round13『ピストルウェディング』

  hikashuの発言:
  メッセ再登録乙でした。四ヶ月も連絡つかないから心配してたよ。
  hikashuの発言:
  イヴの夜を境に消息不明になったから、てっきりまた入院生活に戻ったのかとオモタ。
  街ゆく恋人たちに嫉妬して、鬱で自殺未遂でもしたんじゃねーかとw
  hikashuの発言:
  不謹慎でしたスマソ。話変わるけど、そっちは相変わらずニート?
  こっちは不登校継続中なんで、時間が空いたらまたネトゲでもやろうずwww
  連絡楽しみに待ってますノシ

  暗闇を四角く切り取ったディスプレイに、顔の見えない親友からの伝言が表示されてい
 る。メッセージを受信した日付は五月十三日の深夜。俺がブランケットにくるまって短い仮
 眠をとっている間に届けられた、心優しき友の声。
  しかし俺はすぐに返事を出そうとはしなかった。ところどころ縫い目が破けて緩衝材のス
 ポンジが顔を覗かせた合皮のリクライニングシートに膝を抱えて座り、疲れた両目で虚空を
 見つめる。パソコンのキーボードは手を伸ばせば届く距離にあるが、手を伸ばすのが億劫で
 しかたがなかった。
  二時間から三時間、あるいはこの四十日間。俺はずっとこんな調子だった。
  今の俺は抜け殻だった。意思も言葉も持たない、人間の抜け殻。
  使用頻度の激減に伴って、きっと今では脳みそも石ころくらいのサイズに縮小しているに
 違いなかった。
  考えることを放棄した人間は、はたして人間と呼べるのだろうか。
  のどが渇けば水を飲む。空腹を感じれば飯を食うし、飯を食えば一日一回はきちんとクソ
 を垂れる。薄暗いまんが喫茶の片隅で、俺の生命活動は続いている。
  だがそれだけだ。それだけでは、そこら中に生えている植物とさして変わらない。
  やはり俺は抜け殻だった。膝を抱えて動かない、人間の形をしたなにか。
  抜け殻の頭の中では、いつも同じ映像が繰り返し再生されている。
  それは抜け殻を抜け殻にした、とある日の一幕。石ころと化した脳が記憶するすべて。
  一人の青年を襲った、悪夢の映像だった。


 「カスミがおまえの、婚約者……?」
  そのとき俺は気が動転していて、おうむ返しに訊ねるのが精いっぱいだった。
  俺にとって最愛の女性は、にこにこと笑っているだけでなにも言わない。
  彼女の肩を抱きシゲルは答えた。
  大観衆をあざむいたピエロのような、得意げな表情。悪意の微笑。
 「そのとおり。彼女は最初から僕の婚約者だった。きみが不運な自動車事故で入院するさら
 にまえ――金持ちのどら息子だったきみが、家政婦の彼女をこき使っていたころからね」
  わけがわからなかった。
  カスミが俺の億ションで家政婦として働いていたのは、大学生活の最後の八ヶ月。その間
 俺はたまに電話で話すことはあっても、シゲルと直接話す機会は一度たりともなかったはず
 だ。二人に接点があったとは考えられない。
  事実、カスミはテレビや雑誌でシゲルの顔を見ても、接点があるようなそぶりは見せなか
 ったではないか。月の裏側でも覗き込むように、なにも知らない、見たことがないって顔を
 していたではないか。
  それともあれは、俺を騙すための演技だったとでもいうのか。
  今この瞬間、俺が感じていたささやかな幸福を奪うための演技だったと。
  彼女が隠していた真実を、俺の宿敵が代弁する。
 「信じられないかい? だが残念だったね、僕が言っていることはすべて事実さ。当時僕は
 策を練り、きみたち親子を地獄に突き落とす機会を虎視眈々とうかがっていた。しかしま
 だ、なにかが足りない。僕の母はきみの父親に遊ばれて破滅した。きみたち親子が僕の母を
 死に追いやったんだ。いくら財産をふんだくったところで、家族を奪われる痛みをきみたち
 親子に与えることはできない」
  この男は狂っていると思った。
  いつの日か、武蔵小路探偵事務所で聞いた言葉を思い出す。
  ――家族を奪われた者の恨みは、理屈では説明できない。
 「そんなおり、父親の借金のカタにきみのマンションで働かされている娘がいるという情報
 を小耳に挟んだ。僕はすぐさま彼女に連絡をとった。もちろんきみには内密にね。彼女は僕
 と同じ、夏見家に家族を壊された人間だ。似た者同士の僕らが結ばれるのは、自然のなりゆ
 きだとは思わないかい?」
  背筋を悪寒が走り抜けた。全身を瞬間冷却されたみたいに、がちがちと歯が震える。
  心臓が警鐘を鳴らし、終末の到来がすぐそこまで迫っていると告げていた。
  狂った男の狂った種明かしは続く。
 「きみが入院して間もないころ、僕はベッドの中で彼女に新たな復讐計画をもちかけた。僕
 がきみの父親から財産を奪い、彼女はみずからきみの疑似家族となって愛情を奪う。これ以
 上ない、完璧な復讐計画のできあがりさ」
  俺は逃げ道を求めて咄嗟にカスミを見た。
  しかし彼女は仮面のような笑顔でそこに立っているだけだった。
 「半年間、彼女は実によく働いてくれたよ。監視者としてきみの行動を逐一報告するかたわ
 ら、すっかりきみの心に入りこんでしまった。そうとも知らず、カンの鈍いきみは日に日に
 彼女に入れ込んでいく。最高の道化芝居だったよ」
 「嘘だ……」
 「嘘じゃないさ。すべてはこの日、この瞬間のため。家族同然と化した彼女をきみから奪い
 去るための、仕組まれた舞台だったのさ。なんなら主演女優に直接確かめてみるといい」
  俺はもう一度カスミを見た。今にも砕け散りそうな心を、視線に託して。
  頼む。ここは空港ではなく花田荘で、俺は悪い夢を見ているのだと言ってくれ。
  いつものように優しく俺を起こしてくれ。二人で朝ご飯を食べよう。
  嘘だと言って、俺を安心させてくれ。

