round10『Venus & Private Eyes』

  年が明け、雑煮を食い、新番組のアニメに片っ端から目を通しているうちに、一月が終わ
 ろうとしていた。心移りの激しい外の世界は、すっかりバレンタインムード一色だ。
  俺の生活にさしたる変化はない。強いて以前との暮らしぶりの違いを挙げるなら、まんが
 喫茶に通わなくなった。朝から晩までずっと家にいる。それから美容院に行かなくなった。
 もっとも、これは経済的な事情とは別に、単に外に出るのが億劫なだけだが。
  会員制のオンラインゲームはイヴの夜に退会した。MSNメッセンジャーもアンインス
 トールしてしまったので、現実と仮想現実を問わず、hikashuと会うことはもう二度とない
 だろう。
  社会復帰とシゲルへの復讐計画は頓挫したままだ。なにがなんでも這い上がってやると息
 巻いていた日々が、今では教科書で見る年表のように、自分の生活に直結しない、知らない
 国の、遠い昔の、他人の手によって作られた物語としか感じられない。
  俺の物語が動き出すのはいつだろう。なにかの拍子に立ち上がるのはいつだろう。畳の上
 に寝転がりながら、最近よくそんなことを考える。そしてカスミのことも。
  春になって主従の契約期間が終われば、あいつは俺を見放すだろうか。俺は花田荘から追
 い出され、別々の暮らしがはじまるのだろうか。俺がご主人様ではなくなり、ただの夏見智
 史に戻ってしまったら、あいつは俺をどうするのだろう。俺をどう思うのだろう。
  最近よく、そんなことを考える。


  俺の親父は折に触れて、酒場に行けば世間のたいていのことはわかるのだと言っていた。
 いかにも酒飲みの親父らしい発言だが、数々の古きよき和製ロールプレイングゲームも、親
 父の教えが真理であることを証明していた。
  また、親父はこうも言っていた。誰かと密談をするなら、裏通りにあるバーを使えと。
 「とはいえ裏通りのバーがこうも繁盛してたんじゃ、密談にはちょ〜っと不向きかな。なん
 といっても都会のオアシスだからね! あっはっは」
  俺が親父の教えについて語って聞かせると、バーカウンターの奥に立つ大木戸さんは胸を
 そらせて得意げに笑った。ふやけた顔に、今まさに人生の春だと書いてある。
  先月、都内のビジネスマンを主要購買層とする有名なカルチャーマガジンに、マサラが紹
 介された。働くオトナのための都会のオアシス――そんなありがちな見出しで。雑誌が書店
 に並んだ時期にあくびが出るほど自慢されたので、俺まで覚えてしまった。
 「新宿に店舗移転してからというもの、最高益は更新し続けるわ雑誌には紹介されるわで、
 笑いが止まらんよ、まったく。この調子でいけば、銀座の一等地に姉妹店を作る悲願もそう
 遠くない未来に叶っちゃいそうだなぁ。あっはっは」
 「どうでもいいけど、ジン・トニックをもう一杯」
  あっはっはが語尾に定着しはじめた大木戸さんを追い払うようにして、俺は見かけだけ立
 派でその実子どものお菓子ほどの値段しかしないダイソー製の腕時計に目を落とした。あと
 数分で日付が変わる。待ち合わせの時刻は一時間もまえに過ぎているというのに、どこほっ
 つき歩いているんだ、あの馬鹿は。
  天井近くに設置されたスピーカーからはホール&オーツの代表曲が流れていたが(エイテ
 ィーズ信者の大木戸さんらしい選曲だ)、その軽妙なメロディにそぐわず、俺の心はささく
 れ立つ一方だ。カクテルもすでに五杯目に突入している。
  度を超えて時間にルーズな待ち人がようやく店内に姿を見せたのは、俺が六杯目のカクテ
 ルを注文しかけたころだった。
 「ヘーイ、ナイストゥーミーチュー、サトーシ!」
  運動会の選手宣誓みたいな陽気な大声に、店内にいた誰もがそいつに注目した。そしてぎ
 ょっとした顔になった。そいつの肌はこんがり小麦色に日焼けしていて、上下は白地のTシ
 ャツにデニムのホットパンツ、首から上はサングラスに麦わら帽子といういかにも季節はず
 れで場違いな装いだった。
  彼女はワインを楽しんでいた中年客たちのテーブルを縫って堂々たる足取りでカウンター
 席にやってきて、俺の隣にどっかりと腰を落ち着けた。
 「いやぁ、常夏のオーストラリア最高だったわ。海水は澄んでるし星空はきれいだし白人男
 性は情熱的だしで、もうたまんない。ついつい滞在期間延長しちゃった」
  小一時間遅刻しておきながらまったく悪びれた様子のない彼女に、俺は頬がひくつくのを
 抑えられなかった。
 「あのな、浪子。俺がわざわざ身銭を切って高い出張費を出してやったのは、おまえをバカ
 ンスに行かせるためじゃないんだぞ? ていうか、遅刻しといて詫びのひとつもなしって、
 どういう神経してんだよ」
 「まぁまぁ。時差ボケってことで勘弁してよ、ね?」
 「時差がなくてもボケてんだろ、おまえは……」
  深くて重いため息が出た。この女には一般常識という概念が通用しないのだと、あらため
 て思い知らされた。
 「これで調査に進展なしなんて言いだしやがったら、ただじゃおかないからな」
 「安心しな。こちとら伊達に探偵稼業やってないんだから」
  そうでなくては困る。俺がこの鼻持ちならない女にウン十万円からなる出張費を支払った
 のは、その私立探偵としての手腕を見込んでのことなのだから。
  浪子は大木戸さんにトム・コリンズを注文すると、サングラスをカウンターの上に置き、
 マッチで煙草に火をつけた。それは彼女の表情から観光気分が抜け、別のスイッチが入る音
 だった。ずいぶん時間がかかってしまったが、ここからが本番。密談の時間だ。
  まっすぐに煙を吐き出してから、浪子は俺の顔を見ずに言った。
 「今回の調査で、いくつかの新事実が判明したわ」
  ただしそれは必ずしも私たちに都合のいいものとは言えないかもしれない、とつけ加え
 て、彼女は渡貫茂に関する三度目の調査報告を開始した。

