final round『あがってなンボ!』

  この世は謎に満ちている。
  たとえば、ミレニアム懸賞問題やナスカの地上絵、宇宙創成がそうだ。
  だが、一番の謎は、やはり女心ではなかろうか。
  午前二時に付き合ってもいない男の家にアポなしで泊まりに来る女の胸中が、俺にはさっ
 ぱり理解できない。
 「いかにも男の一人暮らしって部屋ね。古いし狭いし汚いし、おまけになんか臭い」
 「おまえそれ泊めてもらう人間の態度?」
  一宿一飯の恩義などまるで感じていなさそうな言い草に呆れつつ、ソファでくつろいでい
 るハルカのもとにカクテルとつまみを運ぶ。
  学生時代の友人の結婚式に出席していたというハルカが終電を逃したと言って泣きついて
 きたのが三十分まえ。俺はそのときからずっと、女が夜中にいきなり男の家に押しかけてく
 ることの意味について考えている。
  つまり、これはアリなのかナシなのか。
  一夜の過ちを期待してもいいのか、それとも単に俺なら安全だとナメられているのか。
  人の気を知りもせず、ハルカは赤ら顔で味噌漬けのチーズをつまんでいる。
 「へぇ、意外とおいしいじゃない。誰に教わったの?」
 「ニート歴長かったし、家政夫もやってたからな。自然と身についた」
 「人は見かけによらないのね」
  ヒカリとの共同生活で習得したカクテル作りと料理は、今では俺のちょっとした特技にな
 っている。カスミといたころは家事なんて面倒臭いだけだと思っていたが、やってみて初め
 てその奥深さと楽しさに気づかされた。何事も経験してみるものだ。
 「それにしても、あなたが読書家だったとは驚きだわ」
 「人は見かけによらねぇんだよ」
  ハルカが古く狭く汚いと評した六畳間には、語学から法学、果ては生物学にいたるまで、
 ありとあらゆる分野の専門書が積んである。それもこれも、シゲルとの復讐対決を制するた
 めだ。やつの執念深さを思えば、どんな知識でも頭に入れておいて損はないだろう。
  涅槃での接近遭遇から、もうすぐ一ヶ月。今のところシゲルに動きはない。
  だが、近いうちに必ずなにか仕掛けてくるはずだ。
  迎え撃つ準備はすでに整っている。七釜戸さんに知恵を借りて、涅槃の経営母体を買収さ
 れぬよう、微に入り細に入りセーフティネットを張った。シゲルが供給源を断つ作戦に出る
 ことも視野に入れ、取引先との関係強化もバッチリだ。
  来るなら来い。いつでも相手をしてやる。
 「つーか、勝手に人の部屋荒らすなよ!」
 「あら、見られて困るものでも?」
  空気をパンパンに詰めたバレーボールのような尻を突き出し、四つん這いの姿勢で本の山
 を物色するハルカ。この様子だと、結婚式の二次会でも相当飲んだようだ。
  寄り添うように二人掛けのソファに座り、俺たちはしばらく、仕事や将来の人生設計につ
 いて語り合った。
  酒が入っているせいか、今夜のハルカは妙に色っぽい。油断していると、抗えない引力に
 よって彼女の柔肌に目を奪われる。胸もとが大きく開いたドレスは、ある種の凶器だ。
 「結婚できるのかな、私……」
  小一時間ほど経ったころ、ハルカがテーブルに置いたグラスを指でつつき、物憂げな横顔
 でそうこぼした。花嫁衣装を着た友人を見て、焦りを感じているのだろう。
  俺も彼女も、今年で二十八歳。そろそろ身を固めてもいい年齢だ。
 「二次会行ったんだろ? 声かけてくる男いなかったのかよ?」
 「みんなハズレ。尊敬できる男って、なかなかいないのよね」
  「おまえな、そうやって選り好みしてたら、あっという間にアラフォーだぞ」
 「じゃあ近場で手を打とうかしら」
 「は?」
  目が合って、ほんの一瞬、ケーブルが切断されたみたいに時間の流れが止まった。
  アルコールで鈍くなった頭をフル回転させて、必死に今の会話が意味するものを読み解
 く。ハルカは俺を誘っているのだろうか。きっとそうだそうに違いない。だが、いくら焦り
 を感じているとはいえ、ちょっとセクハラされたくらいで政治家や上司を投げ飛ばすような
 女が酔った勢いでそんなことをするだろうか。なにか裏があるのではないか。
 「……やっぱやめた。今は仕事で手いっぱいだし」
  俺が眉間に手を当てて考えこんでいる間に、ハルカは興を削がれたようにグラスに口をつ
 けた。見逃し三振だ。
  なんとなくばつが悪くなり、わざと酒を切らして台所に避難する。
  アイス・ペールからグラスに氷を移す俺の耳もとで、ヒカリの声がした。
  ――もう誰かを好きになることはないなんて言わないで。
  いつまでも過去にとらわれていては、行き着く先は孤独死だ。カスミへの未練を断ち、苦
 楽を分かち合えるパートナーを探すべき時期が来ているのかもしれない。
  俺に必要なのは、傷つくことをおそれず誰かを愛する勇気。
  景気づけにメーカーズ・マークをひと口飲み、意を決してハルカのほうを振り向く。
 「な、なぁハルカ! 今度の休業日、もし暇だったら俺と――」
  井の頭公園にでも、と裏返る声で言おうとして、子どものような寝息に気がついた。肝心
 なところで寝やがって。一念発起した矢先の漫画みたいなオチに、脱力すると同時に噴き出
 してしまった。
  ハルカの肩にブランケットをかけてやり、そのとなりに腰を落ち着ける。
  人生は長いんだ。焦らず、じっくりやっていけばいいさ。
  ちびちびと酒を飲んでいると次第に眠気が押し寄せてきて、俺はハルカのとなりで目を閉
 じた。過ぎ去りし幸福だった日々の、最後の一ページを思い出しながら。