 「嘘じゃないんですよ、ご主人様」

  見慣れた笑顔にそう告げられたとき、世界に亀裂が入った。
  半年間の思い出が走馬灯のように脳裏をよぎっては、割れたガラスとなって崩れ落ちてい
 く。意識は漆黒としか表現しようのない暗闇に塗り潰され、全身から力が抜けた俺は膝から
 床に落ちていった。
  頭上からは聞いたことのないカスミの声が聞こえてくる。
 「私があなたに愛情を抱いているとでも思っていましたか? ご主人様は愚かな人です。自
 分では誰一人救わず、救いを求めてばかりいる。母に先立たれ父の借金を背負わされた私
 を、あなたは一度も救ってはくれなかった。奴隷だと言って屈服させ、辱めることしかしな
 かった。私はただ、働いて疲れているときに、たった一言……いつもありがとうって、そう
 声をかけてくれるだけで、救われたのに……」
  苦痛に満ちたカスミの声を聞いていると、後悔が津波のように押し寄せてきた。
  彼女は正しい。道を間違えるのはいつも俺のほうだ。
  それでも、俺は求めずにはいられなかった。
 「違うんだカスミ。俺は……」
  俺はおまえを、愛している。
 「今さら悔いあらためたところで、私はあなたを許しません。踏みつけられたら痛くなる、
 笑われたら泣きたくなる、辱められたら殺したくなる……それが人間なんですよ!」
  視界が急にぐにゃりとゆがんだ。
  想いは聞き届けられず、怨念とともに吐き出された声にかき消されてしまう。
  床にうずくまって動けない俺に、カスミは怒りと軽蔑の混じった視線をそそいでいた。
  飛行機の発着時刻を報せるアナウンスが鳴り響き、ロビーが騒がしさを増す。
  シゲルは腕時計に目をやり、激しく上下しているカスミの肩に手を添えた。
 「そろそろ時間だ。別れの挨拶はそれくらいにしておけ」
  やつは膝を折って俺の視線まで下りてくる。
  そして勝ち誇った笑みを浮かべる。
 「悪いがおしゃべりはここまでだ。ブラジルでブリックスの経済学者たちとの懇親会があっ
 てね。ついでに彼女と一足早いハネムーンを楽しんでくるよ。挙式は六月だ」
  やつはスーツの胸ポケットから一枚のハガキを取り出して、そいつを床に滑らせた。
  眼下に差し出されたハガキには、簡潔な文章で結婚式の場所と日時が書かれていた。
 「特別にきみも招待しておいた。是非来てくれたまえ。きみには特等席でカスミの花嫁姿を
 拝ませてあげよう」
  最後にやつは俺の肩に手を乗せ、残酷な笑顔に乗せていつものせりふを口にした。
 「きみのこれからに、期待しているよ」
  俺はなにも言い返せなかった。視界はまだぐにゃりとゆがんだままだ。
  さぁ行こうというシゲルの声が聞こえる。
  カスミは狂った男に手を引かれ、朦朧と揺れる俺の視界から去っていった。
  永遠に、俺のもとを去ってしまったのだ。


  壁に設置された受話器がけたたましく鳴り響き、追憶を断ち切る。
  自分がまんが喫茶の個室にいたことすらすっかり忘れていた。
  俺はつい今しがた成田空港のロビーから帰ってきたような気分で、慌てて間仕切りの壁に
 ある受話器を耳に当てた。
 「お客様、ご利用時間のほうあと十分となりますが、延長なさいますか?」
  パソコンデスクの上から財布を取って中身を確認する。千円札が一枚に小銭が少々。銀行
 の預金を引き落とせば当分は食うには困らないが、働けるあても見込みもない現状では、む
 やみに金を浪費することはできない。
 「すぐ出ます」
  そう告げて受話器を置くと、俺はエコノミー症候群気味の身体を起こして個室を出た。
  会計を済ませる際、レジカウンターに置かれた卓上カレンダーが目についた。小難しい専
 門書に突如現れた空白の一行のような大型連休が過ぎ去り、五月は残り半分になっている。
  シゲルとカスミの結婚式は一ヶ月後に迫っている。
  俺が抜け殻になってから、ちょうど四十五日が経過していた。

  まんが喫茶を出た俺は、その足で昼下がりの新井薬師公園にやってきた。
  花田荘を立ち退いて以降、まんが喫茶とこの場所を行き来する生活が続いている。まんが
 喫茶で夜露をしのぎ、支出を減らすため昼間は公園で世の無常を噛みしめる。財布の中身が
 心細いときは、一日の大半をここで過ごすこともあった。
  ベンチに腰掛け、草木のざわめきに耳を傾ける。
  なにも一句詠むためにそうしているわけではない。ほかにすることがないだけだ。公園に
 遊びに来た親子たちに白い目を向けられたら、歩道橋を渡って池に釣り糸でも垂れるつもり
 だった。
  一時間ほどそうして時間を潰していると、日本酒のカップを片手に持った初老の男性がや
 ってきて、俺のとなりにどっかりと腰を落ち着けた。
 「ようナントカ難民の兄ちゃん。仕事の口は見つかったかい」
 「まだです。見つからなくて当然ですよ。探す気がないんですから」
  俺の返答に満足したように、年上のご同輩は今日もカカカと笑って日本酒で無精ひげを濡
 らした。人生のどん底を笑い飛ばす豪気な男だった。
  このホームレスの男性とは、公園で頻繁に顔を合わせるうちにいつの間にか顔なじみにな
 ってしまっていた。年齢の差こそあれ、行くあてもない境遇は互いに同じだ。
  俺たちはしばらくの間、言葉もなくベンチに座っていた。
  ホームレスの男性は日本酒片手に、子連れの若い母親の尻のあたりを眺めてにやにやして
 いる。それが彼の生活の糧なのかもしれない。
  俺は餌を漁る鳩の群れを見つめながら、hikashuのことを考えていた。
  近ごろの俺たちは、イヴの夜以来途絶えていた親交を復活させている。
  シゲルが俺の生活状況を把握するために送りこんだ監視者は、hikashuではなくカスミだ
 った。事情を説明しオフ会の前夜に一方的に連絡を絶ったことを謝罪すると、彼はすんなり
 と俺を許してくれた。それどころか、同情を寄せてくれたくらいだ。
  ネットでの彼との交流を通じて、俺は少しずつ意思を取り戻しつつある。
  ここ数日俺の頭を支配しているのは、彼の何気ない一言だ。
  俺がカスミの裏切りについて話し、こんなときおまえならどうするかと訊ねると、彼はチ
 ャット画面にこんな言葉を送信してきた。