  俺の親父から社会的地位と五十億もの大金を奪った、シゲルによる巨額の横領事件。オー
 ストラリアでの土地資産運用をめぐるこの世紀の大犯罪は、現段階ではまだ明るみに出てい
 ない。そしておそらく、このまま世間に知られることなく闇に葬り去られる。俺が動かない
 かぎりは。
  シゲルの策謀はそれだけ周到に練られていた。親父は裁判所から破産宣告を受けるまえに
 一度、事件の引き金となったオーストラリアでの事業の現地責任者として、シゲルと当時親
 父の事務所に所属していた経理担当者を刑事告訴している。当然のなりゆきだ。親父にして
 みれば五十億は支払ったはずの借金なのだから。はめられた、と思わないはずがない。
  しかし訴訟には発展しなかった。東京地検特捜部は告訴を受けてシゲルと経理担当者をか
 なり念入りにに捜査したが、彼らのオフィスからも自宅からもほこりひとつ出てこなかっ
 た。証拠不十分となり訴えは退けられ、親父はずるずると破産手続に追い込まれた。シゲル
 はあくまで外部のコンサルタントとみなされ、事業に直接の関わりはないものとして経営責
 任を問われることはなかった。すべてはシゲルの書いたシナリオ通り。俺たち親子はあいつ
 の手のひらで踊らされているに過ぎない。
  どうにかしてそいつを立証するために、俺は検察がつかめなかった証拠をつかむべく、浪
 子をオーストラリアに送り込んだ。自力での社会復帰がきわめて困難な現状では、俺がもと
 の豊かな暮らしを取り戻すための手段は、シゲルの本性を暴く以外にない。認めてしまうの
 は癪だが、今の俺にとってはこのずぼらな私立探偵だけが頼みの綱だ。
  指先でグラスの中の氷を遊ばせながら、浪子は鋭く宙を見つめた。
 「シゲルと共謀してあんたの親父からカネを奪った経理担当者。あいつはあんたの親父がビ
 ルを建設した三年前から、現地でオーストラリア米で日本酒を醸造するビジネスをやってい
 るわ。その会社がどうも臭い。業績の伸び率が異常なのよ。個人が片手間でやれる域を超え
 ている」
  浪子は鞄からくしゃくしゃになった書類を取り出し、カウンターの上に並べた。グレート
 バリアリーフの観光パンフレットだった。
 「ごめん、間違えちった」
  がくんと肩が落ちた。シリアスな雰囲気を持続させないことにかけては、この女は超一流
 だ。
  本当はこっち、と言って差し出されたのは、パルギア酒造という聞き覚えのない企業の事
 業報告書のようだった。書面はご丁寧に英語と日本語のバイリンガルだ。
  俺がこんなものどうやって入手したのかと訊ねるまえに、浪子が機先を制した。
 「見てもらえばわかると思うけど、代表には別の人間の名前が置かれているわ。おそらく検
 察の追及を逃れるための目くらましね。私の見立てでは、シゲルが偽造した銀行関係の書類
 はこの酒造メーカーが発信源になっていた確率が高い」
  まさかの朗報に、俺は体内に溜めこんだアルコールがいっせいに発火したかのような興奮
 を覚えた。
 「すごいじゃないか浪子! こんな重要な手がかりを入手して帰ってくるなんて――」
  それはまさに最高の手土産だった。この名探偵よりは迷探偵という冠のほうが似合いそう
 な女がこれほどの大手柄をあげようとは、正直思ってもみなかった。いい意味で予想を裏切
 られたかたちだ。
  しかし浪子はあまり満足していない様子だった。シビアな表情で首を横に振っている。
 「ダメよ、これじゃ足りない。信頼できる確かな物証をつかまないうちは、ものごとは前に
 は進まない。大学を出てるんだったら、あんただって耳にしたことくらいはあるでしょう。
 疑わしきは罰せず。刑事法の大原則よ」
  興奮したのも束の間、俺のテンションはガスの抜けた気球みたいに緩やかに下降線をたど
 っていった。浪子の言う通りだ。法廷で争うには憶測だけでは分が悪すぎる。そしてシゲル
 はたとえそれが髪の毛一本であろうとも、自分にとって不都合な真実は徹底的に隠ぺい、あ
 るいは隠滅するだろう。あいつはそういう男だ。だからこそ地検も両手を挙げて降参したの
 だ。
 「さすがの私も、これ以上は協力してあげられる自信がないかな」
 「依然打つ手はなし、か……」
  重苦しい空気がバーカウンターを覆った。これでまた俺の復讐計画はふりだしに戻ってし
 まった。袋小路に迷い込んだ俺の物語は、今回も動き出す契機を得られなかった。
 「これから先どうするかは、あんた次第だよ。待ってたってシゲルのやつの鼻を明かすチャ
 ンスがめぐってくるわけじゃない。やるかやらないか、決断のときが来てんのよ」
  やるってんなら力を貸してあげる――浪子はそう言った。物語を動かせるのは自分しかい
 ないのだと、暗に諭されているようだった。
  しかし俺は、今もってなお腹を決めかねていた。無気力症候群というやつだろうか。イヴ
 の夜からこっち、去勢された犬同然に気力という気力が身体から抜け落ちてしまった。かわ
 りに身についたのは、救いがたい負け犬根性のみ。今はもう、勝ち目のない戦いを挑むよう
 な気は起きない。どんな気も起こらない。
 「ところで、おまえの腕を見込んでもうひとつ頼みたいことがあるんだが」
  俺はひとまず決断は保留し、話題の転換によってこの暗く湿った雰囲気の打開を試みた。
 それは新年を迎えてからこっち、頓挫した社会復帰や復讐計画と並んで俺の頭を悩ませてい
 る案件だった。
  報酬次第だけど、と返されて少し迷ったが、ほかに相談できるような相手もいない。思い
 切って話してみることにした。
 「実は、尾行調査に協力してもらいたい」
  グラスの底に溜まった水を飲み干そうとして、浪子が目をぱちくりさせた。
  それは新年を迎えて以来俺の頭を悩ませている案件であり、それ以上にカスミの頭を悩ま
 せている案件だった。


