game set『あんたのどれいのままでいい』

  シゲルとの因縁の結末を語るまえに、ちょっとだけ寄り道をしよう。


  三ヶ月まえ、俺とハルカは念願の結婚式を挙げた。
  籍を入れてこのかた、俺がころころと職業を変えたりフランスに武者修行の旅に出たりバ
 ーテンダーになって名を上げるのに躍起になったりしていたせいで、ハルカには苦労をかけ
 っぱなしだった。その罪滅ぼしというわけではないが、俺とシゲルの復讐対決が決着したの
 を機に、ハルカが長年抱いていた夢を叶えてやることにしたのだった。
 「あのサトシくんがこんなに立派になるなんてねぇ。師匠として鼻が高いよ、師匠として」
 「その師匠ってのやめてくんない?」
  新郎控室に顔を見せにきた大木戸さんが、感慨深げにうなずいている。俺がテレビに出る
 ようになってからというもの、会うといつもこんな調子だ。
  かたやテレビに出るきっかけを作ってくれたヒカリはというと、恩着せがましいところは
 いっさいなく、控室の手の込んだ装飾に目をキラキラさせていた。
 「ヒカリちゃんは結婚の予定とかないの?」
 「え〜、ないですよ。だっていい人いないもん。サトシはハルカさんに取られちゃったし」
 「モテそうなのにもったいないわね。あ、そうだ。今度イケメン俳優紹介してよ」
  テーブルに用意された菓子を口に運びながら、わざと大木戸さんを悲しませるような発言
 をする浪子。結婚願望なんてまるでなさそうだが、親父との仲はどうなっているのだろう。
  そういえば、親父はこんなときにどこで油を売っているのだ。あと十分ほどで新郎新婦入
 場の時間だというのに、さっきから姿が見当たらない。
  まさか新婦控室にちょっかいを出しに行ったのではあるまいな、と思った矢先、七釜戸さ
 んが血相を変えて部屋に飛び込んできた。

 「大変だ! ボスが倒れた!」

  ぎょっとして固まる俺たち。
  七釜戸さんの言葉の意味はすぐに飲みこめた。親父はもういい歳だ。ましてや、近年は医
 者にも身体のあちこちにガタがきていると宣告されていた。いつ倒れてもおかしくない。
  一瞬にして天国から地獄に突き落とされた気分だった。
 「急いで来てくれ!」
  返事よりも先に、俺はタキシード姿で新郎控室を飛び出していた。

 「飲み過ぎですね」
  搬送先の病院で、親父はあっさりと意識を取り戻した。担当医の説明によれば、胃腸が荒
 れていたのが原因で昏倒しただけで、生命に関わる問題ではなかったようだ。結婚式をほっ
 ぽり出して病院まで付き添った俺とハルカと七釜戸さんは、それを聞いていっせいに胸を撫
 で下ろした。
  当の親父はというと、今は病室のベッドに横になり、あっけらかんとした顔で若いナース
 を口説くのに夢中になっている。我が父親ながら呆れた生命力だ。
  ナースが出ていったあと、俺たちは少し話をした。
 「やれやれ。一時はどうなることかと思ったよ」
 「心配するな。夏見英一は不滅だ」
  純白の歯を光らせ、二本の指を突き立ててみせる親父。
  指輪だらけのその拳に、ウェディングドレスを着たハルカが優しく両手を添えた。
 「お義父さんったら。もう若くないんだから、あんまり無茶な飲みかたしないでください」
 「いい嫁さんをもらったな、マイサン」
  嬉しそうに目を細める親父に、俺は無言で返事をした。
  その一方で、今日の出来事を忘れないでおこうと思った。
  人間の命は消費財だ。生きていれば、この先どこかで大切な人の死に直面することもある
 だろう。今回は大事にいたらずに済んだが、心の準備はしておかなくてはならない。
  ――俺にとって最大の財産は、永遠には手もとに残しておけないのだから。
 「ところでマイサン、初夜権という言葉を知っているか」
 「は?」
  親父の予期せぬ質問によって、俺の感傷タイムは唐突に打ち切られた。
 「中世の社会では、土地の有力者には新婚夫婦の花嫁と性交する権利が……」
 「行こうハルカ。親父といっしょにいたら危ない」
 「待て、日本にも昭和初期まで仮一夜と呼ばれる儀式が……!」
  まったくこの親父ときたら、若い女には見境がない。
  俺はハルカを外に避難させながら、このぶんだと親父は長生きするだろうなと思った。


