round12『半ダースぶんの幸せ』

  春が訪れて、東京の街にはいつにも増して若者の姿が目立つようになった。
  受験を終えたばかりの高校生や春休みの大学生が、平日の昼間からそこかしこで群れを成
 している。順風満帆な人生を信じて疑わない、輝かしい笑顔で。
  入念なウォーミングアップをするように、毎日少しずつ気候がおだやかになってゆく。
  晴天が続き街全体にまったりした空気が流れる中、俺は順風満帆な人生など思い描けるは
 ずもなく、日々蓄積されていく焦燥感を打ち消せずにいる。
  カスミとは今月かぎりでお別れだ。共同生活の契約期間は、もう三十日もない。
  最後のカウントダウンがはじまっていた。


  三月五日。
  六本木の宝石店でカスミの誕生日プレゼントを購入した。
  彼女の誕生日は翌週だが、鉄は熱いうちに打てとのことわざに従って、決意が鈍るまえに
 買い物を済ませた。大きな買い物に勇気を必要とするようになったのは、質素倹約がモッ
 トーのカスミと暮らすようになってからだ。
  悩みに悩んだすえ、プレゼントには五万円のネックレスを選んだ。
  帰りに銀行のATMで預金残高を確認してため息が漏れた。
  当初百五十万円あった俺の軍資金は、残り六十万円まで落ちこんでいる。生活費に加え、
 浪子への調査費用の支払いが痛手となっていた。
  共同生活を終えた先が思いやられる。どうにかして収入源を得ないと、一寸先も闇だ。
  重たい足取りで駅に向かって歩いていると、黒塗りのベンツが一台、俺にぴったりくっつ
 くようにして路肩に停車した。
  ヤクザに絡まれたのかと思ってとっさに身構えたが、開いた運転席のウィンドウから出て
 きたのは、見覚えのある女の顔だった。
 「おまえ……シゲルの秘書の怪力女か?」
 「おまえではなく白河。それと私が怪力なのではなく、あなたが非力なだけよ」
  すました顔と事務的な口調がいちいち生意気だ。見た目は優秀な秘書といった装いだが、
 どうせシゲルとは公私ともにパートナーなのだろう。思わず唾を吐きかけてやりたくなる。
 「その白河さんが俺になんの用だ? デートの誘いなら間に合ってるぜ」
 「ご冗談。あなたに用があるのは、私ではなく渡貫社長よ」
  測ったかのようなタイミングで後部座席の窓が開き、仇敵が姿を現した。
 「やぁ、サトシくん。今回はよくもやってくれたね」
 「告訴の件か? さすがの渡貫社長も警察にはコネがなかったみたいだな」
 「海外出張を控えた大事な時期に、まさかこんな反撃を食らうとはね。してやられたよ」
  シゲルは笑顔を作っていたが、そこにいつもの余裕は感じられない。
  メガネに縁取られた瞳には、隠すことのできない憎悪がにじんでいる。
  昨日、警察はシゲルが詐欺罪で告訴されたと発表した。
  まだほとんどのマスコミが静観を決め込んでいるが、気の早いネットニュースは昨夜から
 この話題で持ちきりだ。若き敏腕経営者に突如浮上した犯罪の疑惑。三度の飯よりお祭り騒
 ぎが好きなネットユーザーたちが、これを見逃すはずがない。
 「今朝、重要参考人として警察から出頭要請があってね。今しがた頭の固いオジサンたちと
 のディスカッションを終えて、ようやく解放されたところさ。てっきり腑抜けになったかと
 思っていたが、きみもなかなか味な真似をしてくれるじゃないか」
 「言ったはずだぜ。あんたもあんたの会社も、全力でつぶしてやるってな」
 「ふん。そう来なくては面白くない」
  俺がやつを睨むと、やつも鋭利な刃物のような目で俺を睨み返してきた。
  ガードレールを挟み、しばし無言の中に復讐の火花を散らせる。
  この短い邂逅の最後に、やつはこう言った。
 「ひとつだけ忠告しておこう。きみは重大な見落としをしている。それに気づかないかぎ
 り、きみの復讐が成就することはない。永遠にね」
 「……なんだって?」
 「きみのこれからに、期待しているよ」
  いつかと同じせりふを残して、シゲルは後部座席の窓を閉めた。同時に白河と名乗る秘書
 がサイドブレーキを下ろし、憎き仇敵を乗せたベンツは俺の前を去っていった。
  宝石店のロゴが刻印された紙袋を片手に提げたまま、俺は歩道に立ち尽くす。
  俺が重大な見落としをしている……?
  シゲルはそう言ったが、なにか詐欺の立件を阻止する奥の手があるのだろうか。警察は目
 下、共犯の疑いがある親父の事務所の経理担当に出頭を要請している。彼の身柄が取り押さ
 えられ、パルギア酒造とシゲルの関係が割れれば、間違いなくやつは劣勢に立たされるは
 ず。
 「考えても答えは出ない、か……」
  シゲルの真意がどうであれ、最初から一か八かのつもりで挑んだ勝負だ。今さら立ち止ま
 るわけにはいかない。物語はすでに動き出しているのだから。
  俺はゆっくりと歩き出して駅に向かった。
  中野の街に――カスミが待つ花田荘に帰るために。
  共同生活の契約期間、残り二十六日。