  半月後、中野ブロードウェイからメイド喫茶・涅槃が消滅した。
 「まさかここまでやるとはな」
  立ち退きの当日、俺はほかの従業員とともに、改装工事中の幕が張られた中野ブロードウ
 ェイを外から見上げていた。改装工事後、この建物は外国人観光客向けの商業施設に生まれ
 変わることが決まっている。
  所有者の意向で、新たな施設イメージにふさわしくないと判断されたテナントはすべて追
 い出された。涅槃も臨時休業という名目で、事実上の営業停止処分を食らっていた。それも
 これも、商業フロアを丸ごと買い取ったシゲルの謀略だ。
  こんなことをして、中野区民の反感を買わないはずがない。中野ブロードウェイの乗っ取
 りは、世論を敵に回してでも俺を迎え撃とうという、やつの意思の表れだ。
  ますます面白くなってきやがった。
  今回のところはあんたに勝ちを譲ってやるよ、シゲル。
  だが、最後に笑うのは俺だ。
 「もうダメだ、自殺するしかない……」
  復讐心を燃やす俺の横に、景気の悪い顔をした加藤が立つ。しまった、こいつの存在をす
 っかり忘れていた。ほくそ笑んでいていいシチュエーションではなかった。
 「し、心配すんなよ。俺が教えたとおりにやれば、次の店も絶対流行るって」
 「覚えておいてくれ。消え去るより、燃え尽きたほうがいいんだってことを……」
  経営者としては繊細すぎる加藤をなんとか元気づけ、この日は従業員たちと朝までマサラ
 で飲み明かした。
  従業員の中には、他店舗に移る者もいれば、これを機に別の仕事を探そうという者もい
 た。しかし、店が潰れた責任を俺に求める声は聞かれなかった。こんなこともあろうかと失
 業保険に加入させておいて、本当によかった。
 「それだけじゃないと思うよ」
  成人して合法的に酒を飲めるようになったヒカリが、俺のとなりに来てそう言った。彼女
 はメイドを引退し、今後は声優業に専念するそうだ。
 「みんな感謝してるんだよ、サトシに」
 「感謝?」
 「そ。サトシがいてくれたから、みんなここまで頑張ってこれたんだよ」
  ヒカリの言葉を証明するように、複数の従業員が俺のところにやってきて、涙ながらに握
 手を求めてきた。店が持ち直したのはサトシさんのおかげです、必ず渡貫茂をぎゃふんと言
わせてくださいね、と 。
  一人ずつ順番に握手と抱擁を交わしたあと、面映ゆい気分でヒカリと乾杯した。
 「いいもんだな、働くってのは」
  うん、と返したヒカリの声と笑顔が底抜けに可愛くて、俺は彼女なら本気で人気声優にな
 れると確信した。テレビの中から父親を見返す日はすぐそこだ。
 「オープンスタッフの話、受けたほうがよかったんじゃない?」
  俺とヒカリがしんみりした気分に浸っていると、カウンター席で飲んでいたハルカがうし
 ろから声をかけてきた。彼女もまた、今宵限りでメイドを引退することが決まっている。
 「シゲルの執念深さはおまえもよく知ってるだろ。これ以上みんなに迷惑をかけたくない。
 それに、飲食店の事務方じゃビッグな男にはなれないしな」
 「強がり言っちゃって。本当はこの仕事、けっこう気に入ってたんでしょ?」
 「はっ、おまえだってそうだろうが」
  名残惜しい気持ちを紛らわすように、ショートカクテルを一気に飲み干す。
  涅槃の立ち退きが決まった際、経営母体の会社から俺に、高円寺にオープンする予定の新
 店舗で働かないかと打診があった。涅槃の従業員たちの受け皿となるその店で、俺を加藤に
 代わるオーナーとして迎え入れたいというのだ。
  だが、この隠れ蓑はすでにシゲルに割れている。俺が新店舗のオーナーに就任しても、す
 ぐにやつに調べ上げられて潰されるのがオチだろう。
  シゲルとの復讐対決は、終わりの見えないイタチごっこだ。
  涅槃とはなんの関わりもないところで、次なる生き場所を見つけなくてはならない。
  ただし、なにもかもがフリダシに戻ったわけではない。俺には勝算がある。
 「さて、今度はどんな職に就くかな。選択肢がありすぎるのも困りものだな」
 「どういう意味?」
 「こういう意味だよ」
  クエスチョンマークを浮かべたハルカの前で、俺は威勢よくスーツを広げた。その内側に
 縫いつけた、無数の資格証書を誇示するかのように。
 「凄い。これって……」
 「俺がなんの目的もなく本を読んでいたと思ったか? まだまだ増えるぜ」
  実用英語技能検定一級にはじまり、ドイツ語技能検定準二級、ビジネス実務マナー検定一
 級、日商簿記二級、カラーコーディネーター検定三級、ITストラテジスト、中小企業診断
 士、税理士、乙種危険物取扱者、果てはベジタブル&フルーツマイスターまで……就職活動
 に役立ちそうな資格は、あらかたそろえてある。職歴をカバーするため――シゲルに勝つた
 めに、必死で勉強した成果だ。
  度肝を抜かれているハルカに、胸を反らせて威張ってみせる。