  この十日後、親父は七十四歳で他界した。
  死因は後頭部強打による脳挫傷。いっしょにいた七釜戸さんの話によれば、レコード会社
 の友人たちを連れ回して六本木の街を飲み歩いた帰りに、うっかりビルの階段で足を滑らせ
 たそうだ。親父らしいといえば親父らしい幕切れだ。
  葬儀には日本全国から三万人のファンが駆けつけた。中にはヒットチャートをにぎわせて
 いる現役ミュージシャンの姿も散見され、親父の偉大さとその遺伝子がこの国の音楽史に永
 久に受け継がれていくことを実感した。
  出棺のとき、俺は親父に「ほれ見ろ」と言われた気がした。
  この世に音楽がある限り、夏見英一の魂は不滅だ。


  ついでと言ってはなんだが、みんなのその後についても少し触れておこう。
  大木戸さんは相変わらず銀座にあるマサラの二号店でバーテンダーをしている。折に触れ
 て夏見智史はワシが育てたと大物風を吹かせており、若い同業者たちにたいそう尊敬されて
 いるようだ。ちなみにまだ独身で、恋人は常時募集中。尊敬されてはいても、女はなかなか
 寄ってこないらしい。
  浪子は最近になってアメリカから帰ってきた。むこうの賭場を散々荒らし回ってヤバい連
 中に目をつけられたとかで、今後は中野で探偵稼業を再開する予定だという。先日、開業準
 備中の武蔵小路探偵事務所に顔を見せに行ったら、壁にでかでかと親父のポスターが貼って
 あった。俺の店に探偵を探している客が来たら、彼女に仕事をあっ旋してやろうと思う。
  ヒカリは押しも押されぬ超人気声優に成長した。声優業と並行してアイドルや歌手として
 も活動しており、昨年の紅白歌合戦ではトップバッターを務めた。これには頭の固そうな彼
 女の父親もさぞかし驚いたことだろう。彼女は売れっ子になった今でも、たまに俺の店に遊
 びにきてくれる。俺たちはずっと、一番の親友だ。


  で、俺はというと。
 「今蹴ったんじゃないか?」
 「うそ、時期的にはまだ先のはずよ」
 「なんだ、おまえの腹が鳴っただけか」
 「怒るわよ」
  ふくらんできたハルカの腹部にそっと耳を当て、幸せの鐘が鳴り響くのを待っている。
  ハルカが胎内に子を宿して十一週。こうして経過を確認するのが、毎日の習慣になりつつ
 ある。この待ち遠しさは、CDやゲームの発売日を待つのとは比較にならない。
  復讐にかまけていた二十代のころは、意味を求めるのに一生懸命で、想像もしなかった。
  生きているだけで、幸せ――そんなふうに思える日が来るなんて。
 「どっちに似るかな?」
 「俺はおまえに似てしっかり者に育ってほしい」
 「私はあなたに似てたくましい子に育ってほしい」
  ただの会話がこんなにも楽しく感じられるのも、おめでたの効用かもしれない。
  もっとも、妊娠が発覚した当初、俺たち夫婦はモメにモメていた。ハルカは体力的に出産
 に耐えられないと医者に言い渡されていたからだ。それでも産むと主張して譲らなかったの
 は彼女のほうだった。おそらく、母親としての使命感がそうさせたのだろう。
  今では俺も、ハルカの意志を尊重し、できる限りのサポートをしている。二人で相談した
 結果、産まれてくる我が子には、男なら英二、女なら愛里と名前をつけてやる予定だ。
 「じゃ、行ってくるよ」
  俺は底の厚い紙袋を手に取って、愛する妻にキスをする。そしてワインセラーに並ぶワイ
 ンの瓶の底に見守られながら、貯蔵室の出口へ向かう。
  今日、都内のホテルで渡貫茂の政界進出五周年を記念するパーティーが開かれる。政界進
 出五周年の記念なんてのは建前で、その実態はよくある政治資金パーティーだ。俺はそこに
 後援会が用意したサプライズゲストとして招かれていた。
  紙袋の中には、冷たく黒光りする一丁の回転式拳銃。命を刈り取るために作られた道具。
 復讐の体現者。こいつとも、シゲルとも、今日でお別れになる。
 「無事に帰ってきてね、お父さん」
  俺は心配そうに見つめるハルカに向けてこくりとうなずき、重たい貯蔵室の扉を開いた。
  ――シゲルとの因縁を、終わらせるために。