  三月十二日。
  新宿の小粋なフレンチレストランでカスミの二十四歳の誕生日を祝った。
  ホテルの最上階でのディナーは、この半年間で一番の贅沢だ。
  品のいいスーツ姿の客が目立つ店内で、ユニクロの上下に身を包んだ俺たちはいささか場
 違いな存在ではあったが、夜景に感激してうっとりした表情のカスミを見ていると、そんな
 ことはすぐに忘れてしまった。
  恋人の誕生日には豪勢なディナーときらびやかな夜景で花を添えてやるのが、むかしから
 の俺の流儀だ。華やかな生活をしていたころと比べるとグレードは格段に落ちるが、カスミ
 が喜んでくれてよかった。
  二人で誕生日を祝うことができて、本当によかった。
 「なんだか今日、ご主人様まで嬉しそうですね」
 「そんなふうに見えるか?」
  その場では笑ってごまかしたが、図星だった。
  関係者からのリークで容疑が濃くなったシゲルは、現在検察に身柄を拘束され会社の強制
 捜査を受けている。レストランに来る途中のコンビニで立ち読みした新聞の社会面に、そん
 な記事が出ていた。シゲルが重要参考人から容疑者に格上げされたことで、じょじょにでは
 あるが、形勢は俺に有利に傾きつつある。
 「そんなことより、実はプレゼントも用意してあるんだ」
  今の俺にとっては、復讐の顛末よりもそっちのほうがよっぽど重要だった。ボストンバッ
 グからリボンで包装された小箱を取り出して、きょとんとしているカスミに差し出す。
 「開けてみてくれ」
  はじめは玉手箱でも見るような顔をしていたカスミだったが、包装紙を破って小箱を開く
 と、たちまち夜景を鑑賞していたとき以上にうっとりと瞳を輝かせた。
 「きれい……」
 「ダイソーで売ってる安物とは違うんだからな。大切にしろよ」
 「はい、大切にします。絶対に」
  この日一番の笑顔でそう言われて、俺はなぜだか胸が苦しくなった。
  あと半月ほどで、この笑顔ともお別れしなくてはならない。
  俺がまじめに働いてさえいれば、彼女を養って二人で暮らす道もあったのだろうか。
  考えても栓のない話だとわかってはいても、そう考えずにはいられなかった。