  ことのおこりは元旦にまでさかのぼる。
  その日、俺とカスミは初詣のため、新井薬師公園近くにある北野神社に参拝していた。
  無病息災と大願成就を祈って名も知らぬ神に柏手を打ち、心づけ程度の硬貨を賽銭箱に投
 じ、信頼に値しないおみくじ(そう決めつけたくなるような結果だった)を境内の木の枝に
 結び、帰ったらおせちの残りでも食おうかと考えていた俺に、カスミがそっとささやいた。
 「誰かに見られている気がします……」
  最初、俺はカスミの言っていることの意味がよくわからなかった。誰かに見られている気
 がします? それはストーキングされているという意味かと訊ねると、カスミは小さくうな
 ずいて、背後にじめっとした視線を感じると答えた。
  気になって振り返ってみたものの、それらしい人物の姿は見当たらない。大盛況とまでは
 いかないにしろ、そのときの北野神社には決して少なくない数の参拝客がいて、とてもカス
 ミの予感の正否を確かめられそうになかった。見ようによっては誰もが不審者に見えたし、
 そうでないようにも見受けられた。結局、そのときはカスミの気のせいだという結論に落ち
 着いた。
  それからしばらくは、平穏そのものの日々が続いた。
  変わったことといえば、花田荘の裏庭を根城にしていた近所の野良犬がカスミに懐いてし
 まったことくらいだ。カスミのほうも毎日エサを与えているうちに愛着が湧いたらしく、こ
 のころからそいつを飼い犬のように可愛がりはじめた。
  またしてもカスミが異変を訴えたのは、今から二週間ほどまえのことだ。
 「やっぱり誰かに見られている気がする……」
  今度は気のせいではなかった。俺も同じ違和感を察知していたのだ。そのとき俺たちは中
 野ZEROホール地下の図書館にいたのだが、注意深く背後を振り返ってみると、モグラ叩
 きのモグラみたいに素早く書棚の裏に隠れる怪しい人影が確かに見えた。
  その後も何度かそんなことが続いた。あるときは中央線の高架下で。またあるときはサン
 プラザに隣接する広場で。花田荘の裏庭で例の野良犬とたわむれていたカスミが、誰かの気
 配を感じて逃げるように部屋に戻ってきたこともある。
  正体不明の影は区内のあらゆる場所に出没し、カスミの日常生活を脅かした。
  もはや気のせいなんかでは済まされない。
  ――この街のどこかに、カスミをつけ狙うストーカーがいる。
  不審者の影は日増しに濃くなっていく。最近では外出すれば三回に一回は必ず誰かの視線
 を感じるとカスミは言う。俺が自宅警備員としての務めを立派に果たしているせいか、今の
 ところ盗聴器をしかけられたり下着を盗まれたりといった実際的な被害は被っていないが、
 おそらくそれも時間の問題だろう。
  カスミはすっかり怯えきってしまい、夜も眠れぬ日々が続いている。食事もあまり喉を通
 らないようだ。本人はなにも言わないが、毎日こんな調子では、メイド喫茶での業務にも少
 なからず悪影響を受けているに違いない。
  どうにかしてストーカーの尻尾をつかまなくてはならない。それから縄で縛って警察に突
 き出さなくてはならない。
  でないと、共同生活の期限が切れるよりも先に、カスミが心労で倒れてしまう。
  それはたった一人のメイド以外なにも持たない今の俺にとって、もっとも憂慮すべき事態
 なのだ。