  パーティー会場のホテルに向かう途中、奇妙な光景を目の当たりにした。
  野暮用でお台場に立ち寄り、付き合いのある卸問屋で輸入ワインの発注をし、襲撃まで二
 時間をきったころだった。オフィス街のビルの谷間に、巨大な人だかりができていた。
  俺ははじめ、アイドルが街頭プロモーションでもしているのかと思った。だが、人々の視
 線が上を向いているのに気づき、そうではないのだと知った。
  フェンスが張りめぐらされたビルの屋上には、拡声器を手にしたみすぼらしい男の姿。
  彼は夕暮れ色の空をバックに、通行人の横っ面をはたくような大声で獅子吼した。
 「パワハラで俺を辞職に追いこんだ工務店のクソども! よく聞け! おまえらのせいで、
 俺は生きる気力を失った! 再就職しようにも、中卒じゃろくな仕事にありつけない。三十
 を過ぎて女もいない。こんなんじゃ、生きている価値なんてない! だから死ぬんだ!」
  男が拡声器を下げると、聴衆から惜しみない拍手が送られた。
  ……どこかで見たような光景だ。
  気になって、俺は近くにいた見物人に訊ねた。
 「おい、どうして誰も止めないんだ」
 「毎年の恒例行事だからな。本当に飛び降りたりはしないさ。その証拠に、ほら」
  言われて無数の頭の隙間から聴衆の最前列を覗きこむと、ビルの真下にアスレチックに使
 われるような網が設置されていた。周辺には警察官も待機している。なるほど、これなら万
 が一のことがあっても安心だ。
 「十年くらいまえだったか。生きることに疲れたニートのカップルが、あいつと同じように
 このビルから飛び降りようとしたらしくてな。共感した自殺志願者が殺到して、大演説会に
 発展したんだと。それが反響を呼んで、毎年新生活シーズンになると真似するやつが現れる
 んだよ。ま、季節の風物詩ってやつだな。メーデーが労働者のお祭りなら、こっちはニート
 のお祭りみたいなものさ」
  俺とヒカリの魂の叫びが、まさかこんな形で引き継がれていようとは。面映ゆくなり、俺
 は早々にこの場を立ち去りたい気分に駆られた。
  ビルの屋上では、先ほどの男が若い女性に拡声器をバトンタッチしている。
  きっと彼らは、こうして社会への不満や自分への怒りをぶちまけることによって、幼き日
 の情熱を取り戻そうとしているのだろう。死にたいと口にすることによって、新しい自分に
 生まれ変わろうとしているのだろう。それに耳を傾ける聴衆も、飾らない言葉の中にありの
 ままの自分を見い出し、苦しみもがく仲間にエールを送っているのだろう。
  この東京で。
  この日本で。
  この地球上で。
  みんながみんな、同じ悩みを抱えて生きている。
  拡声器を受け取った女性が、大きく息を吸い込み、開口一番こう叫んだ。