  その夜、世にもおそろしい夢を見た。
  見渡すかぎり、果てしない暗闇が続いていた。
  俺の周囲だけが不自然に明るい。井戸に迷い込んだ蛍の気分だった。
  つま先に視線を落として、自分が船の甲板に立っているらしいことに気づく。大学の卒業
 式の日に関係者たちを集めてパーティを開いた、あのクルーザーだ。光源となっているの
 は、船内への通用口に設置された照明器具だった。
 「誰かいるのか……?」
  呼びかけるも、声はむなしく暗闇に吸い込まれていく。
  船は川に浮かんでいるのに違いないが、なぜかエンジンが停止したかのようにまんじりと
 も動かない。
  不安になって船の舳先に立つと、船体から照射されたライトが川面を映し出していた。お
 そるおそる覗き込むと、川面には氷が張っていた。船が動かないわけだ。
  船の舳先からは、周囲の景色がよく見渡せた。
  そこは氷に覆われた、巨大な鍾乳洞だった。
  だが、そこにナショナルジオグラフィックのドキュメンタリ番組の題材になるような大自
 然の美しさを見いだすことはできない。洞窟の岩肌は凍りついており、頭上では無数の氷柱
 が剣山となって俺を脅かしていたが、暗闇に蓋をされ、どこに天井があるのかもはっきりと
 しない。俺が探検家なら、こんな場所を訪れた自分の無謀さを呪っただろう。
  ここはその場にいるだけで背筋が寒くなる、氷に閉ざされた牢獄だ。
  いつまでもこんなところにいてはいけない。
  ――こんなところにいては、俺はやがて発狂してしまう。人間ではなくなってしまう。
  発作的な恐怖に襲われ、俺は甲板を引き返した。エンジンが生きていても氷が張った川に
 乗り上げた船は動いてはくれないだろうが、船内に退避すれば食料も防寒具もあるだろう。
  とにかく、一刻も早くこの氷の世界から脱出しなくては。逃げなくては。
  しかし通用口の扉は開かなかった。ドアノブが結露していて、てこでも動きそうにない。
 「ちくしょう、誰かいないのか!? 誰か俺をここから出してくれ!」
  急激に絶望感にとらわれ、大声で叫んだ。
  すると背後から返事があった。
 「ま〜だ他人の力に頼ってるんですか? アンタほんとどうしようもないッスね、先輩」
 「脱出したけりゃ勝手にすれば? ただし私たちはノータッチだから。ご自分でどうぞ」
  聞き覚えのある声に振り向くと、さっきまで無人だった甲板に人の姿があった。
  いや、人ではない。人の姿をした氷の彫刻……生きた彫像だ。
  俺の太鼓持ちをしていたスネ夫に、恋人だったカンナ。タケシの彫像もある。
  それだけではない。
  俺を裏切り見捨てた大学時代の仲間たちが、氷の人形となって俺を取り囲んでいた。
 「親の権力の傘がなくてはなにもできない。ここから脱出することはおろか、満足に働くこ
 とすらできない。自分一人ではなにも成し遂げられない、矮小な人間だなきみは」
  彫像の群れの中には榊さんの姿もあった。彼の会社にいた同僚たちの姿も。
  タケシとカンナが集団から一歩進み出て、俺に憐れみの目を向ける。
 「サトシ、おまえだって頭では理解しているんだろう? 働いて自分の力で金を稼いでさえ
 いれば、おまえはカスミさんと対等な関係になることができた。ご主人様とメイドではな
 い、本物の恋人同士にだってなれたんだ。そのために半年間もあったチャンスを、おまえは
 みすみす棒に振ったんだ」
 「働きもせずに誰かを幸せにしようなんて、甘い考えなのよ」
  社会人となり夫婦となった二人に詰め寄られ、俺は頭を抱えてその場にうずくまる。
  泣いてしまいそうだった。
  心を素っ裸にされて、一番弱い部分を突かれているようだった。
 「ダメなんだ……働けないんだ……」
 「はぁ? 働いちゃいけないって家訓でもあるわけ?」
 「働いてもすぐに失敗してしまう……失敗が続くと心が折れてしまう。罵倒され、馬鹿にさ
 れ、自分の無能さを思い知らされるんだ。どこに行ってもそうだった。ずっと遊んでばかり
 いたから……根気も忍耐力も欠けていて、俺は子どものままなんだ。もうそんな年齢じゃな
 いのに……社会に出て、働かなくちゃいけないのに……ダメなんだ。能力がないんだ……」
  いつしか嗚咽に変わっていた俺の言葉に、氷の彫像たちは無言で聞き入っていた。
  泣き腫らした顔を上げると、カンナは氷の微笑を浮かべて俺を見下ろしていた。
 「だったらアンタ、一生ここから出られないわね」
  彼女の言葉を皮切りに、裏切り者の彫像たちはいっせいにケタケタと笑いはじめた。卑賤
 な者を見る目で俺を見下ろして、口々に嘲った。「なに深刻な顔してダサいこと言っちゃっ
 てんの?」「運動ができなかった子も勉強ができなかった子も、みんな大人になって真面目
 に働いてるのにね」「こんな情けないやつはじめて見た。生きてるだけ無駄だろこいつ」。
  薄笑いを浮かべた彫像たちの辛辣な言葉が、まるで黒ひげ危機一髪のように、次々と四方
 から俺に突き刺さる。精神の均衡を保てなくなり、俺は両手で耳に蓋をした。
 「やめろ、やめてくれっ!」
  しかし俺の願いは聞き入れられず、彫像たちの笑い声はふさいだ両耳を通り抜けて俺の脳
 を蝕んでゆく。
  俺は発狂したくない一心で、彫像たちにひたすらヤメテクレと唱え続ける。
  ――終わることのない嘲笑は、まさしく地獄の拷問そのものだった。