 「言わなかったか? 俺はなんでもできるって」

  今なら本当になんでもできる。なんにでもなれる。
  見ていてくれ、親父。
  ――俺の成りあがり≠ヘ、ここからが本番だ。


  生命保険会社に就職した俺は、今日も忙しく団地から団地へと飛び回る。
 「ほら、ぼさっとしてないでさっさと車出せよ」
 「あのね、言っときますけど、俺は先輩の運転手じゃないッスからね」
 「そういうせりふは、俺より一本でも多く契約を取ってから言えよな」
  挑発してやると、運転席のスネ夫は文句を引っ込めてサイドブレーキを外した。入社した
 のはむこうが先でも、営業成績で勝る俺のほうが社内での立場は上だ。交通事故後にコケに
 されたぶん、こいつにはたっぷりお返しをしてやらなくては。
  保険外交員になってふた月目で、俺は店舗内の営業成績トップに躍り出た。さらに四ヶ月
 目には都内トップ。半年が経つころには、入社一年以内の歴代最高成績者として表彰を受け
 た。榊さんの会社で培った営業スキルが役に立ったのだ。
  どっさりと新規の契約をゲットして会社に戻る途中、スネ夫と二人で高架下の立ち食いそ
 ば屋に寄った。
  これから作成する業務報告書のことを考えつつ、カウンター奥のテレビを眺める。
  午後七時のニュースには、どこかの記者会見場で、大量のフラッシュを浴びるシゲルの姿
 が映し出されていた。
 「本日正午、資産家で投資信託会社社長の渡貫茂氏がパーキンソン病を告白しました」
  パーキンソン病についての簡単な説明のあと、シゲルが社長の座をしりぞき、今度の東京
 都知事選に立候補する予定であることが伝えられた。画面下のテロップには、「残りの人生
 を悔いなく生きたい」というシゲルの言葉が流れている。
  俺はそばをすすりながら、身体の中でめらめらと炎が燃え盛るのを感じていた。
  これでマスコミの渡貫茂批判は収束するだろう。病気の発表は、都知事選で同情票を買う
 ためのパフォーマンスだ。世間の関心をそちらに集め、企業買収の動きを見えにくくする狙
 いもあるに違いない。いよいよやつも手段を選ばなくなってきた。
  なかなか楽しませてくれるじゃないか。
 「おやっさん、天ぷらそばもう一杯追加!」
  高まる興奮に突き動かされて、空の丼を叩きつけるようにカウンターに置いた。
  数ヵ月後、シゲルは最年少で東京都知事選に当選し、俺は生保をクビになった。


  保険外交員をクビになってすぐ、俺はショップコーディネーターという職に就いた。
  経営コンサルタント会社に籍を置き、レストランやブティックの個人事業主に経営ノウハ
 ウを叩きこむ。涅槃を立て直した経営再建の手腕を見込まれての入社だった。
  入社三ヶ月目に大口の仕事が舞い込んだ。青山に新規開店する婦人向け衣料のセレクトシ
 ョップが、店の内装から接客マニュアルの作成、帳簿のつけかたにいたるまで、すべての指
 揮権を俺に委ねるというのだ。
  実はこの話には、ちょっとした裏がある。
 「しばらく見ない間に、すっかり男の顔になっちゃって。おばさん残念だわ」
 「こちとら三十近いんでね。そっちは? 相変わらず男に寄生してんのかよ?」
 「寄生だなんて失礼ね。逞しく生きていると言ってもらいたいものだわ」
  セレクトショップのオーナーは、親父の愛人をやっていたころと変わらぬ猫撫で声でそう
 言った。この店も、不倫相手のどこかの社長からせしめたお小遣い≠ナ出したらしい。な
 るほど、逞しく生きていると言えなくもない。
  店はオープン初日から行列の絶えない大繁盛で、テレビでも頻繁に取り上げられた。俺に
 も取材の依頼があったが、シゲルの目に触れる可能性を考慮して断った。
  もっとも、テレビには出ずとも、アンテナの感度が高いビジネスマンたちは俺の評判をキ
 ャッチしてくれたようだった。その証拠に、同業他社からいくつか引き抜きの誘いがあっ
 た。成功の階段を昇っている実感があった。
 「いつまでも幸運が続くと思うなよ」
  ある日、俺のデスクに東京都知事から電話がかかってきた。通話はすぐに切れたが、それ
 が単なる脅しではないことは明白だった。
  依願退職という名目で会社をクビになった当日、俺はデスクの通話記録から都庁の知事室
 に電話をかけ、犯罪予告をするテロリストの心境で宣言した。
 「俺はまだまだ終わらねぇぞ。あんただってそうだろ?」
  受話器のむこうで、シゲルが嬉しそうに鼻を鳴らす音がした。
  この世でもっとも甘美な感情が、胸に広がる。
 「あんたのこれからに、期待しているよ」