 「働きたくないっ!」

  仲間の声を背に受けて、俺は再び春風の誘うほうへと歩きだした。


  パーティーは最大収容人数二千名の大広間でおこなわれた。
  会場内には水玉模様を描くように丸テーブルが配置され、招待客たちはワイングラスを胸
 の高さに掲げて壇上のスピーチに聞き入っている。どいつもこいつも、招待状に安物厳禁と
 注意書きがあったのかと思うほど、見るからに値の張りそうなフォーマルウェアでめかしこ
 んでいた。
  壇上で喋っているのは、シゲルと政治的な結びつきの強い現役閣僚。十年まえのクリスマ
 スに、ハルカの尻を触って投げ飛ばされたあのエロオヤジだ。本日の主役であるシゲルは、
 演壇近くの主賓席にカスミと並んで座っている。シゲルのSPがいるのは演壇の前だ。
  俺はその様子を別室でモニタリングしていた。出番が来るまで隠れているようにとの、後
 援会からのお達しだ。彼らは俺とシゲルの因縁なんて知りもしない。サプライズゲストとし
 て白羽の矢が立ったのも、単純に俺の知名度が高かったためだ。
 「夏見様、そろそろお時間です」
  後援会の人間に呼ばれ、紙袋を携えて控え室に移動する。直前にモニターを確認すると、
 エロオヤジと入れ違いにカスミに支えられたシゲルが演壇に上がるところだった。
  復讐対決に敗れてからの半年間で、シゲルの病状は急速に悪化していた。テレビでも杖を
 ついて歩く姿がたびたび流されている。
 「おかげさまで政治生活五周年を迎えることができました。今日ここにお集まりくださった
 みなさまに、心から感謝しております」
  扉一枚隔てて演壇と繋がった控え室に、シゲルのしらじらしいスピーチが聞こえてくる。
  仇敵の言葉に耳をそばだてながら、俺はこの十年あまりの日々を振り返った。
  財産を奪われ、愛する女を奪われた。家政夫として雇われ、自尊心を奪われた。復讐対決
 の過程では、何度職を奪われたかわからない。
  俺の行く先々に、シゲルは常に巨大な敵として立ちはだかった。
  憎しみは売るほどある。それこそ、殺してやりたいくらいに。
  ――だからこそ俺は、この襲撃によって、憎しみに塗りつぶされた日々を断つ。
 「それではここで、スペシャルなゲストの登場です!」
  シゲルのスピーチが終わり、司会者が朗々と声を張り上げる。
  言葉には翻訳できないさまざまな感情を胸に抱き、俺は分厚い扉と向かい合った。