  hikashuの発言:
  俺なら間違いなく殺すね。そいつらを殺して、俺も死ぬ。

  なるほど、それは妙案だと思った。
  彼にとってはなかば冗談に近い意見だったのに違いないが、それは俺にとっては魅力的か
 つ現実的なアイディアのように感じられた。
  手に入らぬものならば、いっそ殺して永遠に俺のものにしてしまえばいい。
  越えられぬ壁があるならば、いっそこの腕で壊してしまえばいい。
  俺はいつも復讐のことを考えていた。社会復帰を果たしシゲルの罪を暴く。それこそが俺
 に課せられた至上命題のように感じていた。
  しかし、そんな迂遠な手段で目的を達する必要はどこにもなかったのだ。
  事態はいたってシンプルだったのだ。

  渡貫茂を殺す。たったそれだけで、俺の復讐は完成する。

  そして、今や俺の復讐の対象はシゲルだけではない。
  俺から愛情を根こそぎ奪い取り、半年の長きにわたり愚弄し続けた女がいる。彼女もシゲ
 ルと同罪だ。俺は俺を冒涜した人間を断じて許しはしない。裏切り者にはしかるべき罰を与
 えねばならない。いいだろう、もののついでだ。あの女も地獄の道連れにしてやる。
  渡貫茂と三島香澄。
  あいつら二人まとめて、本物の地獄に叩き落してやる。
  コロシテヤル。
  コロシテヤル。
 「……殺してやる」
  餌をついばんでいた鳩の群れが、ばたばたといっせいに飛び去っていった。
  その音で意識が覚醒した。となりではホームレスの男性が豆鉄砲を食らっている。
 「恐い顔して恐いこと言うなよ兄ちゃん。平和の象徴たちが逃げちまったじゃねぇか」
 「すみません、少し考えごとをしていて」
  うっかりしていた。無意識に鳩をにらみつけ、あまつさえ感情をそのまま口に出してしま
 っていた。結んでいた両の拳は、血色を悪くして痺れている。
 「誰か殺したいほど憎いやつがいるのかい」
  骨ばった顔を日本酒で赤く染めた男性の質問に、俺は迷った挙句、イエスと答えた。
  空港でカスミと別れてからの四十五日の間、俺は抜け殻のままだった。だが今は、全身に
 底知れぬ活力がみなぎるのを感じている。
  ――それは憎悪だった。
  悲しみでも後悔でもない。俺を裏切った二人への憎悪が、俺の心を突き動かしている。
  俺は本気でカスミを愛していた。俺の気持ちを踏みにじった彼女が許せない。彼女がシゲ
 ルと二人で幸せに暮らす姿を想像すると、なにもかもぶち壊してやりたくなる。
  彼女は俺から愛情を奪っていった。
  ならば俺も奪い取ってやる。愛情や財産だけでは物足りない。
  やつらのすべてを、俺が奪う。
  ホームレスの男性が無精ひげの間から茶色い歯を覗かせて笑みを投げる。
 「だったら兄ちゃん、ちょっくらおじさんの小遣い稼ぎに協力してくれよ」
 「小遣い稼ぎ?」
  聞き返すと、彼は公園で遊ぶ親子に狙いを定めて、銃を撃つ真似をしてみせた。
 「あんたに道具をくれてやる」

  深夜、俺は全身を冷や汗で濡らしながらまんが喫茶に戻ってきた。
  心臓が荒木飛呂彦作品の効果音のように跳ね上がっていた。そうなるのも無理はなかっ
 た。なにせホームレスの男性に連れられて訪ねた新宿歌舞伎町からここまで、とんでもない
 道具を運んで戻ってきたのだ。
  俺は人目を警戒しながら薄暗い個室に入ると、即座に店内の監視カメラの死角となるパソ
 コンデスクの下に身をひそめた。
  背中を丸くして、例の道具を隠したボストンバッグのジッパーを開く。道具は新聞紙に包
 まれて、無事にあるべき場所に収まっていた。
  極度の緊張から解放されて、俺は大きく安堵のため息をついた。
  ここに来るまではまさに薄氷を踏む思いだった。街中を歩いていても電車に乗っていて
 も、まるで生きた心地がしなかった。夜間巡回中の警察官とすれ違ったときは、自分が首を
 締められた養鶏にでもなったような気分だった。
  呼吸を整えて、ボストンバッグの中に手を伸ばす。
  新聞紙の梱包を解いた指先に伝わってくるのは、金属の重みと冷えた感触。それは命の重
 さであり、死の冷たさだった。
  興奮を抑えることができなかった。これで俺は次の舞台へと上がることができるのだ。
  俺の手には、一丁の回転式拳銃――リボルバーが握られていた。