  そこで俺は弾かれたように布団から飛び起きた。
  心臓が倍速で鼓動していた。首筋には嫌な寝汗がぐっしょりと滲んでいる。
 「どうしたんですか? ご主人様、すごくうなされていましたけど……」
  声がしてふと隣を見ると、カスミが心配そうに俺を見ていた。彼女の顔と畳の編み目を見
 比べて、氷の世界での出来事が夢であったことをようやく確信し、ほっと胸を撫で下ろす。
  窓から射す春の日射しが、やけに暖かく感じられた。
  悪夢から解放され、枕もとの時計で日付と時刻を確かめる。
  カスミの誕生日から一夜明け、今は三月十三日の朝だ。
  共同生活の契約期間、残り十八日。


  三月十九日。
  午前中に警察の事情聴取を受け、昼過ぎに浪子のもとを訪ねた。
  この日は彼女にいい報せがあった。容疑が濃くなり、ついにシゲルが公訴されたのだ。
  パルギア酒造の不自然な業績の伸びを追ううちに、捜査当局はシゲルを黒だと判断した。
 今ごろやつは拘置所でマズい飯を食べているに違いない。カリスマ社長の突然の逮捕に、世
 間はちょっとした騒ぎになっている。いよいよ俺に運が向いてきたというわけだ。
  これは二日まえのニュースだが、浮世離れした生活を送っている浪子がニュースを見てい
 るとは考えにくい。だから直接彼女に伝えてやろうと考えていた。
  ビルの一階で場末感漂うジャズ喫茶の店主に目礼し、奥の階段を昇る。ファンシーな花の
 模様で彩られた『武蔵小路探偵事務所』の表札の前に立ち、浪子がまだ寝ていることを見越
 して郵便配達でもないのに二度ベルを鳴らす。いつまで経っても返事がないので、ドアに鍵
 がかかっていない不用心極まる部屋に勝手にお邪魔する。ここまではいつもどおりだ。
  だが、ここからがいつもと違っていた。
  普段は武蔵小路探偵事務所には目が痛くなるほどのアロマの煙が充満しているが、この日
 はいたって視界良好だった。ここに来る度うるさく感じていたレコードプレイヤーが奏でる
 モッズサウンドも聴こえてこない。
  それどころか、ガラクタ置き場と見まがうばかりだった室内から、家具という家具、雑貨
 という雑貨がきれいさっぱり消えていた。
 「浪子……?」
  部屋の奥にはいつも彼女が腕を枕にして昼寝していた事務机が残っていたが、それだけだ
 った。持ち主も、目つきの悪い彼女の飼い猫の姿も見当たらない。
  悪い予感がして、慌てて階段を駆け下り一階のジャズ喫茶に戻る。
  テーブルで暇そうに新聞を広げていた店主に浪子の所在を訊ねると、予想したとおりの答
 えが返ってきた。
 「浪子ちゃんなら三日まえに出てったよ。なんでも家賃が払えなくなったとかで」
  なんでも浪子は家賃滞納の常習犯だったらしく、三ヶ月近く未払いの状態が続いていたら
 しい。どうせそんなことだろうとは思っていた。私立探偵の肩書きがあるだけで、あいつも
 本質的には俺と同じ、グータラ人間なのだ。
 「あいつからなにか伝言とかないんですか?」
 「ああ、そういえばきみに宛てた手紙を預かっていたっけな。ちょっと待ってくれ」
  店主はカウンターの裏に回って抽斗を漁り、半分に折りたたんでハートマークのシールで
 口を閉じられた便箋を俺に渡してくれた。
  夜逃げ同然に姿を消した浪子からの手紙には、たった一行、こう記されていた。