 「日本一のバーテンダー、夏見智史さんです! 拍手でお迎えください!」

  扉が開き、二千人の大拍手の前へと進み出る。まるで自分がハリウッドスターになったか
 のような錯覚を生むその音の波は、二十二歳の誕生日に開いたパーティーを俺に思い起こさ
 せた。苦難に満ちた十二年のときを乗り越え、この場所に帰ってきたのだ。
  演壇を歩く俺を、シゲルとカスミはパーティーにそぐわぬ緊張した面持ちで見つめてい
 た。そうなるのも無理はない。俺が衆人環視のもとで二人の前に姿を現すのは、結婚式を襲
 撃したあの日以来だ。
 「……どうして貴様がここにいる」
 「呼ばれたんだよ。あんたの後援者たちに」
 「笑えんジョークだな」
 「ジョークじゃないさ。言ったはずだぜ。地獄に突き落としてやるから首を洗って待ってろ
 ってな」
 「その紙袋はなんだ。僕をどうする気だ」
 「いちいち質問の多いやつだな。なに、今にわかるさ」
  拍手の音にかき消されて、俺たちの会話は演壇の外には届いていないようだった。
  シゲルのSPたちは演壇の下に立ち、俺に背を向けて会場に不審者がいないか目を光らせ
 ていた。まさか後援会に招待されたスペシャルゲストが警護対象を襲撃してこようとは、彼
 らも想像してはいないだろう。
  俺は司会者に差し出されたマイクを受け取り、二千人の大観衆に語りかけた。
 「たった今ご紹介にあずかりました、夏見智史です。私はサプライズゲストを依頼されてこ
 こへ来たのですが、まさかこんなにも大勢のお客様がいらっしゃるとは。思わずこっちが腰
 を抜かしそうになりましたよ。二十人入れば満席の私の店とは大違いですね」
  どっと笑いが起き、場内が演芸ホールのような雰囲気になる。
  俺は固まって動けない渡貫夫妻を無視して続けた。
 「本当に私のような小市民がゲストでよかったのかと、疑問を感じずにはいられません。だ
 って見てくださいよ、渡貫知事のこの風格! これでもか、ってくらい勝ち組のオーラにあ
 ふれていらっしゃる。奥様も品があっておきれいだ。気性の荒いうちの女房と取り替えてほ
 しいくらいです」
  また笑いが起こる。これで場の空気は掌握したも同然だ。
  ちらりとカスミを一瞥すると、シゲルの背中に隠れてすっかり色を失っていた。まるで死
 神の鎌を首にかけられているみたいに。
  俺はおおげさな身振りで客の関心を引きつける。
 「まったくもってうらやましい。渡貫知事は私にないものをたくさんお持ちだ。三十代で起
 業すると瞬く間に億万長者、一国一城の主となられた今も、これだけ多くの方に支えられて
 いる。ここ数十年で最大の成功者と言えるでしょう。こうも輝かしい経歴を見せつけられる
 と、私のような小市民はついつい勘繰ってしまうのです」
  緊張に支配されたシゲルの眼前に迫り、会場の最後方にも届くように、大声で言った。
 「ひょっとして裏で悪いことでもしているんじゃないか、ってね!」
  笑い声がぴたりとやみ、客がざわつきはじめる。俺の発言が本気なのかジョークなのか、
 判断に困っているのだろう。
 「……どうなんだよ、そこんとこ」
 「な、なにをおっしゃるんです夏見様! 渡貫知事に限ってそんなこと――」
 「あんたは黙ってろ!」
  止めに入ろうとする司会者を脅しつけ、シゲルにマイクを突きつける。
 「最後にチャンスをくれてやる。自分の罪は、自分で暴け」
  俺が声をひそめてそう告げると、憎き仇敵は表情に戸惑いの色を浮かべながらも、爆弾の
 スイッチに触れるように、慎重にマイクを受け取った。
 親父は復讐には興味がないと言った。五十三億なんてただの金に過ぎないと。
   カスミは奴隷のごとくあつかわれてなお、シゲルを愛していると言った。俺が授けたIC
 レコーダーを使わなかった。
  俺は親父やカスミのような上等な人間じゃない。奪われたものは、きちんと取り返す。
  だからこれが、俺にできる最大の譲歩だ。
 「どうした。あんたがしたことを、ここにいるみんなに教えてやれ」
 「僕は……」
  二千人の証人が息を呑んで見守る中、シゲルが重々しく口を開いた。背後にいるカスミ
 が、はらはらと言葉の続きを待っている。夫の心の葛藤が伝わってくるのか、祈るように両
 手を組んで。
  数秒にも数時間にも感じられる沈黙のあと、シゲルは毅然とした態度で言いきった。
 「僕は人の恨みを買うようなことはなにもしていない。渡貫茂は潔白だ」
  シゲルがマイクを床に捨てる。
  ここから先は、人生を賭けて戦った者同士の会話だ。
 「この期におよんであくまでシラを切るか。大した面の皮の厚さだな」
 「白旗を揚げるのは僕の趣味じゃない。それだけだ」
 「そうか。なら覚悟はできているな?」
  シゲルはカスミをかばうように身体の位置を変え、いかめしい表情で首を縦に振った。
  ――敵ながらあっぱれだ、シゲル。
  俺に迷いはなかった。
  すぐさま紙袋の中に手を伸ばし、腰を落として射撃の態勢に入る。
  狙いはシゲルの左胸。心臓だ。
  死を覚悟して目を瞑るシゲルに向け、俺は冷たく黒光りする得物を勢いよく抜き取った。