  ホームレスの男性に案内され、俺は歌舞伎町のとある分譲マンションを訪ねた。
  夜の臭気が壁の隅々にまでこびりついたそのマンションは、細川内閣のころに倒産したホ
 テルを改築したもので、入居者の多くは歌舞伎町で働く外国人労働者だった。出勤まえの入
 居者たちが談笑するロビーは、商売女の見本市と化していた。
  俺がホームレスの男性に通されたのは、四階の一室。
  聞き覚えのない有限会社の名前が書かれたドアを開けると、そこは病院の診察室のような
 小さな事務所だった。
  事務所にはスーツを着た中国系の禿頭の小男が一人いるだけで、ほかに人の気配はなかっ
 た。見るからに怪しげなその小男が部屋の主であることは、疑いようもなかった。
  ホームレスの男性と二言三言なんらかのやり取りをしたのち、彼は言った。
 「新規顧客ってのはあんたか。小汚いなりだが、金はあるんだろうな」
  ある、と俺は答えた。たったそれだけで商談は成立した。
  年齢不詳の小男は事務机からバインダーで綴じた書類を取り出し、こいつがカタログだと
 言った。
  そこには良心的な居酒屋のメニューほどの数の拳銃の写真と、日中韓の三ヶ国語で書かれ
 た解説文、それから価格が記されていた。種類によって拳銃の価格はまちまちだったが、高
 額なものでもせいぜい新入社員の初任給で買える程度の値段だった。
 「やけに安いな。模造品ってオチじゃないのか」
 「見くびるんじゃない。名称の隣にFと書いてあるもの以外はどれも正真正銘の本物だ。日
 本のヤクザは慎重に客を選ぶ。だが我々のような新興の中国系企業がこの業界でしのいでい
 くには、あんたみたいな客を相手にするしかない。つまり信用できない客だ」
 「それとこの価格設定にどう関係があるんだ」
 「信用できない客とは身元が不確かな客。そして身元が不確かな客とは大金を所持しない貧
 乏人だ。貧乏人を相手により多くの銃をさばくのが我々のビジネスだ。そのため価格は市場
 価格より低く抑えている。こっちも必死なんだ」
 「で、ホームレスに貧乏人の顧客を開拓させて仲介料を支払っている、ってわけか」
 「そういうことだ。餅は餅屋、貧乏人は貧乏人に探させるのがてっとり早い」
  ちらりとホームレスの男性を見やると、彼は茶色い歯を覗かせて笑ってみせた。
  俺がセレクトしたのは、S&Wというメーカーが開発したダブルアクションの四十四口
 径。銃器にはうとい俺だが、ロバート・デ・ニーロ主演の古い映画でそのオーソドックスな
 フォルムには見覚えがあった。一発で相手の脳漿を吹き飛ばす強力なやつだ。
 「この銃に消音器はついていないが、かまわないか?」
 「問題ない。確実に相手の頭をぶち抜いてくれれば、それでいい」
 「あんたはなかなかいい客かもしれない」
  縁の丸いサングラスを持ち上げて満足そうに笑うと、小男は事務机の上の電話機に手を
 伸ばした。
  まくしたてるような中国語で誰かとなにかを喋ったあと、彼は通話を切って俺に言った。
 「一時間後、注文の品がここに届く。おめでとう、あんたも犯罪者の仲間入りだ」

  こうして俺は復讐を完成させるための道具を手に入れた。
  一丁の回転式拳銃と六発の弾丸。命を刈り取るために作られた道具。
  再び新聞紙に包んでボストンバッグの底に隠すまえに、俺はもう一度両手でじっくりとそ
 の感触を確かめた。
  悪くない手触りだ。引き金を引く瞬間を想像するだけで胸がぞくぞくする。
  銃身の美しさを目でたっぷりと堪能しながら、こいつを購入したときに小男の中国人が言
 っていたことを思い出す。
 「運命に関して、あんたにふたつばかり忠告がある。第一に、あんたがクリスチャンなら銃
 を使った人間が天国に行けるとは思わないことだ。第二に、銃を使わずあんたの目的が不本
 意な結果に終わったとしても、警察に口を割るのはおすすめしない。我々は顔に泥を塗られ
 ることを嫌う。もしうっかり銃の入手ルートを漏らしでもすれば、あんたの運命は銃を使っ
 た場合よりもひどいものになるだろう」
  要するに、銃を手にした人間の未来は明るくないというお話だ。
  しかしそんなことで決意の鈍る俺ではない。地獄に落ちる運命だというならそれもいい。
  俺の人生はどのみち地獄だ。シゲルとカスミが同じ地面に立ち、同じ空を見上げ、同じ空
 気を吸っているかぎりは。
  上等だ。あいつらを殺して俺も死ぬ。三人そろって仲よく地獄行きだ。
  俺の復讐計画はまだ終わってはいない。
  いや、ここからはじまるのだ。このまんが喫茶の薄暗い個室、パソコンデスクの下から。
  もう三日も洗濯していないジーパンの尻ポケットからシゲルに手渡された結婚式の招待状
 を取り出し、場所と日付を頭に刻みこむ。
  式場はカスミの生家に近い荒川区の教会。日付は六月七日だ。
  いいだろう。
  ――その日が俺と、おまえたちの命日だ。