 「お金がなくなったのでラスベガスで一攫千金狙います。あなたの浪子より(はぁと)」

  気が遠のいた。笑えばいいのか怒ればいいのか判断に迷う。
  数十万円からなる調査報酬を支払ってやったにも関わらず家賃を滞納していたと聞いてお
 かしいとは思ったが、そういうことか。俺が与えた金は賭場に消えるのだ。
  俺は深く気を落としつつジャズ喫茶を出た。調査報酬を博打につぎ込まれるのが悲しかっ
 たのではない。
  認めたくはないが、俺は浪子がいなくなって寂しかった。
  いい加減で現金なやつではあったが、あいつは俺に協力してくれた。氷の彫像たちとは違
 う。地位も名誉も失った俺の手助けをしてくれた。たとえ中身は救いようのないグータラ人
 間だとしても、あいつは俺の味方だった。かけがえのない、仲間だったのだ。
  陰鬱な気分で薬師あいロードを歩いていると、ポケットの中で携帯電話が震えた。
  こんなときにかかってくる電話は悪い報せと相場が決まっている。
  電話に出るべきか少し迷ったが、七釜戸さんからの着信だったので通話ボタンを押した。
 「もしもし、サトシくんかい? 今電話大丈夫かな」
 「大丈夫ですよ。シゲルの訴訟になにか進展があったんですか」
 「ああ。たった今警察から連絡が入った。いいか、心して聞いてくれ」
  閑散とした午後の商店街で、俺は足を止める。
  咳払いをひとつしてから、七釜戸さんは声のトーンを落として言った。

 「渡貫茂が釈放された。裁判所が公訴を棄却したんだ」

  俺はすぐには返事をすることができなかった。聞き慣れない言葉が並んでいたので、すぐ
 には七釜戸さんの報告の意味が理解できなかったからだ。
  渡貫茂が保釈された。検察が公訴を棄却した。
  七釜戸さんの言葉が頭にしみ込んでいくと、ほかのいっさいはそこから抜け落ちていっ
 た。聞き返す余裕すらなかった。
  そんな俺に追い撃ちをかけるように、七釜戸さんは非情に告げる。
 「僕たちの負けだ」
  全身から力が抜けていき、携帯電話を地面に落した。
  俺を呼ぶ七釜戸さんの声を聞きながら、俺は道の真ん中に立ち尽くしていた。
  ――こんなときにかかってくる電話は、悪い報せと相場が決まっているのだ。
  共同生活の契約期間、残り十二日。


  三月二十六日。
  俺は朝から晩まで新井薬師公園のベンチでぼうっとしていた。
  一週間近くそんな毎日が続いている。花田荘でカスミの引っ越しの準備をしなくてはなら
 なかったが、手つかずのままだ。
  なにもする気が起きない。なにもできる気がしない。
  証拠不十分で公訴が棄却されてから、シゲルは何事もなかったかのように経済界に返り咲
 いている。一時は彼の会社の株価は急激に下降線をたどっていたが、それもじょじょに復調
 のきざしを見せはじめている。取材陣の前でご心配をおかけしましたとコメントしたときの
 彼の表情は晴れ晴れとしていた。俺が起こした訴訟のことなど、かすり傷程度にしか思って
 いないのだろう。
  雲ひとつない三月の青空を見つめていると、唐突に実感する。
  もう終わってしまったんだ、俺の復讐は。
  あっけない幕切れだった。
  ベンチに腰掛けて遊具に群がる子どもたちとその親をながめていたところ、近所の青テン
 トに住む初老の男性が隣にやってきた。日本酒のカップを大事そうに両手で持ち、白髪まじ
 りの無精ひげの合間から俺に微笑みかける。
 「兄ちゃん最近よく見るな。最近流行りのニートってやつか」
 「まぁ、そんなところです」
  そう答えると、ホームレスの男性はカカカと笑って日本酒をひと口すすった。
  もうすぐ俺もあなたの仲間入りですよ――そう思ったが、口には出さなかった。
  共同生活の契約期間、残り五日。