 「受け取れシゲル! これがあんたに踏みつけにされた人間の恨みだ!」

  会場内に、床に落ちたマイクに増幅された発砲音が響き渡る。
  一瞬の出来事に、誰もが言葉を失っていた。演壇のすぐ近くにいるエロオヤジも、シゲル
 のSPも、司会者も、一度襲撃を受けたことのあるカスミでさえも。誰もが言葉を失い、ま
 るで時間が止まったみたいに一歩も動けずにいた。
  静寂を打ち破ったのは、射撃された本人――うっすらと目を開けたシゲルだった。
 「なんだ……これは……」
  シゲルは真っ赤な液体が滴り落ちる自分の左胸に手を当て、不思議そうにそうつぶやい
 た。液体は空気に触れ、きらきら光る白い泡をたてている。
  まだ自分の身になにが起こったのか理解できていない仇敵に、俺は種明かしをしてやる。
 「ヴィンテージのドンペリだ。心して味わえよ」
  演説台に冷たく黒光りする瓶を置く。最高級のピンドンは、シゲルの政界進出五周年を祝
 うシャンパンとして申しぶんないだろう。
  俺は床からマイクと銃弾に見立てたコルクを拾い上げ、スーツをロゼで真っ赤に染めたシ
 ゲルに微笑みかけた。
 「どうだ? なかなか気のきいたサプライズだっただろ?」
 「貴様、僕を殺しにきたんじゃなかったのか」
 「拳銃なら、ここに来る途中で海に捨ててきた。せっかく成りあがったのに、あんたを殺し
 て人生を棒に振るのも馬鹿らしいだろ? ICレコーダーを法廷に持ち込んでやってもよか
 ったが、刑が確定するのに何年かかるかわからないしな」
  それに、俺にはもうすぐ新しい家族ができる。
  だから俺の復讐は、これで終わりだ。
 「あんたはこの先、死ぬまで俺への敗北感を抱えて生きていけ」

  俺はこの先、幸せを守るために生きていく。

  呆然としているシゲルを無視し、マイクを手に客のほうに向き直る。いつまでもおいてけ
 ぼりではかわいそうだ。彼らにももう少しだけ、この茶番に付き合ってもらうとしよう。
 「いや〜、お恥ずかしい! 緊張して手もとが狂ってしまいました!」
  二千人の客が、そろって狐につままれたような顔になる。
  俺はわざと芝居がかった口調を作って場をなごませようとこころみた。
 「東京都知事にシャンパンを浴びせてしまうとは、夏見智史一生の不覚! これじゃ知事の
 男前に傷がついてしまう。だってほら、まるでおもらしをした赤ん坊だ」
 「なっ……!」
  シゲルがスーツのズボンに目を落とすと、どこからともなくくすくす笑いが聞こえてき
 た。笑い声は空気感染によってたちまち会場全体に広がり、さっきまでの息をするのもため
 らわれるような雰囲気はいとも簡単に吹き飛んだ。
 「貴様! どこまで僕を愚弄すれば気が済むんだ!」
  顔から火を噴いて激昂するシゲル。いい気味だ。憎き仇敵に恥をかかせるのがこんなにも
 痛快だとは。これだから復讐はやめられない。
  復讐の甘さ。俺とシゲルが人生を賭けて追い求めたもの。
  そいつが今、ここにある。
 「おっと、知事がお怒りだ。では、不作法者はこれにて失礼」
 「待て、サトシ!」
  俺は客に一礼して演壇を飛び降り、脱兎のごとく大広間の出口へと走った。
  シゲルがSPたちに俺を追えと怒鳴り散らす。だが、彼らはもたついてすぐには命令に従
 わなかった。背後関係を把握していない彼らにしてみれば、俺はパーティーの主役にシャン
 パンを振る舞おうとしてヘマをしでかしただけの礼儀知らずなゲストに過ぎない。
  そうこうしているうちに俺はゴールにたどり着いた。
  息を弾ませ、遠くに見えるシゲルに別れを告げる。
 「じゃあなシゲル! 今日までなかなか楽しかった!」
 「ふざけるな! 貴様だけは絶対に許さん!」
  シゲルの言葉には耳を貸さず、俺は出口の扉を開いた。
  扉を開き、光のほうへと駆けていく。

  スーツの匂いを嗅いでみろよ、シゲル。
  熟成されたブドウの、甘い香りがするだろう?
  あんたから奪い取るのは、スーツのクリーニング代くらいで勘弁しておいてやるよ。
  ――俺の復讐は、いつだって甘いんだ。


  二年後、シゲルは急速な持病の悪化でこの世を去った。
  週刊誌のスクープで社長時代の違法献金が取り沙汰された矢先の出来事だった。過去に大
 物ミュージシャンの土地資産運用資金を横領していたという疑惑も持ち上がっていたが、真
 実はシゲルの死とともに闇に葬り去られた。
  葬儀はしめやかに執りおこなわれ、喪主は闘病生活を支えた妻が務めたという。
  墓碑銘にはなぜか、復讐するは我にあり≠ニいう聖書の一節が刻まれていたそうだ。
  世間にその意味を知る者はいない。
  渡貫茂、享年四十六歳。