  銃を手にした翌日から、俺は着々と作戦決行の準備を進めていった。
  昼間は新井薬師公園のベンチで無為に時間を過ごすことをやめ、公衆便所の個室で黙々と
 射撃訓練にいそしんだ。
  本物の拳銃はモデルガンとは勝手が違う。確実にターゲットの脳天をぶち抜くには、発砲
 時の反動を計算に入れ、素早く的確な動作を身につけなくてはならない。また、いざという
 ときに邪魔が入ることも想定し、瞬時に銃をかまえ発砲に移るためのギミックを開発する必
 要があった。
  そこで俺は、近所のゴミ置き場から拝借したカーテンレールを用いてスリーブガンの製作
 に着手した。まんが喫茶に工作道具を持ちこみ、夜間は睡眠以外のほとんどの時間をこの作
 業に費やした。
  完成したスリーブガンは、我ながら見事な出来栄えだった。携行時、銃は右腕に固定され
 て厚手のジャケットの下に隠れている。作戦実行時には、俺が腕を直角に曲げるとスプリン
 グが作用し、カーテンレールをつたって銃が手もとに下りてくる仕組みだ。
  このギミックを取り入れた一連の動作も、公衆便所で一日何十回と練習を繰り返した。ま
 れに誰かがドアをノックして射撃訓練に水を差したが、そんな無粋な輩は「アーユートーキ
 ントゥミー?」と返事をすれば、なんだガイジンかよと言って去っていった。
  スリーブガンが完成してからは、空いた時間を利用して弾丸にも仕掛けを施した。果物ナ
 イフで弾頭に十字傷を入れるのだ。
  最後に、美容院で髪を切った。四月以降散髪に行くことを忘れていたので、前髪がうっと
 うしくてしかたがなかった。
  思い切ってすっきりとした髪型に変えた。

  こうして迎えた結婚式襲撃前夜。
  まんが喫茶で段取りの最終確認をしていると、パソコンに一通のメールが届いた。
  hikashuからのオフ会の誘いだった。不幸なすれ違いでクリスマスにできなかったオフ会
 を今度こそ実現させよう、というありがたい申し出だ。
  だが、俺は彼にはっきりした返事を出すことができなかった。
  hikashuが提示するオフ会の希望日程は六月八日。その日、俺はもうこの世にいない。俺
 は自分が明日討ち死にする予定であることを、彼に知らせていなかったのだ。
  名残惜しさが胸に残った。彼は俺が短い人生で出会うことのできた、たった一人の心から
 通じ合える人間だった。最後まで見捨てずにいてくれた、本当の親友だった。
  俺は心の中で彼に最大級の感謝を捧げながら、こう返事を書いた。
  ――生きて帰って来られたら、必ず。
  パソコンの電源を落としてみそぎを済ませ、俺は人生最後の眠りに就いた。
  そして運命の夜が明けた。


  六月七日、午前十一時。
  生まれたばかりのような見事な晴天に、祝福の鐘が鳴り響く。
  俺は軍モノのジャケットにニット帽という出で立ちで、教会に隣接した空き地に身をひそ
 めて作戦決行の瞬間にそなえていた。
  もうすぐシゲルとカスミが教会を出て庭園にやってくる。そのときがチャンスだ。
  両耳に全神経を集中させて息を殺していると、自分の心音すら聴こえてきそうだった。
  チャンスは一度きりだ。失敗は許されない。
  拳銃を手に入れて三週間足らずの俺の射撃の腕前では、ターゲットとの距離を詰めなくて
 はほかの参列者に被弾してしまう確率が高い。復讐の可否は間合いの取り方にかかっている
 と言っても過言ではなかった。
  しかし教会の内部では、左右に百五十人からなる参列者を抱えることになる。中には白河
 とかいうシゲルの秘書の姿もあるに違いない。
  俺が今回の計画においてもっとも警戒しているのがあの女の存在だ。百四十九人の参列者
 が凍りついて動けなかったとしても、あの怪力女なら気配を忍ばせて近づき、俺の背後を取
 ろうとするだろう。あるいは自分の身を盾にしてシゲルをかばうかもしれない。いずれにせ
 よ、あの女に邪魔をされては計画は元も子もない。
  怪力女を遠巻きにし、なおかつ瞬時にシゲルとカスミを射程圏内に収める。そのために
 は、二人が洗礼を終えて教会の外に出てきたときが狙い目だった。参列者の拍手を浴び、二
 人が教会内部から庭園をまっすぐ横切る赤い絨毯を渡りきったとき。そこがチャンスだ。
  ヴァージンロードの終点。そこが新郎新婦と俺の、人生の終点だ。
  鐘の音に無数の拍手と歓声が加わり、にぎやかなオーケストラに変わる。
  俺は教会の塀に沿って、音の波に合わせるようにゆっくりと歩きだす。
  教会の敷地に繋がる道路が目と鼻の先に迫ったところで、歓声が大きく爆発した。ブーケ
 トスが終わったのだろう。ターゲットは今、ヴァージンロードの終点にいる。
  唾を飲み込んで身がまえる。目を閉じて深呼吸をし、覚悟を決める。
  俺は歓声が聞こえなくなると同時に、ニット帽を脱ぎ捨てて駆け出した。
  さぁ、作戦決行だ。