  そしてとうとう三月三十一日がやってきた。
  共同生活の最終日となるこの日、俺とカスミは朝から引っ越し作業に奔走していた。
  午前中に荷造りと家具の処分を済ませ、午後は部屋の大掃除に費やした。
  棺桶サイズの狭いベランダで網戸を洗っていると、水気を帯びたTシャツが背中に貼りつ
 いた。ときおり鼻先から汗が滴り落ちては作業の手を止める。首にかけたタオルで汗をぬぐ
 いつつ空を仰げば、太陽は元気いっぱいとばかりに照っていた。
  そうか、もうそんな季節なんだ。
  大掃除が終わった夕方、薄いカーディガンを埃で染めたカスミが、こんなことを言った。
 「こうして見ると、なんだか別の部屋みたいですね」
  確かに、家具がなくなった花田荘の六畳一間は、寺院の本堂のように広々として見えた。
  もうこの部屋には、カスミが愛用していた化粧台も、映像が黄色がかって見えたブラウン
 管のテレビも、二人で食事をしたちゃぶ台もない。そして明日には、俺たちもいなくなる。
  結局俺は、なにもできずにこの日を迎えてしまった。
  復讐を果たせぬまま、社会復帰もできぬまま。
  カスミにたった一言を伝えることもできぬままに、この日を迎えてしまった。
 「先にシャワー浴びてこいよ。俺はここで休憩してるから」
 「あっ、ご主人様だけずるいですよ。そんな特等席で」
  俺がベランダに通じる窓を背もたれにして畳に足を投げ出したら、カスミも同じように俺
 の隣に腰を落ち着けた。腰と肩の痛みがすっと抜けていく。背中に受ける夕陽が暖かくて、
 気を抜くとうたた寝してしまいそうだった。ひさしぶりの肉体労働だったため、身体がしつ
 こく睡眠を要求していた。
  そのまましばらく、俺たちは言葉も交わさずに窓辺にたたずんでいた。
  考えなくてはならないことは山ほどあった。
  明日の朝、カスミはこの街からいなくなる。そこから先、俺は自分一人の力で生きていか
 なければならない。まだ寝床の確保もしていないが、今はそんなことはどうでもよかった。
  畳だけになった部屋を見ていると、寂しさと愛おしさが同時に胸に込み上げてくる。
  この部屋にはたくさんのものが詰まっていた。比喩でもなんでもない。数えきれないくら
 いたくさんの、幸福な思い出が詰まっていた。
  すやすやと寝息が聞こえて隣を見やると、カスミはいつの間にか眠っていた。
  いつだったか、清貧なんて言葉は嘘だと彼女は言った。貧しくても幸せな暮らしなんてど
 こにもないと、涙に濡れた瞳で俺に訴えていた。
  あのとき、幸せってなんですかと彼女に訊ねられて、俺は答えることができなかった。今
 なら、俺は答えを知っている。
  子どものように安らかな寝顔に、心の中でそっと語りかける。
  財力も友人も失って、仕事もできず貧乏暮らしだったけど。
  この半年間、俺は幸せだった。
  半年ぶんの幸せを、カスミ――おまえが俺に与えてくれたんだ。
 「ご主人様……」
  いきなり彼女にそう呼ばれて驚いたが、どうやら寝言らしかった。
  電車で居眠りするOLみたいに、カスミは俺の肩に頭を乗せてきた。
  胸の高鳴りを抑えつつ彼女の指先に触れると、彼女はそっと俺の手を握り返してきた。
  こんな状態じゃ、シャワーを浴びに行くこともできない。
  夕陽を背に受けて、俺はカスミと手を繋いだまま眠りに落ちていった。

