俺なんかを居候させたのか。おかしいと思っていたんだ」
 「そうだよ。サトシを見ていると安心できた。私以外にも働けなくて困っている人がいるん
 だって……私より救いようのない人がいるんだって思うだけで、罪悪感が消えるの。頭がお
 かしくならなくて済むの」
  ヒカリが短くしゃくりあげる音は、痛々しくて聴いていられなかった。
  室内を覆い尽くす悲愴感を拭い去るように、彼女は無理に笑顔を浮かべてみせた。
 「私って最低でしょ? 殴りたかったら殴ってもいいよ。犯したかったら、犯して」
  どちらもできるわけがない、と俺は答えた。それは当然の論理だ。
  たとえ援助交際の常習犯であろうと。たとえ心の中では俺を見下していたとしても。
  たとえそこに、愛がなくとも。
 「親友じゃないか、俺たち」
  それを聞いたヒカリは、緊張の糸が切れたのか、我慢しきれぬ様子でわっと泣き出した。
  俺は気がつくと泣きじゃくる彼女を抱きしめていた。
  身をひさいで生きてはいても、心は十七歳の女子高生だ。彼女が身体を売って金を稼ぐこ
 とに良心の呵責を感じなかったはずがない。感覚という感覚を遮断して、夜な夜な増える傷
 口から目をそらして、今日までぎりぎりのところで精神の安定を保っていたに違いない。
 「もうこんな生活やだ……耐えられない……」
  ――死んじゃいたい。
  抱きしめた腕の中で、彼女は小さくそうつぶやいた。
  それに対する俺の返事は、とっくに決まっていた。
 「俺もだ」


  その夜、俺たちはどちらともなく服を脱ぎ、合意のセックスをした。
  泥を洗い流すような射精のさなか、俺は勃起障害が発動しなかった理由に思い当った。
  ああ、なんだ。そんな簡単なことだったのか。
  ヒカリは俺の奴隷じゃない。アクセサリー感覚で付き合ったかりそめの恋人でもない。
  心と身体は切り離すことができない。
  心を分かち合える対等な相手となら、俺にだって身体を分かち合えるのだ。
  人生の最後になって、ようやくそんなことに気がついた。


  朝陽がのぼるのを待たずに、俺はヒカリに今後のことを相談した。
  働ける見込みもなく、頼る人もいない。愛した女性にも見放されてしまった。
  野良犬にさえなれない俺たちは、そう遠くない未来に腹をすかせてのたれ死ぬ。
  ならば最後くらい、運命に翻弄されることなく、自分の手で物語の幕を引きたい。
  ――死にたい。
 「だったら私にも付き合わせて。さっきの言葉、嘘じゃないから」
 「ありがとう。最後にいい思い出ができた」
  裸のヒカリが真剣な顔つきで俺の手を握りしめたとき、覚悟は決まった。
  同じ天井を見つめて、俺たちは誓いを交わす。
 「いっしょに死のう」

  それから俺たちは、朝陽がのぼるまで死ぬための計画を練った。
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