 「動くなっ!」

  敷地内に踏み込むと、俺はすぐさま右腕を直角に曲げて拳銃を取り出した。
  目の前には不意を突かれた顔のシゲルとカスミがいる。射程圏内だ。
  俺は銃の照準をシゲルとカスミに固定し、目だけでさっと周囲を見渡した。
  事態がまだ飲み込めないのか、ヴァージンロードを挟んで並んだ参列者の多くは、コメデ
 ィ映画の途中で心肺機能が停止したみたいに、笑顔のまま固まっていた。
  唯一状況を把握して動き出そうとしていたのは、やはり白河とかいうあの秘書だ。
  だが、俺を止めるには距離がありすぎる。賭けは俺の勝ちだ。
 「早死にしたくないやつは動くなよ? それから言葉を発するのも謹んでもらおう」
  百五十人のオーディエンスを黙らせるには、その一言でじゅうぶんだった。
  庭園全体から、俺の頭髪に恐怖の視線がそそがれていた。正装の紳士淑女には、怒髪天を
 突きかねない俺のモヒカンスタイルは、いささか刺激が強すぎたらしい。
  空気が張り詰めていくのを肌で感じた。
  幸せな結婚式はここまでだ。
  ここからは、惨劇の時間だ。
 「なんの真似だ、サトシ……」
 「なんの真似かって? 決まっている。おまえらを地獄のハネムーンにご招待だ」
  視線を戻すと、シゲルは緊張感たっぷりに表情をこわばらせていた。さすがのやつもこの
 襲撃は予想していなかったと見える。いつもの余裕は微塵も感じられない。
  カスミは純白のウェディングドレスが真っ青になりそうなほど血の気を失っている。
  ざまぁない。拳銃一丁で、ゲームは盤ごとひっくり返ったのだ。
 「天国から地獄に叩き落される気分はどうだ? 笑えるなら笑ってもいいんだぜ」
  しかし二人は笑わなかった。銃口に釘づけになり、表情に絶望の色を浮かべるだけだ。
  甘美な達成感が俺の胸を満たした。
  今、俺はこの二人の命を完全に掌握している。銃の引き金を引くだけで――文字通り指先
 ひとつで、俺はこの二人を崖っぷちから突き落とすことができるのだ。
  ここに来て、ようやく俺にもシゲルが復讐に固執する理由が理解できた。
  復讐はこの世でもっとも甘美な感情のひとつだと、誰かが言った。そのとおりだ。
  ――復讐は、甘い蜜の味がするのだ。
 「懺悔のかわりに訊いてやるよ。シゲル、見逃してほしいか?」
  俺が質問をすると、憎き仇敵はこの返答に自分の生死がゆだねられているとでも思ったの
 か、重要な決断を迫られた軍隊の指揮官のように、長い間をおいて慎重にうなずいた。
  もっとも、俺にとってこの質問はさしたる意味を持たなかった。
  返答いかんに関わらず、判決はとっくのむかしに確定しているのだ。
  俺を侮辱し生きる希望を奪った罪は、死以外では償えない。
 「誰が見逃してやるものか。泣いて命乞いしたところで、もう遅いんだよ!」
  おまえらが今感じている絶望、恐怖、無力感。
  それこそが、おまえらが俺に振るった鞭の痛みだ。

 「仲よく地獄に召されろ、大罪人ども!」

  俺は銃の柄に左手を添え、照準を絞って引き金を引く手に力をこめた。
  沈黙を守っていたオーディエンスたちが痺れを切らし、聖なる庭に無数の悲鳴がこだまし
 た。発砲の刹那、足がすくんで動けないシゲルとカスミの背後に、銃弾を避けようとしてド
 ミノ倒しのように地面に重なり落ちる参列者たちの姿が見えた。
  そして銃弾が世界を引き裂く。
  まず、カスミの頭が高層ビルから落下したトマトのように割れて四方に飛び散った。
  次に顔面に派手に血しぶきを浴びたシゲルの頭が、花嫁の死を悟る間もなく木っ端微塵に
 砕け散る。
  すべては一瞬の出来事だ。あとに残ったのは、血の水たまりとたった今まで人間だったモ
 ノの残骸、それから百五十人で唄う阿鼻叫喚だけだ。
  こうして俺の復讐は完成した、はずだった。
  しかし教会の庭園が阿鼻叫喚の渦と化すことはなく、力をこめた俺の指先は銃の引き金に
 固定されたまま、ぴくりとも動きはしなかった。
  どこかから、ちゅんちゅんと可愛らしい鳥の鳴き声が聴こえてきた。
  だがそれだけだ。
 「どうした……なぜ弾が発射されない?」
  俺は最初、自分の身に起こったことが理解できなかった。
  襲撃の下準備は完璧だった。銃が故障していないことも確認済みだった。シゲルとカスミ
 を殺して俺も死ぬ。その決意にだって一点の曇りもなかったはずだ。
  ならばおかしいではないか。なぜ銃弾が発射されない。なぜ二人は死んでいない。
 もう一度引き金を引こうとして指先に力をこめたとき、ようやく俺は自分の身に起こった
 ことを理解した。
  故障しているのは銃ではない。俺の身体のほうだ。
  いくら力をこめても指先がぴくりとも動かない。電気信号が関節の途中で止まっている。
  銃口は震えながらも、シゲルのとなりに並び不安げな表情で俺を見ているカスミをとらえ
 ていた。三島香澄。俺のメイドだった女。俺をご主人様と呼ぶ女。俺を裏切った女。
  ――俺が人生ではじめて、心の底から愛した女。
  気がつくと、熱い涙が両の頬を伝って地面に落ちていた。
  死をもって罪を償わせると決意したはずなのに。
  三週間近くの間、彼女を殺す瞬間を何百回も脳内でシミュレートしたはずなのに。

  俺は、この女を撃てない。

  思い出が洪水のようにとめどなく溢れてきて、止まらなかった。
  目が覚めるほど美しかった、働く彼女の姿。最低の気分で迎えたクリスマス・イヴと、彼
 女の肌のぬくもり。二人で食べた屋台のラーメンの味。誕生日に贈ったネックレスと、うっ
 とりと輝く彼女の瞳。手を繋いで昼寝をした三月の夕暮れ。
  たとえそれらが偽りの幸福であったとしても、俺が感じていた愛情は本物だった。
  俺にカスミを撃つことはできない。
  そして彼女が本物の愛を捧げた男を撃つことも、やはり俺にはできなかった。
  腕が震えて、銃の照準がシゲルとカスミに定まらない。
  もはや俺に二人を殺害するだけの余力は残っていなかった。
  銃が発砲されなかったと見るや、ドミノ倒しになっていた参列者たちがのそのそと起き上
 がりはじめた。
  それまで銃口に釘づけになっていたシゲルも、催眠術が解けたみたいに冷静な判断力を取
 り戻し、気を失いかけているカスミの肩を抱いて声を張り上げた。
 「なにをしている! 早く襲撃犯を取り押さえろっ!」
  俺はその声で自分が窮地に立たされていることに思い至り、銃を握ったまま踵を返した。
  憎き仇敵と最愛の人に背を向けて、そのまま道路に飛び出した。
  それはほとんど反射的な行動だった。俺は後先考えず全力で教会の庭園から逃げ出した。
  早くやつを追いかけろ。そう叫ぶシゲルの声が背後から聞こえてきた。
  しかし誰かが追ってくる気配はなかった。当然だ。相手は銃を携行した襲撃犯だ。
  五十メートルほど道路をひた走ったところで、俺は安心して教会の敷地を振り向いた。
  気を抜くべきではなかった。一人だけ、俺を追いかけようとしている人間がいる。
  そいつは道路にかがんでヒールを脱ぐと、無駄のないしなやかな動作で地面を蹴り上げた。
  ――シゲルの秘書、白河。
  彼女は両腕両脚を鋭く振り上げて、裸足で俺を猛追してくる。
  もはや俺に背後を振り返る余裕はなかった。彼女に追いつかれたら一巻の終わりだ。
  俺は向かい風を身体に受けながら、まっすぐ伸びた道を無我夢中で走った。