 「そこで私の出番ってわけだ!」
  新聞紙から顔を上げて、浪子はサングラスの縁を怪しく光らせた。バッシティーバッバッ
 シティーバッと小声で探偵物語のテーマソングを口ずさんでいるところを見ると、どうやら
 この女はこの状況を楽しんでいるようだ。毎度のことながら、緊張感に欠ける女だ。
  俺たちは今、昼下がりの中野区一丁目にいる。いつもなら糞スレを立ててけいおん厨を煽
 っているか午睡を楽しんでいるはずのこの時間に俺がこいつと行動をともにしているのは、
 カスミをつけ狙う変態ストーカー野郎を見つけ出すためだ。遊んでいるわけじゃない。
 「なのになんなんだよ、この格好は!」
  俺はあらためて喫茶店の軒先に立つ自分たちを頭からつま先までファッションチェックし
 た。くすんだ色合いのトレンチコートに、つばの広い格子柄のキャスケット。サングラスで
 顔を隠し、両手にはどこの国のものともわからない、年季の入った英字新聞を広げている。
 古典的な探偵ルック。およそ昼下がりの住宅地にはふさわしくない出で立ちだ。
 「もはや訊ねるのも面倒臭いが、わざわざ変装する必要性はあったのか? これじゃまるで
 俺たちが不審者じゃないか」
 「わかってないなぁ。尾行調査ってのはね、雰囲気が大事なのよ、雰囲気が」
  なるほど、要するにこの女は形から入るタイプだというわけだ。
 「で、その雰囲気とやらのせいでさっきから目立ちまくっているわけだが?」
 「ノンノン。気にしたら負けよ、ジャリニート」
 「知らん間にジャリボーイから格下げされとる!」
 「おっと、ターゲットが動き出したわよ」
  不満を訴える俺を押しのけて、浪子は喫茶店の軒先から電柱の陰へと、バッタのように足
 早に移動した。街行く人々の視線が痛かったが、俺も寸劇を中断し、ひとまず彼女のあとを
 追った。こそこそと動き回りながら、障害物に隠れてターゲットを追跡する。任務遂行中の
 特殊工作員にでもなった気分だ。
 