  深夜二時。
  夕方にうたた寝してしまったせいか、花田荘での最後の夜はなかなか寝つけなかった。
  しきりに枕の位置を変え頭をからっぽにしようと務めたのだが、どうにもうまくいかず、
 俺はついに布団から起き上がった。
 台所で水道水を飲んで座敷に戻る。暗闇に目が慣れて、カスミの寝姿がよく見えた。
  よく見ると、彼女は夜這い防止用のスタンガンを抱かずに布団にくるまっていた。半年間
 の共同生活において、こんなことははじめてだった。
  掛け布団の上からでもはっきりとわかる豊かな胸が彼女の呼吸に合わせて上下し、俺を誘
 っているかのように見えた。
  ――彼女は俺に襲われてもいいと思っているのだろうか?
  それとも、俺なら襲ってくる心配はないと気を許してくれているのだろうか。もしかする
 と、単にスタンガンを家具といっしょに処分してしまっただけかもしれない。
  いずれにせよ、今は絶好のチャンスだ。根拠はないが、相手がカスミなら勃起障害に童貞
 喪失を阻まれることもないような気がする。
  カスミの無防備な寝顔を見ていると、喉がごくりと鳴った。
 「やるなら、今しかないよな……」
  しかし結局のところ、俺はなにもせずそのまま自分の布団に戻った。
  別に怖気づいたわけじゃない。なにもする必要はないと思えたからだ。
  カスミが俺を信用してくれている。俺にはそれだけでじゅうぶんだ。
  なんとなく清々しい気分で床に就くと、今度はぐっすり眠れそうな気がした。
  共同生活の最後の夜は、こうして更けていった。
  契約期間、満了だ。