  長期間のニート生活がたたり、俺は一分ともたずに体力の限界を迎えた。
  ぜいぜいと喘ぎながら荒川の河川敷に立ち止まる俺に、すれ違った年配のジョガーが時限
 爆弾を抱えて地球を一周してきた男を見るような視線をそそいでいた。
  背後を振り返ると、追っ手は俺と三馬身――いや、二馬身ほどのところまで迫ってきてい
 た。腰まで届く長髪を風になびかせて、表情を崩すどころか呼吸を乱すことすらなく、一定
 の速度を保ってじょじょに俺を追い詰めてくる。大の男を軽々と投げ飛ばす怪力だけでなく
 並はずれた脚力と持続力まで有しているとは、怪物じみた女だ、まったく。
  俺はいったん逃走を諦めて、現状打破を武力に頼ることにした。
 「止まれ! 一歩でも動いたら撃つ!」
  ここまでターミネーターのごとく勇猛果敢に俺を追ってきた彼女だが、さすがに鋼鉄製の
 肉体までは持ち合わせていなかったらしい。至近距離で銃を突きつけてやると、急ブレーキ
 を踏んで素直にハンズアップした。
  太陽の光を反射してきらきらと輝く川面を背にして、俺たちは対峙する。
 
  眼前に死を突きつけられてなお、彼女は顔色を変えず直線的に俺をにらみつけていた。俺
 とさして年齢は違わないだろうに、なかなか胆のすわった女だ。
 「追ってきた度胸は褒めてやる。だが、追いかけっこはここまでだ」
 「銃で人を脅すなんて、卑劣な男ね」
 「よく言うぜ。卑劣なのはおまえのご主人様も同じだろう」
 「……どういうこと?」
  彼女がわずかに眉根を寄せるのが見てとれた。これまでシゲルの身の潔白を信じて疑いも
 しなかったのだろう。冷酷無比なやつの本性を知りもせずに忠誠を尽くしていたとは、呆れ
 を通り越してあわれみすら覚える。
 「まぁいいさ。とにかく、まだ追ってくるようなら容赦なく撃つぜ。命が惜しければ、俺の
 姿が消えるまでそこでじっとしているんだな」
  俺は彼女に銃口を向けたまま、一歩二歩と河川敷を後退してゆく。
  なすすべのない彼女は、両手を挙げた姿勢を保ちながら、じりじりと距離を離していく俺
 を歯がゆそうににらみ続けていた。
 「俺を確保できなくて残念だったな。おまえの執念には敬意を表するぜ」
 「おまえなんて馴れ馴れしく呼ばないで。私にはちゃんとした名前があるの」
  もう逃走するにはじゅうぶんな距離ができていた。
  これが最後の会話になる。
 「へぇ。もう二度と会うことはないだろうが、一応訊いてやるよ。なんていうんだ?」
  遠ざかる俺に聞こえるように、彼女は大声でその名を告げた。

 「私の名前は白河……白河遥よ。覚えておきなさい!」

  ハルカ――怪物じみた女には似つかわしくない、美しい響きだ。
  その名前を頭の片隅にピンで留め、一目散に河川敷を走り去る。
  今度こそ俺の逃走は成功し、一世一代の襲撃は未遂のままに終わりを迎えた。


  タクシーと電車を乗り継いで、俺は通い慣れたまんが喫茶に逃げ込んだ。
  アルバイトの店員が、顔全体に冷や汗のメイクをほどこした俺の様子に面食らっていた。
  我が家のように慣れ親しんだ薄暗い個室に入ってドアを閉めると、緊張の糸が切れて嵐の
 夜のような疲労が訪れた。
  逃走中はずっと、絶え間ない恐怖が背中に貼りついていた。いもしない追っ手の影に怯え
 て所在なく視線をさまよわせ、一刻も早くここに帰りつきたい一心だった。
  リクライニングシートに背中をあずけて疲れを癒していると、入れ替わるようにまたして
 も恐怖が襲ってきた。寒気がして、冬でもないのに奥歯ががちがちと震えた。
  シゲルとカスミを殺して俺も死ぬ――その計画は失敗に終わった。復讐は完成しなかっ
 た。殺したいほど憎いと思っていた二人を前にして、俺はなにもすることができなかった。
  俺の襲撃には百五十人の証人がいる。逮捕令状が出て、殺人未遂と銃刀法違反の罪で俺が
 指名手配犯となるのは時間の問題のように思えた。そうなれば逃げのびることはほぼ不可能
 だ。駅のコインロッカーに隠した拳銃もすぐに押収され、俺は弁明の余地なく刑務所に送ら
 れるはめになるだろう。
  まるでアリ地獄にいるようだった。どれだけ力を引き絞っても、事態はなにひとつ好転し
 ない。やることなすことすべてが運命を悪い方向へと導く。俺は必死であがいているのに、
 いつだって気がつけば自分で墓穴を掘っているんだ。
  天井を見上げていると目頭が熱くなり、腕を押しつけて蓋をした。
  もうこれ以上、生きる気力なんて湧いてこない。
  輝かしい明日なんて見えてこない。希望なんてどこにもない。
  こんなときに湧いてくるのは、涙ばっかりだ。