  新緑生い茂る四月。
  俺とハルカは、休日を利用して井の頭公園に来ていた。
 「売れ行き好調みたいね、あなたの本」
 「当然だ。俺を誰だと思っていやがる」
 「はいはい。夏見英一の息子でしょ」
  大仰にうなずき、洗いたてのシーツのように爽やかな日射しの中、ボートを漕いでゆく。
  俺は現在、著作権エージェントの会社で外国人作家の窓口をしている。市場が未開拓だっ
 た中南米の経済学者に目をつけたのが功を奏し、俺が翻訳権を獲得したビジネス書は、発売
 後三ヶ月で十万部を突破した。不況と言われてひさしい出版業界において、このスマッシュ
 ヒットは明るい材料になるだろう。
 「でも、どうやって版元を説得したの? あんな本、誰も売れると思わないわよ」
 「人望だよ、人望」
  それは半分冗談で、半分真実だった。
  俺がビジネス書を出版社に売りこんだ際、興味を示してくれたのはたったの一社だった。
  その一社の企画部で働いていたのが、俺のかつてのいつわりの親友――久瀬猛だ。
 「サトシには借りがあるからな。返しておかないと、気が済まないんだ」
  出版契約を結んだとき、タケシは結婚指輪をはめた左手で、照れたように鼻の頭を触っ
 た。俺が恩に着ると言うと、こっちこそ、と逆に頭を下げられた。カンナは子育てで忙しい
 そうだが、次の増刷が決まったら、二人でうまい飯でも食いに行く約束だ。
 「あなたがここまで仕事のできる人だとは思わなかったわ。出会ったころとは別人ね」
 「惚れ直したか?」
 「もともと惚れてないから」
 「あっそ」
  だったらなんでいつも俺といるんだよと思いつつ、オールに合わせて身体を倒す。
  ハルカとは、涅槃が潰れてからもたまにこうして会っている。お互い三十歳の大台が近づ
 いてもいいパートナーが見つからず、休日を持て余しているのだ。涅槃で働いていたころの
 同僚たちは全員結婚し、俺たちだけが出来の悪い果物のように売れ残った。
  付き合っているのかと問われれば、微妙なところだ。セックスはおろかキスさえしていな
 いのに、気がつくといつもいっしょにいる。腐れ縁という表現が一番近いだろう。
  だが、恋愛も果物も、賞味期限を逃したら苦さしか残らない。本当に腐ってしまう。
  そうなるまえに、男を見せなくては。
 「あなたはいいわね、なにもかも順調で。それに引き換え、私は……」
  濁りきった水面に、がらにもなく弱気なため息を落とすハルカ。先週セクハラ上司を投げ
 飛ばして仕事をクビになったダメージが、まだ癒えていないようだ。ていうか、いいかげん 
 学習しろと言いたい。
 「いつまで落ちこんでんだよ。さっさと気持ちを切り替えないと、働く口がなくなるぞ」
 「だから落ちこんでるんでしょ。わかってるわよ、もう若くないってことくらい」
  ハルカがふてくされるのももっともだった。
  俺たちはもう若くない。三十歳を過ぎたら、就職先を見つけるのはこれまでよりずっと難
 しくなる。大量の資格を有し名前もそこそこ売れている俺はまだしも、ひとつの職場に三年
 以上勤めた経験のないハルカは苦労を強いられるだろう。自己責任と言えばそれまでだが、
 彼女を涅槃に誘った身として、多少の心苦しさは感じていた。
  ……いや、そんなの関係ないな。
  俺がしたいから、そうするんだ。
 「だったらさ、俺が雇ってやろうか」
 「は?」
 「時給ゼロ円で、夏見家に永久就職しろよ。いっしょに朝起きて、同じ飯を食って、同じも
 のを見て泣いたり笑ったりするだけの、簡単なお仕事だぞ」
  研修期間は好きなだけ与えてやるとつけ加える俺を、ハルカは面食らった顔で見ていた。
  しかし、やがてこらえきれないとばかりに腹を抱えて笑いだした。
 「なにそれ。プロポーズのつもり?」
 「う、うるせぇな。こんな求人、二度とないんだからな!」
  爆発しそうに赤面した顔を隠すように、必死にボートを漕ぐ。
 「さっきの返事だけど」
  着岸したボートを降りるとき、ハルカは俺の手を取って、少し寂しげにはにかんだ。
 「私、身体が弱くて出産には耐えられないってお医者さんに言われてるの。それでもい
 い?」
  あの怪力で身体が弱いとはなんの冗談かと思ったが、答えは決まりきっていた。
 「いいよ。ただし、そのぶん夜はサービスしろよな」
 「投げ飛ばすわよ」
  俺の脇に回りこみ、帯のかわりに腕をつかむハルカ。彼女の若々しい笑顔を見ながら、俺
 はこいつとなら失ったものを何百倍にもして取り戻せると確信した。
 