  四月一日の朝。
  俺とカスミはトランクを押しながら、縦に並んで成田空港の通路を歩いていた。
 「花田荘を引き払ってどこに行くのかと思えば、まさか海外旅行とはな」
 「ふふふ、驚きました? パスポートもちゃんと取得してるんですよ」
  荷物がぎっしり詰まったトランクの重みに息を切らしながら、カスミと笑みを交わす。
  ――なんなら、俺もその旅に同行してやってもいいぞ。
  そう言いたかったが、言えなかった。俺はトランクは持っているものの、パスポートは入
 院期間中に失効している。このままカスミとともに飛行機に搭乗しようとしても、警備員は
 俺の願いを聞き入れてはくれないだろう。
 「わざわざブラジルまで行って、いったいなにをする気なんだ。地球の裏側じゃないか」
 「まだナイショです」
 「自分探しの旅ってやつか。中田みたいに世界各国を放浪するつもりか?」
 「それもいいかもしれませんねぇ」
  軽口を叩きながらも、俺の胸は今にも張り裂けそうに痛み続けていた。
  俺たちが一歩進むごとに、別れの瞬間が迫ってくる。
  時計の針が一秒進むごとに、俺は時間を巻き戻したくなる。
  半年まえまで時間を巻き戻して、彼女の気持ちを繋ぎとめられたらいいのに。
  一からやり直せたら、真面目に働いてカスミを養って二人で暮らす。
  もっとも、今さら後悔してももう遅い。
  そんな俺の胸中を察してか、カスミはエスカレーターの一段上から笑ってみせた。
 「今生の別れってわけでもないですから。元気出してください」
  ついには軽口を叩く余裕もなくなり、苦笑いしか返せなくなった。
  予定より早く着いたので、四階の国際線出発ロビーでしばらく立ち話をした。
  ガラス窓に映る飛行機の機影をバックに、カスミは首から提げたネックレスの装飾を光ら
 せた。俺が彼女の誕生日に贈ったものだ。
 「寂しくなったら、これを見てご主人様のことを思い出します」
 「そうしろ。高かったんだからな」
  俺たちは向かい合い、周囲に人がいるのも忘れて笑った。
  泣きたい気持ちを顔に出すまいと必死だった。名残惜しさは言葉では語り尽くせないほど
 あったが、最後は笑って送り出そうと心に決めていた。
  いよいよ飛行機の搭乗時刻が近づいてくると、カスミは携帯電話でメールを確認した。
 「じゃ、私そろそろ行きますね。待ち人も到着したようなので」
 「待ち人? 一人旅じゃなかったのか」
  ブラジルを小旅行するとは聞いていたが、同行者がいるという話は初耳だった。カスミと
 親しい人間でぱっと顔が浮かぶのは涅槃の二番人気だったアオイというメイドだが、二枚看
 板がそろって不在では店の営業に支障が出るだろう。
  いったい誰と――と問いかけた矢先、カスミは顔を輝かせて通路を指差した。
 「あっ、ほら! ちょうど来てくれたみたいです」
  彼女の視線と指の先を目で追って。
  俺の心臓は凍りついた。
  行き交う人の波に流されることなく、その男は颯爽たる足取りで俺たちに近づいてくる。
 彼が身に纏う濃紺のスーツに見覚えがあった。国際線のアナウンスにまぎれて、革靴が床を
 叩く音でさえも聴こえてくるような気がした。
  茫然と立ちすくむ俺に、絶望の足音が一歩また一歩と近づいてくる。
 「シゲル……」
 「ひさしぶりだね、サトシくん。カスミのお見送りご苦労」
  はっとしてカスミの表情をうかがう。
  俺の仇敵を見つめながら、彼女はほのかに頬を紅潮させていた。普段は見せることのな
 い、俺に向けるのとはまったく違う種類の笑顔。
  彼女の隣に並んだシゲルは、いつもと同じ悪魔の微笑を浮かべていた。
  心臓が早鐘を打つ。
  不穏な胸騒ぎがして、俺はその場から動けなかった。
 「告訴の件は残念だったね。さすがに僕も肝が冷えたよ。検察のお偉方と一席設けていなけ
 れば、今ごろ僕は法廷にかけられていたかもしれない。なかなかスリリングなゲームだった
 よ。ともあれ、これで心おきなく海外出張に行くことができる。彼女を連れてね」
  そう言ったきり、シゲルはまるで俺から興味が失せたみたいにカスミに向き直り、二人で
 なにやら親しげに談笑しはじめた。
  半年間ご苦労だった。いいえ、とんでもありません。
  すぐ近くでそんな言葉が聞こえたような気がしたが、二人の会話はほとんど俺の耳に入っ
 てこなかった。ロビーの喧騒ですら遠ざかっていく。足もとが揺らいで、目に映る景色から
 色彩が失われていった。
  無限の空白が、俺の頭を埋め尽くす。
 
 「どういうことだ、カスミ……」
  俺が腹の底から絞り出した声で訊ねると、彼女は唇に手を当ててくすくすと笑った。
 「この状況を見てまだわからないんですか? ご主人様は本当に能天気ですねぇ」
  全身に力が入らず、膝頭が小刻みに震える。
  見慣れたカスミの笑顔の裏に、俺はなにか不気味なものを見たような気がした。
 「こうすればきみにも理解できるかい?」
  シゲルはそう言ってスーツのポケットからなにか光るものを取り出し、そいつをカスミの
 細く美しい指に優しく飾ってみせた。
  その瞬間、俺は三月のはじめの短い邂逅で彼が言ったせりふの意味を理解した。
  ――キミハ重大ナ見落トシヲシテイル。
  ソレニ気ヅカナイカギリ、キミノ復讐ガ成就スルコトハナイ。
  永遠に。
  指輪をはめた左手を掲げるカスミの肩を抱き、シゲルは不敵に唇をしならせる。

 「彼女は僕の婚約者だよ」

  最初からね、とシゲルが言ったとき、俺の中でひとつの季節が終わりを告げた。
  半年間の幸せな日々は砂となり、まばたきすら許さずに崩れ落ちてゆく。
  俺は親しげに肩を寄せ合う二人を見つめながら、動くこともできなかった。
  最悪の季節が幕を開けようとしていた。
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