 「どうやら花屋に用があるみたいねスネーク」
 「そのようだなメイ・リン」
  なんだかんだで探偵ごっこを楽しむ俺たちの視線の先には、休日を利用して中野の街を散
 策するカスミの姿があった。

  ただ闇雲に街をぶらついているだけでは、神出鬼没のストーカーをつかまえることはでき
 ない。物好きなオタクたちが関東全域から集まるこの街では、たった一人の人間をあぶり出
 すのは至難の業だ。蟻の巣から一匹の蟻を探すのと同じように。
  かといって犯人の目星をつけようにも、下手にあちこち嗅ぎ回れば感づかれてしまうおそ
 れがある。一度犯人に潜伏されてしまうと、見つけ出すのは容易ではない。
  そこで俺は一計を案じた。方法はいたってシンプル。正体不明のストーカーが連日カスミ
 を尾行しているように、俺たちも行く先々でカスミを尾行するのだ。そうしていれば、どこ
 かで犯人が尻尾を出すかもしれない。餌で蟻をおびき寄せるのだ。
 「とはいえ、そのために自ら尾行調査に乗り出すなんて、あんたよっぽどあの娘のことが好
 きなのね。可愛いメイドさんのためなら、たとえ火の中水の中ってやつ?」
  児童公園の植え込みを盾にして隠れていた浪子が、だしぬけにそんなことを言って俺をか
 らかった。俺は草花の陰から頭だけ出して十数メートル先を歩くカスミに視線を固定したま
 ま、同じく隣に屈みこんでいる浪子に抗弁した。
 「ふん、誰があんな貧乏臭い女に惚れるものか。家にいてもすることがないだけだ」
 「またまたぁ。そんなこと言っちゃって、本当は好きなんでしょ? あんたも隅に置けない
 わねぇ、うりうり」
 「うるさい。無駄話をしている暇があったら、ターゲットをしっかり見張ってろ」
  にやけながら肘で俺の肩をつついてくる浪子を押し返して、俺は静かな住宅地を歩くカス
 ミの背中をじっと見つめた。
  働くことを諦めてから、暇を持て余していたのは事実だ。昼間はネット上で「初音ミクの
 画像ください」とか「おまえらどのアニメキャラとズクダンズンブングンゲームしたい?」
 と呼びかけても相手をしてくれる人間の数はほんの一握りだし、動画サイトに入り浸るのに
 飽きれば、ほかに趣味を持たない俺に残された選択肢は、昼寝かオナニーのいずれかに絞り
 込まれてしまう。盆栽でもはじめたほうがまだいくぶんか有意義な時間を過ごせるんじゃな
 いかとすら思う。することがない、という言葉に嘘はない。
  しかしそれはあくまで建前に過ぎない。時間があろうとなかろうと、浪子が協力しようが
 すまいが、俺はストーカーを見つけ出そうとしたはずだ。
  労働を放棄し、まんじりとも前進しない復讐計画を投げ出したイヴの夜から、俺は暇さえ
 あればカスミのことを考えている。あの夜感じた肌の温もりを、記憶のテープが擦り切れそ
 うなくらい、何度も何度も思い返している。
  どうして俺はあいつのことばかり考えてしまうのか。どうして自分に害があるわけでもな
 いのに、あいつをつけ狙うストーカーを捕獲しようとこんなに躍起になっているのか。
  実のところ、理由は俺にもよくわからない。