  ――過去に縛りつけられるのは、今日で終わりだ。
  半年後、俺たちは区役所に婚姻届を提出し、はれて夫婦となった。


  ハルカと籍を入れる前日、俺は汐留の超高層マンションを訪れた。
  きっちり過去と決別するために。
 「家政夫を辞めたあなたが、いったいなんの用ですか」
 「おまえに渡しておきたいものがある」
  カスミは俺に背を向けたまま籐椅子に腰掛け、白昼夢でも見ているかのように、カラフル
 な花々をぼんやり眺めていた。
  この空中庭園に足を踏み入れるのは、五年と九ヶ月ぶりになる。長期間庭師を呼んでいな
 いのか、俺が家政夫をしていたころと比べると手入れが雑だ。園内のあちこちに、枯れた状
 態で放置された季節外れの花が目立つ。
  五年と九ヶ月の間、カスミは毎日こうしていたのだろうか。心を砂粒ひとつない更地にし
 て、自分を愛していない夫の帰りを待っていたのだろうか。
 「結婚するんだ、俺」
  雑草がまばらに生えた小径を渡り、カスミのいる円形のデッキにゆっくりと近寄る。
 「相手はおまえも知っている女だ。性格はちょっとキツいが、器量は悪くない」
 「だったらどうしたっていうんですか」
 「忙しくて、当分結婚式は挙げられそうにないからな。こいつは引き出物のかわりだ」
  背後から手を回し、カスミの膝に小型のICレコーダーを置いた。シゲルとの復讐対決に
 勝ったときに使う予定だった、俺の最終兵器だ。
 「これって……」
  振り向きこそしなかったものの、カスミの声色には驚きがにじんでいた。
 「おまえにやるよ。自由に使ってくれ」
 「でも……」
 「いいんだ。中身はちゃんとコピーしてある」
  もともとこのICレコーダーには、シゲルに復讐対決を途中棄権させないための、抑止力
 としての側面があった。だが、やつはすでに親父から騙し取った五十三億をゆうに超える金
 を、俺の就職先を買収する目的で使っている。やつが本気だと証明された以上、こいつを手
 もとに置いてにらみをきかせておく必要はなくなった。
  それに、俺にはあるアイディアがある。
  やはりシゲルには、監獄よりも地獄のほうがふさわしい。

  やつの罪は、俺自身の手で裁いてやる。

 「おまえがもしここを出たいと……シゲルから解放されたいと思ったら、そのときはそいつ
 を裁判所に提出するといい。離婚調停の足しになるはずだ。横領罪が認められれば、おまえ
 の望みどおり、復讐対決を中止させることだってできる。もちろん、今この場で壊してくれ
 たってかまわない。なにもかも、おまえ次第だ」
  このICレコーダーのあつかいひとつで、俺とシゲルとカスミ――三人ぶんの未来が大き
 く変わる。復讐の糸で結ばれた三人の未来の選択権を、俺はカスミの手にゆだねたのだ。
  別にヤキが回ったってんじゃない。
  ずっとしたいと思っていたんだ。
  ――ご主人様と召し使いとして過ごした時間の、謝罪と礼を。
 「じゃあ、俺はこれで。新婚生活の準備が、まだいろいろと残っているんでな」
  ひらひらと手を振って、空中庭園を出る階段へと小径を引き返す。
  途中、何度もカスミのほうを振り返りそうになった。彼女との半年間の共同生活の断片
 が、洪水のように胸に押し寄せてきて、俺を後方に引き戻そうとした。
  だが、前を向かなくては。
  これからは、ハルカとともに新しい幸せを紡いでいくと決めたのだから。
  階段を下りると、新居で荷ほどき中のハルカに電話をして、夕食はなにがいいかと訊ね
 た。そんなことどうでもいいから早く帰ってきて手伝いなさいと叱られ、俺は満ち足りた気
 分でわかった答えた。


  俺はその後も、シゲルに追い立てられるまま職を転々とした。
  アクチュアリー、塾講師、食品宅配業者の広報。俺はこれらすべての職場において、常識
 では考えられない短期間で実績を残し、常識では考えられない短期間で解雇された。十歩進
 んで九歩下がる。シゲルとの復讐対決は、その絶えなき繰り返しだ。
  それでも、俺は歩みを止めなかった。積み上げた一歩が俺をこのゲームのあがり≠ノ運
 んでくれると信じて、日々自分を奮い立たせた。
  支えになったのはハルカの存在だ。大事なものがあれば、へこたれるほどキツいことなん
 て、なにもないのだ。
  嵐のように業界に名前を売り、また別の業界へと去ってゆく。
  そうやって三十一歳になったころ、俺はついに天職を見つけた。