  イクメンの朝ほど忙しいものはない。
  起床後すぐ子どもに幼稚園に持っていかせる弁当を作り、二人ぶんの朝食を用意する。子
 どもを起こしたあとは、歯を磨かせ、服を着替えさせ、食べものをのどに詰まらせないか心
 配しながら食卓をともにし、送迎バスが来るまでにトイレにも行かせてやらなくてはならな
 い。親という仕事は、毎朝が時間との戦いだ。
 「いいな、もう絶っっっ対にお友だちを泣かせたりしちゃダメだぞ。相手のご両親に頭を下
 げるのはパパなんだからな。約束だぞ?」
 「は〜い!」
 「本当にわかってんのか? ほら、ママに行ってきますのあいさつは?」
 「行ってきます!」
  仏壇に手を合わせ、元気よく声を張り上げるアイリ。幼稚園のバスのエンジン音が聴こえ
 てくるなり、嬉しそうに玄関にすっ飛んでいく。仏間では静かにしろといつも注意している
 のに、ちっとも言うことを聞いてくれない。
  アイリを玄関まで送ると、若い幼稚園の先生があいさつをしてくれる。短大を卒業して二
 年目だそうで、少し頼りない部分もあるが、美人で子どもたちに人気があり、父兄の間でも
 評判がいい。
  その先生が、今日はなんだか様子が変だ。
 「あのっ! な、夏見さんは今週の土曜日とかってなにされてます?」
 「土曜ですか? 昼は市民会館のワークショップで、夜は普通に店で働いてますけど……」
 「じゃ、じゃあ一度お店におうかがいしてもよろしいでしょうかっ!」
 「はぁ……」
  感極まったかのように、脇で小さく拳を作る先生。
  バスの運転手が短く二回クラクションを鳴らす。早くしないとおいていくぞ、という意味
 だろう。先生は「必ずおうかがいしますからっ!」と言い残して、小走りでバスに戻ってい
 った。さっきのはなんだったのだいったい。もしかして、アイリのしつけの件でお説教でも
 されるのだろうか。
  バスが出ると、俺は決まってハルカの遺影の前で祈りを捧げる。誰に似たのかおてんばに
 育った娘が、今日も一日無事でありますようにと。
  ハルカが命と引き換えにアイリを出産して四年。つらいことも苦しいこともたくさんあっ
 たが、それなりに楽しい毎日を送ってきた。それもこれも、自信を持って最高の女だったと
 断言できる妻が一生ぶんの幸せを与えてくれたおかげだ。子育てに必死で、落ちこんでいる
 余裕がなかったせいもあるだろう。
  さて、忙しい朝はまだまだ終わらない。酔っぱらいたちが店の外に残したゴミを掃除し
 て、料理の仕込みをしておかなくては。バーテンダーに休息はないのだ。
  暴力的なまでに冷たい朝の空気に身を縮こまらせ、秋の新宿を歩く。
  一年まえに中古で買った一軒家とマサラが入居しているビルは、徒歩で往復できる距離に
 ある。わざわざ新宿に引っ越してきたのは、もちろん一分でも一秒でも長くアイリといっし
 ょにいるためだ。
  あくびを殺して、ビルの入口に面した道路に水を撒く。俺はこの時間がたまらなく好き
 だ。通勤途中のサラリーマンが目の前を通りがかるごとに、勇気をもらった気になる。
  若かりしころ、俺は働くということは誰かの飼い犬になることだと知った。雇い主に鞭を
 打たれ、パンの代わりに給料を与えられる奴隷になることだと。
  バーテンダーとなり個人事業主となった今も例外ではない。革命でも起きて社会構造その
 ものが変化しない限り、働いて金を稼ぐしかないのだから。俺たちはみんな、いわば資本主
 義という名の神様の奴隷だ。
  そう思うとゲンナリしてくる。
  だが、ヒカリと出会い、ハルカと結婚し、アイリが産まれて、こうも思うのだ。
  ――働くだけで大事なものを守れるのなら、俺は一生、あんたの奴隷のままでいい。
 「とは言ったものの、さすがにキツいな」
  肩を回すと筋肉が悲鳴をあげた。
  バーテンダーの仕事と子育ての両立は、これまでに経験したどの職業よりも激務だ。自分
 の時間なんてあったもんじゃない。ヒカリには再婚を勧められているが、日常生活の負担を
 軽減する目的で結婚するのは相手の女性に失礼だろう。それに、俺はまだハルカの夫でい
 たい。再婚するとしても当分先の話だ。
  せめてアイリの面倒を見てくれるベビーシッターがいれば助かるのだが。
 「あの……、すみません」
  ふと声がして振り向くと、電柱のそばに薄手のカーディガンを着た女性が立っていた。
 「バーテンダー募集の貼り紙を見て来たんですけど」
 「ん? ああ」
  そういえば、そんな貼り紙を出していた。