  こうして正体不明のストーカーとのかくれんぼがはじまった。
  毎日正午過ぎに野良犬にエサをやってから出勤するカスミを見送ったあと、一分程度の間
 隔をあけてそのあとを追い、通勤ルートの近くで待機している浪子と合流してカスミを尾行
 する。
  カスミがブロードウェイの三階にあるメイド喫茶に到着してからは、ななめ向かいのブッ
 クカフェから二時間交代制でメイド喫茶・涅槃の客に怪しいやつがいないか観察。ストー
 カーが尻尾を出す確率がもっとも高い帰り道はもちろん、カスミが休日に外出する場合も事
 務所で趣味の悪い雑貨と骨董品に埋もれて寝ている浪子を叩き起こして調査を継続した。
 「しっかしえらい人気ねぇ、カスミちゃん」
  調査開始から一週間が経ったある日、浪子がショートケーキに添えられていたさくらんぼ
 を舌で転がしながらそう言った。そのとき俺たちはブックカフェの窓際のテーブルに陣取
 り、カップルのふりをしてメイド喫茶・涅槃の様子を外から注視していた。
 「華があるってんじゃないけど、癒し系っていうのかしらね。中野のヴィーナスと呼ばれる
 のもわかる気がするわ。見てよほら、男どものあの幸せそうな顔」
  確かに、こうして連日カスミの仕事ぶりを観察していると、彼女の客ウケのよさには目を
 見張るものがあった。もはや涅槃の経営は彼女によって成り立っているといっても過言では
 なく、彼女に会うためにわざわざ他県から出征してくる客も少なくなようだ。中には眼福眼
 福と言って両手を合わせ、彼女を聖母かなにかのように拝んで帰る連中もいる。
 「あんな娘といっしょに暮らしてるんだから、あんた幸せ者だよ」
  カスミといられることが幸せ――そんなこと、これまで考えもしなかった。
  父親の借金のカタにカスミが俺のもとにやってきてから一年半、間俺たちはずっといっし
 ょだった。俺がご主人様で、彼女は従順な召し使い。それが当たり前の日常だった。
  いつかカスミがいなくなってしまったら。二ヶ月後、主従の契約が切れてしまったら。
  俺はこの当たり前の日常が、幸せだったと思うのだろうか。どっかの一発屋の歌手みたい
 に。
 「犯人は内気で小心者。こりゃカスミちゃんの人気に嫉妬した同業者って線はなさげだね」
  浪子は腕組みをして、一人でうんうんとうなずいていた。
 「どうしてそう思うんだ?」
 「犯人の目的がカスミちゃんを精神的に追い詰めることなら、脅迫電話のひとつくらいよこ
 してくるんじゃない? それに犯人が頭のイカレた真性の変態野郎なら、あんたに危害を加
 えてこないのもおかしいでしょ。カスミちゃんとデートしてるとこ、何度も目撃されてるわ
 けだしさ。ゆえに犯人は小心者」
  出来の悪い教え子に数式を解説する家庭教師のように言ってのける浪子。なるほど。俺は
 カスミの台頭により涅槃の一番人気から失脚したと噂されるアオイとかいうメイドが怪しい
 のではと踏んでいたのだが、どうやらそうでもなさそうだ。
 「だけどこうも考えられるわね」
  浪子は果汁に濡れた親指をぺろりと舐めて、神妙な顔つきで俺を見据えた。