  東京都新宿区西新宿一丁目、バー・マサラ。
  通算十回目の失職で負った魂の傷を慰めるべく、俺はひさびさにここにやってきた。ハル
 カと結婚してからというもの、夜の外出が厳しく制限されるようになり、おかげで年々寂し
 くなっていく大木戸さんの頭髪を鑑賞する機会も減っていた。今夜は心ゆくまで飲んで帰ろ
 うと、へそくり持参で甲州街道の裏通りを訪ねたのだ。
  もっとも、大木戸さんに俺の話をじっくり聞いているような余裕はなさそうだった。
 「大木戸さん、タンカレーをストレートで」
 「ああもう、勝手にそこの棚から取って飲んで!」
 「なにそのあつかい。泣いていい?」
 「泣きたいのはこっちだよ。なんでこんな日に限ってバイトがみんな休みなんだ!」
  ぼやいたそばから注文が入り、せわしなく店内を動き回る大木戸さん。
  この日はフランスから国際バーテンダー協会のお偉方が視察に来ており、大木戸さんはそ
 の接客、というより接待に追われていた。おまけに急な話だったため店を貸し切りにでき
 ず、俺のような一般客の相手もしなくてはならない。痛々しいくらいにきりきり舞いだ。
  またカウンターとテーブルから同時に注文が飛んだ。大木戸さんは目玉をエアホッケーの
 円盤のように行ったり来たりさせて、あからさまに当惑していた。
 「やれやれ。世話が焼けるな」
  黙って見ているのも忍びないので、俺は大木戸さんに助け船を出すことにした。十年来の
 友人として、お偉方の前で彼に恥をかかせるわけにはいかない。
 「ちょっちょっちょっ、ちょっとサトシくん! この忙しいときになにしてんの!?」
  カッターシャツの袖をまくってカウンターの内側に入る俺に、大木戸さんがぎょっとして
 飛びついてくる。
 「なにって、手伝ってやろうと思って。あ、ベストを着てないとダメか?」
 「そういう問題じゃないでしょう! ここは神聖な場所なの! 素人立ち入り禁止なの!」
 「まぁまぁ。こう見えて俺、飲食店にも勤務してたんだぜ。事務方だけどな」
  俺が流暢なフランス語でお偉方の注文を受けると、大木戸さんはもうどうにでもなれとい
 う顔で引き下がった。カクテル作りの腕前はともかく、語学は俺のほうが堪能だ。
 「どうぞ、当店自慢のマティーニです」
  俺はほんの出来心で、自分が作ったカクテルをお偉方に提供した。大木戸さんには悪いと
 思ったが、大量のオーダーをさばくには、こうするほかなかったのだ。
  二本の腕のみを頼りに、無限のレシピの中から、たったひとつの正解を探し当てる。
  このとき、俺はその面白さと感動を味わった。
  またそれは、いくつもの職を渡り歩いてきた俺にとっての正解でもあった。


  そして二年の月日が流れた。


 「どうしてここが?」
 「新宿にいいバーテンダーがいると、都議会議員たちの間で評判でね」
 「俺も有名になったもんだな。注文は?」
  キツいのを一杯、というシゲルのリクエストを受け、俺は材料を手もとに並べた。
  一介のバーテンダーと先の東京都知事選を圧倒的得票数で再選した政治家が、バーカウン
 ターを挟んで対峙する。凡百のバーでは滅多にお目にかかれないこんな光景にも、偶然居合
 わせた客たちは関心を示さない。俺のファンには、有名人が多い。
  五年半ぶりに俺の前に現れたシゲルは、テレビで見るよりもはるかに年老いていた。魑魅
 魍魎が跋扈する政治の世界に揉まれているせいか、白髪が目立ちはじめ、表情にもかつてあ
 った余裕は感じられなくなっていた。
  ただ、精悍さは増した。じっと座っているだけで見る者を委縮させるような凄味がある。
 「病気のほうはどうだ? そろそろくたばる準備ができたころじゃないか?」
 「馬鹿を言うな。死ぬのは貴様が再び地獄に転落するのを見届けてからだ」
 「お元気そうでなにより」
  俺が皮肉をこめて頬を吊り上げると、シゲルも鏡に映したように頬を吊り上げた。
  ――さぁ、長年の勝負にケリをつけよう。
  東京都新宿区西新宿一丁目、バー・マサラ。ここが最終決戦のリングだ。
 「今日はどんな用事だ? まさかわざわざ世間話をしに来たわけじゃないだろう?」
 「貴様がどうやって今の地位を手に入れたのか。それが知りたい」
 「実力だよ。種も仕掛けもない」
  俺はカクテルの材料をミキシング・グラスにそそぎながら、バーテンダーとして働く発端
 となった出来事を、シゲルに語って聞かせた。