  自販機でホットの缶コーヒーをふたつ買い、マサラの店内で面接をした。
  彼女が持参した履歴書によれば、年齢は三十八歳で独身。俺と同じだ。職歴はなく、二十
 代前半で結婚してからは、長らく専業主婦をしていたらしかった。
  気になる志望動機の欄は、なぜか空白だった。
 「なんて書けばいいのかわからなくて。夫を亡くしてから二年間、ずっと自宅に閉じこもっ
 ていたんです。幸い生活するのにじゅうぶんなお金はありましたし、とても人前に出られる
 ような状態じゃなかったから」
 「だったらどうして働きたいと?」
 「働かなきゃ、前に進めない気がしたんです」
  そういうことなら、俺も協力するにやぶさかではない。
  しかし困った。実を言えば、昨日活きのいい新人を一人採用したばかりだったのだ。欠員
 はすでに埋まっている。貼り紙を回収し忘れた俺のミスだ。
 「お願いです! 雑用でもなんでもしますから、私をここで働かせてください!」
  腕組みをして考えこむ俺に、懸命に訴えかける彼女。
  と、そこで俺は妙案を思いついた。
  俺と彼女が幸せに働ける、最高の妙案を。
 「そうだ! あんた、メイドをやってみないか?」
 「メイド……ですか?」
 「死んだ妻との間に四歳の娘がいてさ。大事にしてるつもりなんだが、仕事が忙しくてなか
 なかかまってやれないんだ。だからもしあんたさえよければ、あの子の面倒を見てやってほ
 しい。女のお手伝いさんがいてくれれば、俺も安心して仕事ができる」
  母親がいないあの子に、いつもそばに誰かがいる幸せを教えてやってくれないか。
  ――かつて、あんたが俺にそうしてくれたみたいに。
 「でも、私に子守りなんてできるかどうか……」
 「大丈夫、きっとできるさ」
  あんたが優秀な家政婦だってことは、俺が一番よく知っている。
  彼女は目の端にうっすらと涙を溜めて言った。
 「じゃあ、とりあえず半年間」
 「契約成立だな」
  十六年まえ、親父が俺の家に若い女を連れてきた。女は俺と同い年で、なんでも父親が作
 った借金を返済するために家政婦として働くことになったのだという。親父の庇護のもと、
 人生におけるあらゆる障害を取りはらわれて育った俺にとっては、心底どうでもいい苦労話
 だった。せいぜいこき使ってやろうと思った。
  だが、不幸を背負っているはずの彼女がよろしくお願いしますと言ったときの笑顔は、な
 ぜか俺の心をとらえて離さなかった。
 「しっかり働いてくれよ、メイドさん」
 「はい! よろしくお願いします、店長」
 「やめてくれ、そんな堅苦しい呼びかた。もっと気楽にいこう」
 「では……」
  十六年間俺をとらえて離さなかった笑顔に、小さな涙の粒。
 
 「よろしくお願いします、サトシさん」
  カスミが俺の名前を呼んだ。

  今日から俺たちは、主従の関係。
  バーの店長と家政婦。マスター&サーヴァントだ。


                            おしまい
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