 「ストーカーは渡貫茂の手先で、あんたたちの仲を引き裂こうとしているのかもしれない」

  自分の喉がごくりと鳴るのがわかった。その可能性は俺も考えないではなかったが、あら
 ためて他人の口から提示されると、全身が粟立つような薄気味悪さを感じずにはいられなか
 った。
  俺がシゲルを目の敵にしているように、シゲルもまた俺に対して偏執的ともいえる復讐感
 情を抱いている。俺にしてみればとばっちりみたいなものだが、やつが母親を奪い家庭を壊
 した俺たち親子に注ぐ怨念には尋常ならざるものがある。hikashuを利用して俺の転落人生
 を監視していたのがいい例だ。やつは全力で俺を潰しにくる。
  hikashuからの報告で、シゲルは俺がカスミとささやかな共同生活を送っていることを知
 っているはずだ。ならばやつが希望の芽を摘むために俺からカスミを奪おうと考えたとして
 も、なんら不自然ではない。
 「ま、それも仮説の域を出ないけどね。だけどあんたがカスミちゃんのことをちょっとでも
 大切に思ってるなら、覚悟はしておいたほうがいいかもね」
  さらっとした口調でそう言うと、浪子は音をたてて行儀悪くアイスコーヒーをすすった。
  俺は彼女の言葉に含まれた示唆的な問いかけに答えることができなかった。
  もしも誰かにカスミを奪われたら。
  そのとき俺は、どうなってしまうのだろう。
  またひとつカスミにまつわる疑問が追加された。いつの間にか、俺の脳の大部分をあいつ
 が占めている。あいつの笑った顔が、脳の裏側に刺繍されている。


  あくる日も、そのまたあくる日も、カスミの尾行調査は続いた。
  ストーカーは依然として姿を現さない。いつ遭遇できるかもわからない犯人を探して連日
 街中を動き回っていると、当選発表は商品の発送をもって代えさせていただきますと注釈が
 添えられた懸賞に参加している気分になる。
  それでも俺たちは、忍耐強くこの終わりの見えないハイド・アンド・シークを続けた。
  浪子は俺が支払う報酬を目当てに。では俺は、いったいなにを目当てに?
  疑問は解決されぬまま、調査開始から十日が過ぎようとしていた。
  事件はその日の夜に起こった。


  夜になると、俺はカスミが無事帰宅するのを見届けてから浪子と別れ、不自然にならぬよ
 う間隔に気を配りつつ、カスミに一足遅れて花田荘に戻る。
 「おかえりなさいませご主人様。今日も秋葉原にお出かけだったんですか?」
 「ああ。どうしても見ておきたいステージがあってな」
  カスミを追跡して市井を転々としている間、俺はニートという立場上売るほど余っている
 時間を利用して、秋葉原を散策していることになっていた。この日は現役女子高生アイドル
 のライブに参戦してきたという名目で帰宅した。
 「ところで、あのダンボール箱はどこで拾ってきたんだ?」
  洗面所で手を洗い座敷に入ると、薄汚いダンボール箱がちゃぶ台の上にどっかりと腰を下
 ろしていた。ガムテープを何枚も重ねて粗雑に密封されているところを見る限り、贈答品の
 類ではなさそうだ。
 「家に帰ったら玄関の前に置いてあったんです。大家さんが気をきかせて季節の果物でもお
 すそわけしてくれたんじゃないでしょうか。開けてみます?」
  カスミが電話台の抽斗から取り出してきたカッターナイフでダンボールの口を開けるのを
 隣で見ながら、俺はなにか様子が変だと感じていた。
  確かに、留守中にカスミと懇意にしている大家が野菜や果物を贈ってくることはあり得な
 い話ではない。だが、普通たかが野菜や果物をここまで念入りに梱包するだろうか。それ
 に、さっきから座敷にわずかに漂っている、この異臭はなんだ。
 「おみかんだったら嬉しいんですけどねぇ」
 「ちょっと貸せ!」
  俺は悪い予感に突き動かされ、咄嗟の判断で開きかけたダンボール箱をカスミの手から取
 り上げた。彼女に背を向けてそいつを畳の上に置き、慎重に中身を確認する。
  そしてほとんど反射的に口もとを覆った。
 「なんなんだ、これは……」
  吐き気をこらえながら、奇妙な形に顔をゆがめてそこにあるものを再度確認した。
  ――ダンボールの中には、腹を裂かれ、体内に爆弾を埋め込まれたみたいに無残に内臓を
 飛散させた、犬の死骸が安置されていた。
  箱をのぞき込んだまま動けなくなっていた俺は、なにかが落ちる音ではっと我に返った。
  背後を振り返ると、カッターナイフを畳の上に落としたカスミが、血の気を失ってその場
 に凍りついていた。