  マティーニに口をつけた国際バーテンダー協会のお偉方は、グラスの底に真珠を発見した
 かのように目を丸くした。かと思うと、俺にも聞き取れない早口で何事かをまくしたて、同
 席していた別のお偉方にグラスを押しつけるのだった。
  すると今度は、そのお偉方もまた別のお偉方にグラスを押しつける。
 目の前で自分が作ったカクテルを回し飲みされ、俺はこれから壮絶なこき下ろしがはじま
 るのではないかと不安になった。こんなのとても飲めたものじゃないとお偉方たちに機嫌を
 損ねられ、大木戸さんの顔に泥を塗ってしまうのではないかと気を揉んだ。
  ところが、実際はその逆だった。
 「きみはいったい、このカクテルにどんな魔法をかけたんだ?」
  俺が西洋風の婉曲した賛辞に面食らっていると、横から大木戸さんが腕を伸ばしてきた。
 「ちょっとすいません、ひと口いただきます!」
  無作法にもお偉方の手からグラスを奪い取り、一瞬で飲み干す大木戸さん。
  直後に彼の口から漏れたのは、勝手にカクテルを作った俺への叱責ではなく、お偉方たち
 のそれと変わらぬ感嘆だった。
 「信じられない。本当にサトシくんがこれを……?」
 「そうだけど、それがどうかしたのか?」
  複数のバーテンダーに未知の生命体を見るような視線を浴びせられ、俺は首をひねるばか
 りだった。なぜ彼らが驚いているのか、まったく理解できなかった。だが、それも無理から
 ぬ話だろう。なにせ当時の俺は、ハルカ以外の人間にカクテルを振る舞った経験がなかった
 のだ。自分の腕前が客観的に見てどの程度かなんて、想像してもみなかった。
  師匠はいるのか、いつからバーテンダーの仕事をしているのか、料理のほうはどうなの
 か。お偉方たちが矢継ぎ早に質問をしてきて、俺はそれにひとつずつ丁寧に答えていった。
  俺のカクテル作りは、基本的には独学だ。強いて師匠に近い人物を挙げるなら、大木戸さ
 んがそれにあたる。親父に連れられてホテルのバーを訪ねた二十歳の誕生日以来、彼のカク
 テルの味は俺の舌に滲みついている。
  バーテンダーの仕事はしたことがないが、腕に自信がないわけではなかった。ヒカリとの
 共同生活の最中、昼夜を問わず酒に溺れていた俺は、高いものから安いものまで、手に入る
 アルコール類は片っ端から飲んだ。趣味でカクテルと料理を作りはじめたのもそのころだ。
 どちらも大木戸さんを手本に試行錯誤を重ねた。
 「まだまだ未熟ですけどね。所詮趣味ですから」
  恐縮しきって頭を下げる俺に、お偉方たちは言ったものだ。
 「きみ、フランスに来る気はないか?」
 「……はい?」
  それが俺の、バーテンダーとしての第一歩だった。


 「経験は裏切らないってことさ。人と違ってな」
  俺はシェーカーを振り、シニカルな微笑をシゲルに向ける。
  遡ること一年まえ。俺はフランスでの武者修行を終え、銀座にある二号店の切り盛りで忙
 しい大木戸さんに代わって、このバーのマスターに就任した。そこからはとんとん拍子だっ
 た。俺が名のあるカクテルコンテストで優勝を果たすと、評判は瞬く間に広まり、バー・マ
 サラの夏見智史と言えば、今や新宿界隈ではちょっとした有名人だ。
  成功の秘訣があるとすれば、それは経験。
  八年間趣味でカクテルと料理を作っていた俺は、知らず知らずのうちにバーテンダーとし
 てじゅうぶんな技量を身につけていた。言うなれば、八年間コツコツと下積みをしてきたよ
 うなものだ。
  それだけじゃない。榊さんの会社では根気の大切さを教わり、涅槃では経営のノウハウを
 学んだ。清掃業者で叩きこまれた掃除のテクニックは今でも実践しているし、農家からはい
 つも新鮮な野菜を届けてもらっている。それ以外にも、こうしてバーテンダーとして働くま
 での過程で、役に立たなかった経験なんてひとつもない。
  ――すべての経験が繋がって、今この瞬間、俺をこのカウンターに立たせている。
  ここまで微動だにしなかったシゲルの表情が、にわかに険しくなった。
 「図に乗るなよ。僕がその気になれば、この程度の店――」
 「潰してやる、か? 自営業のバーテンダーに買収作戦は通用しないぜ?」
  仮にテナントを追い出されたとしても、別の場所に店を開けばいいだけの話だ。
  カクテルを作る二本の腕さえあれば、俺はどこに行ってもやっていける。
 「俺には経験と、身体に染みついた技術がある。この財産は、あんたには奪えない」
  万感の思いを込めて、完成したカクテルをシゲルに差し出す。
  俺に天職を示してくれたマティーニ。材料はそれと同じ比率のドライ・ジンとドライ・ベ
 ルモット。そこに少量のリカールとホワイト・ペパーミントを加えてシェーク。
  アルコール度数が高く、飲むと酔い潰れやすいことからこの名前がついた。

 「どうぞ。ノックアウト≠ナす」

  カクテルを出されるや否や、シゲルは食いつかんばかりの勢いで立ち上がった。
 「貴様、僕を侮辱しているのか!」
  ほんの数秒まえまでの取り澄ました態度は見る影もない。マスコミの挑発には慣れていて
 も、俺に嘲りを受けるのは我慢ならないらしい。
  これには偶然居合わせた客たちも驚いたようで、店内はたちまち緊張感に包まれた。
  そんなことおかまいなしに、シゲルは続ける。
 「これで僕に勝ったつもりか? 笑わせるな! バーテンダー風情になにができる!」
 「おいおい、政治家をやっていてそんなことも知らないのかよ。周りを見てみろよ」
  テーブル席に首をめぐらせ、はっと息をのむシゲル。
  俺と俺のカクテルを愛する客たちが、いっせいにシゲルに向けて不敵な笑みを浮かべる。
 政界、財界、産業界に芸能界――ありとあらゆる業界の有力者たちが。中にはシゲルと因縁
 のある者もいるだろう。
 「ここにいる客は、みんな俺の大事なお友だちだぜ」
  たしかに、バーテンダーにできることはたかが知れている。
  だが、そんなのは問題じゃない。バーテンダーという職業の醍醐味は、極上の美酒と魂の
 癒しを求めてやってくる客との心の交流にこそあるのだ。
  強い絆で結ばれた上客たちの後方支援を受け、俺はシゲルに渾身の一撃を叩きこむ。
 「あんたがどんな姑息な手段を使おうと、この人脈は決して断ち切れない」
  シゲルはもはや憎悪を隠そうとせず、呪い殺すようなまなざしを俺に向けていた。
  満身創痍の獣が低くうなる。
 「まだだ……まだ貴様を失墜させる方法は残っている。人海戦術を駆使すれば、貴様が築き
 上げた信用などたちどころに……」
 「残念だが、ひと足遅い」
  俺はそろそろ時間であることを確認し、店内のテレビの電源を入れた。
  若い女子アナのはつらつとした声が、俺とシゲルの間に割りこんでくる。