  俺はそのまま泣き疲れて眠ってしまい、目が覚めたのは深夜二時だった。
  リクライニングシートの上に膝を抱えて座り、そこから一歩も動く気がしなかった。
  昨日の朝からなにも食べていないはずなのに、食欲もなかった。
  もはや俺が求めるものはなにもなかった。まるで心が死んでしまったみたいに。
  このままこの薄暗い個室の中で、警察が俺を捕まえに来てくれるのを待っていよう。そう
 思ってじっとしていたら、視界の端でなにかがチカチカと光った。
  泣き腫らした両目をこすって顔を上げると、つけっぱなしにしていたパソコンの画面がオ
 レンジ色に点滅して、メッセージの受信を俺に報せていた。
  ――サインインしてるってことは、まだ生きてるよね?
  それまで動かなかった身体が勝手に動き、気がつくと俺は、見えないなにかに操られるよ
 うにして、hikashuから送られてきたメッセージに返事を出していた。
  キーボードを叩いて弾き出した言葉は短く、たった一行。
  俺はまだ、生きている。


  翌朝、東京は真夏日のような熱気に包まれていた。
  俺は指定の時刻の十分まえに吉祥寺の街にやってきて、巨大なケロロ軍曹の看板を貼った
 ビルの下、剥き出しの頭皮に痛いほど突き刺さる直射日光を浴び続けていた。
  午前十一時に、吉祥寺駅を出てすぐのケロロ軍曹の看板の下で待ち合わせ。
  昨晩、hikashuはオフ会の集合場所をそのように指定してきた。彼は都市部の人間らしい
 が、中央線沿線を生活圏にしている俺のために、わざわざ吉祥寺まで出向いてくれるそうだ
 った。
  hikashuの到着を待つ間、携帯電話で昨夜から今朝にかけてのニュースをざっと洗ってみ
 たが、どういうわけか昨日の襲撃はまだ事件として扱われていなかった。中野駅のコインロ
 ッカーから出所不明の銃が発見されたという記事も、どこにも載っていない。
  これでまだ俺は自由の身でいられる。少なくとも、今日一日は。
  待ち合わせの時刻の三分まえになっても、hikashuらしき人物は現れなかった。
  ビルの下で立ち止まっているのは、俺と同じく待ち人を探しているとおぼしき若いサラ
 リーマン風の男性、日傘を差して周囲をきょろきょろと見渡している、ツインテールの外国
 人風の少女、それから取りつかれたように携帯電話をいじっている女子高生くらいだった。
 不登校の男子高校生らしき人物の影も形もない。もしかすると、どこかで道に迷ったか、急
 な用事ができて遅れているのかもしれない。
  俺がせめてオフ会を開くまえに携帯電話のアドレスだけでも交換しておくべきだったかと
 思案していると、突然手前から声をかけられた。
 「ねぇ、もしかしてあなたがsatosixさん?」
  顔を上げると、そこに立っていたのは先ほどの日傘を差した外国人風の少女だった。
  そのときの俺は、さぞかし間の抜けた顔をしていたことだろう。なにしろ彼女は、俺が記
 憶するhikashuの性別的特徴とは、まったく一致していなかったのだから。
  だから、たった一言質問をするのにも、かなりの時間と勇気を要した。
 「そうだけど、ひょっとして、きみがhikashu……?」
 「うん、私がhikashuよ」
  俺は思わず目をしばたたいて、頭の中のhikashuに関する情報をひっくり返した。
  首までどっぷりとオタク文化に浸かった、不登校の男子高校生。とある夢のためにアルバ
 イトをしながら一人暮らしをしている十七歳の日本人。それが俺の知っているhikashuだ。
  だが、目の前にいる彼女はどうだ。
  光を当てれば透けそうな白い肌と青みがかった瞳の色は間違いなく純粋な日本人のもので
 はないし、頭の両側で結んだきれいな金髪のツインテールだってそれを証明している。確か
 に年齢は十七歳くらいに見えなくもないが、落下傘のように広がったワンピースの上からで
 もわかる小さな胸の膨らみは、どこからどう見ても女だ。男子高校生という生物学的な絶対
 条件から、明らかに外れている。
  だからこそ俺は、目の前に立つ背の低い少女に訊ねずにはいられなかった。
 「あの……いきなり失礼かもしれないけど、きみ、名前は?」
  すると彼女は、日傘の下でにっこりと微笑んだ。

 「私の名前は伊万里・シュレディンガー・光子。親しい人はヒカリと呼びます」

  いまりしゅれでぃんがーひかりこ。ひかり。ひかしゅー。
  声には出さずにその名前を復唱してみる。非の打ちどころのない女の名前だ。
 「これからはsatosixさんも、ヒカリって呼んでくださいね」
 
  嘘を嘘と見抜ける人でないと、インターネット掲示板を使うのは難しい。あれは至言だ。
  ネット上に表示される文字だけを介して繋がる関係では、性別を偽ることすらいともたや
 すい。俺の目の前にいる美少女が、いい見本だ。
  彼女がどういう意図で性別を詐称していたのか。この出会いが俺の人生にどのような影響
 をおよぼすのか。俺の運命はどうなってしまうのか。
  肝心なことを、俺はまだなにも知らない。
  だけどとにかく、そのとき彼女はこう言ったのだ。

 「さて、これからどうしよっか? 二人でいっしょに考えましょうよ」

  ケロロ軍曹の看板の下で、日傘の下で。金髪のツインテールが風に揺れていた。
  答えはいつでも、風に舞っている。


                          第三部に続く
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