  時計の針は、もうすぐ午前一時を回る。
  無残な姿になった野良犬を裏庭に埋葬してやってから一時間半、俺はテレビもパソコン
 も、部屋の明かりすらもつけずに、座敷でもの思いにふけっていた。
  声を殺して泣き続けていたカスミは、今はベランダの窓からさす薄明かりの中で、護身用
 のスタンガンを抱くのも忘れて静かに眠っている。しかしその寝顔は、悪夢にうなされてい
 るみたいに苦しそうに見えた。よほどショックが大きかったのだろう。幸福とはほど遠い最
 期を迎えたあの野良犬は、カスミが可愛がっていた野良犬だった。
  部屋全体が喪に服しているような、静かな夜だった。
  静けさの中にいると、見えてくるものがある。たとえば、ダンボール箱に詰められた野良
 犬。あれは内気で小心者のストーカーからの警告だった。浪子が言ったように、犯人がカス
 ミとともに暮らしている俺に危害を加えてこないのはおかしい。このままカスミといっしょ
 にいれば、俺もいずれああなる。
  だが不思議と恐怖心はなかった。なぜだろう。苦しそうなカスミの寝顔を見ていたら、俺
 が弱気になっている場合ではないような気がした。
  しばらくそうしていると、ある特別な感情が俺の頭を支配した。
  それは天啓のように突如俺の脳天を貫き疑問の雲を切り裂いて、こう告げていた。

  カスミを、守りたい。

  誰も彼もが俺を裏切っても、こいつだけは俺を見捨てなかった。こいつはなにもかもを失
 った俺に残された、たったひとつの財産なんだ。俺はこいつだけは守らなくてはならない。
 守り抜かなくてはならない。
  たとえ相手がストーカーであろうとも、俺の破滅を目論むシゲルであろうとも。
  たとえこの先、俺たちがご主人様と召し使いではなくなろうとも。
  誰にもこいつを奪わせはしない。奪われる覚悟をするくらいなら、俺は俺のために守る道
 を選ぶ。だってそうだろう。召し使いの一人も守れないようでは、ご主人様失格だ。
 「ありがとう」
  眠ったままのカスミに礼を言って、俺は畳の上から重い腰を上げた。
  ようやく自分が今すべきことがわかった。
  ――おまえのおかげだ。

  俺は携帯電話を手にベランダに出ると、迷わず武蔵小路探偵事務所の番号をプッシュし
 た。就職どころか日雇いのアルバイトもろくにこなせない。社会復帰が絵に描いた餅となっ
 てしまった俺にも、できることがあるはず。俺の復讐はまだ終わっていない。
 「も〜、こんな遅くになんの用? 人肌恋しいとか言わないでよね」
  寒風に身を縮めながら一分ほど執拗にコールしたすえ、浪子が電話に出た。ガラクタの山
 に埋もれて眠気まなこをこすっている姿が目に浮かぶようだ。
  深夜に叩き起こしてしまった非礼を詫びつつ、用件だけを手短に伝えると話した。
 「攻撃は最大の防御って格言を知ってるか?」
 「は? 知ってるけどそれがなにか?」
  寝起きの浪子は往々にして不機嫌だ。まぁ、今回ばかりは俺が悪いのだが。
  先日彼女が言ったように、俺は決断せねばならなかったのだ。たとえそれが誰の目にも明
 らかな負け戦だとしても、俺の物語を動かせるのは俺しかいない。
  決して冴えたやり方ではないかもしれないが、これが俺に残された、大切なものを守るた
 めの、たったひとつのやり方だ。
  うだうだ言っててもしかたない。どうせ手札は一枚しかないのだ。そいつを使うまでだ。
 「裁判だ」
 「なに? サイパン?」
  まだ寝ぼけているようなので、浪子の頭にしっかり届くように、眠気覚ましのつもりでは
 っきりとこう言ってやった。

 「渡貫茂を、告訴する」
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