 「今週のグルメリポーターは、人気声優の伊万里・シュレディンガー・光子さんで〜す!」
 「は〜い! 私は今、新宿のとあるバーに来ています!」

  液晶画面の中で、何年経っても変わらない美しい金髪のツインテールが揺れる。声優の枠
 を飛び越えて、タレントとして売り出し中のヒカリだ。映像はちょうど、彼女がグラスを磨
 いている俺にあいさつをしたところ。
  テレビの音量を下げ、シゲルにとどめを差す。
 「一応教えておいてやるが、この番組は全国ネットだ。後手に回ったな」
  これで夏見智史の名前は日本中に広まった。今後さらにメディアとの関係を深めていけ
 ば、もうシゲルに俺の成りあがり≠止めることはできない。
  よって、この復讐対決は――

 「俺の勝ちだ、シゲル」

  稲妻のような恍惚が体内を通り抜ける。人生を賭けた戦いに勝利したという達成感、誰よ
 りも尊敬し憎んだ男を出し抜いたという満足感、非力だった過去の自分への優越感。それら
 がカクテルのようにないまぜになり、圧倒的な酩酊感をもたらす。
  復讐の甘さは、クセになる。
  後塵を拝したシゲルは、後の先を打とうと必死に策を模索しているようだった。痩せこけ
 た頬に汗を流し、俺をにらみつけたまま、しばらくまんじりとも動かなかった。なまじ頭が
 いいばかりに、自分が劣勢に立たされているという事実を受け入れられないのだろう。
 「認めない……僕が貴様ごときに敗れるなんて、絶対に認めないぞ……」
 「あんたが認めようと認めまいと、俺の地位は揺るがない。勝敗は決したんだよ、シゲル」
 「くそっ……! くそっくそっくそっくそっくそっ!」
 「はっはっは。いい気味だ。動画にして保存しておきたいくらいだな」
  カウンターにグラスが浮き上がりそうなほど激しく拳を叩きつけ、断末魔のうめきを漏ら
 すシゲル。
  憎き仇敵が負けず嫌いの子どものように悔しがる様を、俺は高笑いとともに見下ろす。十
 年以上もの間、ずっとこのときを夢見てきたのだ。客の目さえなければ、腹を抱えて床の上
 をのたうち回っているところだ。
  さて、約束どおり、敗者となったシゲルにはペナルティを科すとしよう。
 「近いうちに、あんたを地獄に突き落とす。首を洗って待ってろ」
  シゲルが力尽きたかのように、ずるずると床に膝をつく。
  こうして、俺とシゲルの復讐対決は、俺の逃げきり勝利で幕を閉じた。


  転職に次ぐ転職の果てに、俺はマサラのマスターになった。
  その結果として手に入れたのが、大木戸さんの代から引き継いだ巨大なワインセラーだ。
  シゲルとの復讐対決に勝利して半年。
  俺とハルカはマサラの貯蔵室で、そのワインセラーを前にしていた。
 「本当にやるの……?」
 「ああ。落し前はきっちりつけておきたい」
  何百本というワインの瓶の底が、無数の監視者のようにじっと目を光らせている。
  俺は先日店に電話をかけてきたカスミの言葉を思い出す。
 「シゲルさんは私のことを愛していないかもしれない。でも、私は彼を愛しているんです」
  ――だからあのICレコーダーは使えません。
  涙で途切れ途切れになったその言葉は、いつかの夜に俺が月明かりの公園でした質問への
 返事であり、どんな仕打ちを受けようとこの先もシゲルのそばにい続けたいという彼女の意
 思表示でもあった。
  ならば、シゲルに引導を渡すのは彼女の仕事ではない。
  俺の仕事だ。
 「馬鹿な夫ですまない」
 「どうせ行くなって言っても行くんでしょ。もう好きにしなさい」
  はじめは難色を示していたハルカだったが、今は諦めたように夫の自分勝手な決断を受け
 入れてくれている。理解のある妻でよかった。これで心おきなくシゲルに永遠の別れを告げ
 られる。
  俺はワインセラーの奥に手を伸ばし、そこからこの日のために隠していたシゲルへのプレ
 ゼントを抜き取る。
  この半年間、シゲルは眠れぬ夜を過ごしていたに違いない。俺がいつICレコーダーを裁
 判所に提出するかと、公務中も戦々兢々としていたことだろう。
 「待っていろよ、シゲル。もうすぐ楽にしてやる」
  前回の襲撃は不本意な結果に終わったが、今回は絶対に成功させてみせる。
  手のひらに伝わる、冷たい死の感触。黒光りする、命を刈り取るために作られた道具。一
 丁の回転式自動拳銃――リボルバーをその手に握りしめ、俺はつぶやいた。

 「俺の復讐は、甘いんだ」


                         エピローグに続く
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